酔生夢死 「慕情」の香港といま

著者: 岡田 充 おかだ たかし : 共同通信客員論説委員
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 「香港マンダリンオリエンタルのピアノ弾きは何と、何と!Love is a many-Splendoredthing のリクエストに応えられず!」 SNSにこう書き込むのは60歳代の日本人観光客だ。香港旅行中に体験した「ビックリ仰天」ぶりが伝わる。
 「Love is a many-Splendored thing」とは、香港を舞台にした1955年のハリウッド映画「慕情」の主題歌。アカデミー賞歌曲賞を受賞し、カバー曲も多いスタンダードナンバーだ。だから香港の超有名ホテルのラウンジで、リクエストに応えられない今の香港をいぶかったのだ。
 映画「慕情」は、国共内戦から朝鮮戦争へと急転変する東アジア国際政治を背景に、米特派員と女性医師の悲恋を描いた韓素音(ハン・スーイン)の同名小説の映画化。香港島の頂上ビクトリアピークから見下ろす香港の街並みや、トラムや人力車でごった返す当時の風景は、映画を観た世代にとって「香港の原風景」にもなった。
 かく言う筆者も1986年に香港に通信社特派員として赴任した時は、「慕情」の舞台と、現実の香港の街並みを重ね合わせたことが何度もあった。日本や中国大陸から知り合いが来れば、ビクトリアピークから「100万ドルの夜景」を眺め、広東料理を楽しんだ後は、東西文化が混じり合い、隠微で怪しい「魅力」にあふれた街を案内した。
 冒頭の観光客によると、かのピアニストは白人男性で発音からするとロシアないし東欧出身者ではないかという。そうだとするなら、映画「慕情」を観たこともその主題歌を知らずしても不思議はない。「慕情」の香港に普遍性はないのだ。だが観光客は「香港でピアノ弾いているなら知らなくちゃ」と後に引かない。人は自分の経験を「普遍性」があると信じたがる。
 2019年の大規模抗議デモから、北京政府が2020年6月に香港政府を飛び越え「国家安全法」を導入した過程を振り返れば、今の香港政府が「英植民地」の香港イメージを可能な限り払拭し、中国の特別行政区として中国化された香港イメージを押し出したいのだ。
 中国が強引に国安法を導入したのは、デモの一部が過激化したこと、米情報機関と関係がある「国際人権組織」から支援を受け、「香港独立」というレッドラインを踏んだためだった。これを認めれば、台湾をはじめ新疆ウイグルなどの分離独立の動きを刺激するだけではない。共産党統治自体が揺らぎかねないのを恐れた。
 香港観光は2019年までは、英植民地時代の怪しげなイメージが「売りもの」だった。しかし今は違う。香港の「中国化」に歯止めはかからないだろう。想像するに、ホテル側も敢えて英植民地時代のヒット曲をピアニストに習得させなかったのではないか。「慕情」の香港はもはや映画の中にしかない。(了)
 

映画「慕情」のポスター

 
初出:「岡田 充の海峡両岸論」より著者の許可を得て転載ホーム (weebly.com)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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