③ロンドンでの活動
1945年5月、私はニューヨークからロンドンに向かった。一か月ほど後、英国で第五回パン・アフリカ会議が開かれ、私は組織委員会の秘書役に。会議には全世界から二百人余が出席し、アフリカ民族主義(植民地主義・人種差別・帝国主義に対する反逆)を謳い、マルクス主義的社会主義を基本原理として採用した。
当時、私は実に貧しかった。いつも下町の大衆食堂に入って茶を一杯飲み、懐が許せばブドウパンかロールパンを一つ買って、ここに集まる様々な人々と政治について何時間も議論した。ある日、黄金海岸(コート・ダジュール)に戻っていた友人から手紙が来、統一黄金会議の総書記になってほしい、と依頼があった。在米・英での私の実績を知る彼が推薦した、という。給料は一カ月百ポンドで、他に自動車を一台付けると付記してあった。総書記という仕事は実に魅力的で、外国で覚えた党組織の経験を母国の民衆のために生かせる、待望の機会が遂に来たと思った。
④黄金海岸に帰って
当時、黄金海岸はよく待遇され、よく管理されたモデル植民地と考えられていた。この平和な国が、短時日の後に、アフリカの復活と復興の尖兵になろうとは、世界で誰一人予想もしていなかった。1920~40年代後半にかけ、この国は政治的に大きく目覚め始めた。イギリスのバーンズ卿はアフリカ人の族長たちや一部のエリート層と相談し、「バーンズ憲法」を制定した。それを一部の者は自治に向かう偉大な第一歩と歓迎したが、政治的に目覚めている層はまもなく幻滅を感じ、その廃止を扇動し始めていた。
こういう情勢の下に47年12月、統一黄金会議が誕生する。初めは大衆にも族長たちにも支持されていず、当然大きな影響を及ぼすことはできなかった。私が総書記に招かれたのも、これを実のある大衆運動にしたいという願いからだった。
国内に黄金会議の支部が十三あるとの触れ込みだったが、実際は僅か二つに過ぎず、いずれも活動していなかった。私は旧型の車で全国を回り、時には鞄一つを抱え徒歩で国の隅々まで歩き回って、集会を開いて人々と会い、何百回も演説を重ねた。
翌年2月20日、私は首都アクラでの大集会で演説した。28日に復員軍人の平和デモが行われ、ちょっとした行き違いから警官隊との街頭での衝突に発展する。警官隊を指揮するヨーロッパ人の警部が部下に発砲を指令。復員軍人二人が即死し、五人が負傷した。アクラの繁華街に報せが伝わり、民衆が激高~全市に騒擾が起こる。暴動と略奪は数日間続いた。外資系の大きな会社など多くの建物が炎上し、死者二十九人に負傷者二百三十七人を出した。
⑤逮捕と拘留の試練
何日か後、私は警察に拘引された。所持品の中に、ロンドンで貰った未署名の共産党の党員証と「サークル」の文書があり、嫌疑の根拠となった。私はイギリスでは極右から極左までの政党に関係したが、それは後日故国に戻った際に資するためだったといくら説明してもダメ。私は空路ガーナ第二の都市クマシに移送され、刑務所に拘留された。
私は約八週間の拘留後に釈放されたが、調査委員会は私について、こう認定した。「エンクルマ氏が書記を引き受けるまでは、統一黄金会議は事実上なんの活動もしていなかった」。そして、「氏は在英中に共産党に加入し、西アフリカ・ソヴィエト社会主義共和国連邦の先導者役を果たしている、と見られる」と指摘。想像上の産物である「ソヴィエト」という言葉を勝手に持ち出し、私に「注意人物」というレッテルを無理やり張ろうとした。
⑥仲間割れの始まり
統一黄金会議の実行委員会は私が「同志」という言葉を常用することに激高し、私が共産主義者である証拠だと決めつけた。私がガーナ大学を作ろうとしていたことも越権行為だと非難した。が、私は二十五ポンドの月給のうち十ポンドを出し、最初の十人の学生のための腰掛と机などに使う備品を購入している。1948年7月20日の開校式を私は忘れない。
ガーナ大学は着実に成長した。一年後には学生の数は二百三十人に達し、入学希望者は千人を超えた。この大学が成功した後、私は全国にガーナ国立中学校と専門学校を十二以上つくった。しかし、実行委員会は私の成果に何の好意も示さず、激しい不満を投げ続けた。私はまた新聞の発刊にも着手し、印刷機を分割払いで購入。少年らスタッフ五人に手伝ってもらい、同年9月3日、私の新聞『アクラ・イヴニング・ニューズ』を発刊した。
この新聞は運動の前衛となり、その紙面を通して民衆は毎日、自由のための闘い、腐敗した植民地制度と帝国主義の仮借ない非道さを心に刻み込まれた。資金難からペラ一枚で出発したが、「散歩者」というコラムが評判を呼び、群衆は貪るように待ち構え、字の読めない人々は仲間を作って、読める人に記事の中身を読んでもらった。見出しを兼ねて載せた標語が人々の口に上る。「我々は平穏な奴隷の身分より、危険の伴う自治を選ぶ!」
⑦我が党ついに誕生
6月12日の日曜日、私は約六千の聴衆を前に、会議人民党の成立を発表した。興奮した群衆の耳を聾するばかりの歓呼に迎えられ、壇上の私は胸が一杯になった。「今すぐ自治を」と要求する理由として、私は(イギリスが)労働党政権下の現在が有利であること、この国(黄金海岸)は我々の国であり、我々は搾取と抑圧の下に奴隷として生きていくことをこれ以上欲しないこと、我が国の民衆が物心両面で幸せを味わえるのは自治政治の下においてのみである、と訴えた。
