世界で最初に原爆の被害を受けた広島が、再び国内外の関心を集めている。ウクライナ戦争を機に核戦争が起きるのではないかという不安が世界的に高まってきたのと、去る5月にG7(世界主要7カ国)の首脳会議がここで開かれたからだと思われる。その広島の戦前から原爆投下直後までの歴史を伝える特別展『広島の記憶』が、8月27日まで、広島市西区の泉美術館で開かれている。戦前の広島はどんな町だったのか、それが原爆投下でどう変わったかがよく分かる特別展だけに、広島の歴史に関心を持つ人たちにぜひ見学を勧めたい。
特別展は公益財団法人・泉美術館と中国新聞社の主催。今回の特別展の狙いを、主催者はこう述べている。
「特別展では『戦前の広島』に着目し敗戦後の『占領下のヒロシマ』との2つの視点からその歴史を考察していきます。『戦前の広島』では、原爆で多くの記録が焼失したなか奇跡的に残った資料などから、風情ある川の都広島が軍都へと向かった経過を振り返ります。『占領下のヒロシマ』では、連合国軍の統治下にあった日本でプレスコードという言論統制のなか日本の主権が回復する1952(昭和27)年まで原爆の被害を公表できなかった事実を検証していきます」
会場に入ってまず目を奪われるのは、戦前の絵葉書を複写した写真である。町の繁華街を走る路面電車や、市内を流れる川でボートをこぐ学生たち、商店街を行き来する市民、子どもたちによる相撲大会などを写した絵葉書が並び、戦前の広島が、賑わいと活気のある風情豊かな町であったことを忍ばせる。それを一層印象づけるのが、画家の四國五郎や福井芳郎が、戦後になって描いたカラフルな戦前の広島の街の絵だ。
そんな広島の町が急速に「軍都」と化してゆく。1894(明治27)年に日清戦争が勃発し、広島に大本営(陸軍と海軍を支配下に置く最高統帥機関)が置かれたからだ。会場には、広島大本営に入る明治天皇を描いた錦絵や、広島大本営跡、臨時帝国議会仮議事堂、街を行進する兵士、兵士たちが戦地に向かう船に乗り込んだ宇品港などの写真が続く。それに、広島には、陸軍糧秣支廠、陸軍被服支廠、陸軍兵器支廠などが設置され、民間の軍需工場も活気づいた。
その後の日本は、日露戦争、第2次世界大戦、日中戦争、ついには太平洋戦争へと突入する。それに応じて、広島も高度な「軍都」として発展を遂げる。特別展は、こうした経過を豊富な資料で跡づける。
ところが、一発の原爆が、広島の街を焼き尽くす。会場には、1945(昭和20)年9月から10月にかけて広島を上空から撮影した写真が展示されている。どれも、一面焼け野原の写真で、壊滅した広島の姿に息をのむ。原爆が投下された8月6日に市内の御幸橋で、倒れ込み、うずくまる人たちを撮った松重美人の写真や、同年9月に原爆ドーム周辺を撮った佐々木洋一郎の写真も展示されており、思わず足を止める。
広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』(1979年、岩波書店刊)によれば、当時の広島市の戸数は約7万6000だったが、その92%が被害を受けたという。そして、直接の被爆人口は35万人前後だったと推定され、1950年までの5年間にほぼ20万人が死亡したとしている。
辛うじて生き延びた被爆者の生活は苦難を極めた。会場には、写真家・土門拳(1909~90)が1958年に出版した写真集『ヒロシマ』(研光社)が展示されている。彼は、週刊誌の仕事で57年に初めて広島を訪れ、被爆地の惨状に驚く。これを伝えるのが写真家の使命と決意し、何回も広島を訪れて被爆者を取材した。
土門が残した取材ノートも展示されている。それには、「広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは、『ヒロシマ』を忘れていたというより、実は初めからなにも知ってはいなかったのだ」「『ヒロシマ』は生きていた。それをぼくたちは知らなさすぎた。いや正確には、知らされなさすぎたのである」と書かれている。
特別展は、広島原爆に関する海外資料や報道資も紹介している。すなわち、「なぜ広島に原爆が落とされたのか?」「広島の原爆は、海外でどのように報道されたのか?」「占領下のブレスコード」といった諸点に肉薄しており、見学者を引きつける。
これにより、原爆を投下された広島に関する初の現地ルポが、ハワイ生まれの日系二世のジャーナリスト、レスリー・ナカシマ(日本名・中島覚)によって初めて書かれたことを初めて知った。それは、1945年8月31日付のニーヨーク・タイムズに「記者が見た、消えた広島」「原爆の一撃で街は消えた、と彼は地域を視察した後に語った」との見出しで掲載されたが、なぜか放射能による被害に言及した部分は削除されていた。
特別展を回って、私が最も強い印象を受けたのは、「プレスコード」がもたらした日本への影響である。
ブレスコードとは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が1945年9月19日に発令した「言論及び新聞の自由に関する覚書」のことである。つまり、新聞や雑誌による米国批判、軍国主義の宣伝などを禁止するというものだったが、真の狙いは原爆に関する報道を禁止することにあった。当時、米国政府にとって一番気になっていたのは、新聞や雑誌などにより原爆製造に関する極秘情報が他国に漏れることと、残酷な原爆被害の実相が世界中に伝わることだったと思われる。だから、原爆に関する報道に対し厳しい検閲で臨んだわけてある。会場には、検閲のため作品の一部を削除せざるを得なかった詩人・栗原貞子の詩集『黒いて卵』や、作家・大田洋子の『屍の街』も展示されている。
日本のメディアが原爆に関する報道を取り戻したのは、日本が独立を回復した1952年4月28日であった。つまり、日本における原爆報道は「9年の空白」を余儀なくされたわけである
「9年の空白」は日本社会に多大な悪影響を及ぼした。まず、この間、原爆に関する貴重な資料が多数失われた。それに、原爆被害の全容が明らかにならないまま長い歳月が過ぎたから、被爆者への治療や援助、放射能による後障害の解明が遅れた。
特別展を見て、私は「プレスコード」を主導した米国政府へ改めて強い憤りを覚えた。と同時に、被爆直後に被爆に関する資料や記録を命がけで守った人たちに尊敬の念を抱い
た。
特別展終了後は「図録」で
特別展は8月27日まで。が、その後も、手軽に特別展の概要を見ることが出来る。泉美術館が特別展の図録『広島の記憶 HIROSHIMA』を発行しているからだ。1000円。インターネットで泉美術館と検索すれば同美術館のホームページが出てくるので、そこで購入できる。
<泉美術館の所在地は広島市西区商工センター2―3―1 エクセル本店5階。広島電鉄宮島線草津南駅から徒歩7分。電話082-276-2600>
初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13184:230817〕