群衆は歓呼して同意し、私は青年組織委員会が独立の政党「会議人民党」として生まれ変わることを告げた。私は総書記の辞職~統一黄金海岸会議からの脱退を声明。群衆や代表者たちは歓声を上げ、圧倒的な支持の念を示した。ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をさえ捧げよう、と私は誓った。この時から闘いは、反動的な知識人と族長、イギリス政府、「今すぐ自治を」と叫ぶ目覚めた大衆の三つ巴で行われることになったのだ。
会議人民党の成功の多くは、婦人党員の努力による。婦人たちは重要な戸外のオルガナイザーになった。宣伝部員の任務を帯び、無数の町や村を歩き回り、党に連帯と協同をもたらす多くの仕事を果たした。彼女たちは事実、真に熱情的だった。ガーナのために、もし必要なら、私の生きた血をさえ捧げよう、と私は誓った。
⑧積極行動は広がる
私はインドで道義的圧力がイギリス帝国主義に勝利したことに注目。組織的、合法的な非暴力手段による積極行動を呼びかけた。この積極行動が波紋を広げ、私は伝統的な地方権力のガ族協議会から糾問された。積極行動とは、国内の帝国主義勢力を攻撃するためのあらゆる合法的、組織的手段のことだ、と私はパンフなどで主張した。積極行動の武器は、合法的な政治扇動、新聞、教育運動である。そして最後の手段は、インドでガンジーが用いた絶対非暴力を原則とするストライキ、ボイコット、組織的な非協力の適用である。
私は49年11月20日、ガーナ人民代表者会議を招集。未曾有の大集会となり、五十以上の組織からの代表者が出席した。大会は「黄金海岸の民衆は、直ちに自治を要求する」と宣言。挑戦を受けた政府は攻勢に出、私の言論は官吏侮辱罪に当たるとし、裁判へ。私は罰金三百ポンドを言い渡されたが、幸いみんなが募金してくれ、私は運動を継続できた。
イギリスのサロウェイ植民相が私と会談し、脅しをかけ、懐柔を計った。が、私は積極行動の必要を宣言。翌年1月11日、全ての商店が閉ざされ、列車がストップ。労働者たちは仕事をボイコットし、国の全経済生活が停止した。新聞各紙は積極行動を続けるよう、勤労者を扇動。警察の摘発を招き、各紙は発行停止となり、編集者たちは治安妨害で投獄に。同月21日夜、私の仲間の大部分が逮捕~収監され、私は翌日に捕まった。(民衆は最後まで私を支持するだろう。だから私も絶対に彼らを失望させてはいけない)と、私は考えた。
⑨幽囚の壁を超えて
私に向けられた様々な告発に対して自分を弁護するため、私は法廷に出た。一切の出来事がかなり正確に論告されて三年の刑を宣告され、アクラに連れ戻されて要塞刑務所に入れられた。政治犯の私が普通の犯人並みの扱いを受けると知り、少なからずショック! 超満員の監房の隅にたった一つのバケツが、便器として十一人向けに与えられていた。
食物は量も少なく、質も悪かった。食事は全部監房で摂ったが、そのために一層不味く感じられた。刑務所の外に居る党と連絡を保つ唯一の方法は書くことだ。私は所内で目ざとく鉛筆の切れ端を拾い、便所の落し紙に記し、外の同志の許にうまく届けるすべを見つけた。総選挙が目前に迫っていた。私が獄中から立候補(法律的には可能)し、もし選挙に勝てば、政府が私を獄中に置いておくことは出来なくなるだろう、と分かっていた。
私は刑務所長を通して外部と大っぴらに交渉し、供託金を納め、選挙委員会を組織した。首都アクラの中央区で立つことにした。私が当選したら、政府が私を釈放するだろうと人々が考えたからだ。朝の四時頃、私が当選したという知らせが届く。有効投票23,112のうち22,780という黄金海岸始まって以来の最多票を獲得したのだ。
アクラの街々では群衆の興奮が絶頂に達した。夥しい民衆がデモを興し、私を救い出そうとする気勢を示した。党の執行委員会は、私の釈放について交渉するために、総督に面会を求めた。総督は面会を承諾。面会後、私の釈放を認めた。51年2月12日正午前、私は出獄した。生涯を通じ、この時ほど群衆がぎっしり固まっているのを見たことはない。
▽筆者の一言 人民の圧倒的支持によりエンクルマは以後、政府事務主任~首相に就任。60年、交渉による平和的な方法でイギリスからの独立を勝ち取り、共和制を採用して初代大統領の座に。アフリカ諸国の独立支援と国家間の連帯に力を注ぎ、ギニアとのアフリカ諸国連合を樹立。「アフリカ独立運動の父」と称えられ、レーニン勲章を受ける。半面、内政面では独裁色を強め、三権分立無視~一党独裁制を敷いて反発を呼ぶ。66年に北京へ訪問中にCIAに支援された軍事クーデターが勃発~失脚し、ギニアに亡命する。回顧録の執筆やバラの栽培などをして過ごし、72年に癌により62歳で病死。前半生の赫赫たる足取りとは対照的な晩年の凋落ぶり。人の運命の儚さをまざまざと示し、そぞろ哀れを誘う。
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