チリ・クーデタから50年 アジェンデは「民主的な社会主義」を目指していた(下)

≪アジェンデとカストロの厚い信頼と親交≫
 チリでのクーデタの日、モネーダに空と地上から弾丸が降り注ぐ中、アジェンデの娘、ベアトリスとイサベルは「私たちもここに止まります」と訴えたが、父親は「今日、ここで何が起きたのか、人民連連合政権中に何があったのかをフィデルに伝える義務がある」と諭し、裏口から送り出した。アジェンデとカストロは厚い信頼関係で結ばれていたのである。
 アジェンデが初めてカストロに出会ったのは、1959年1月、革命が成功し、カストロがハバナに入城した直後である。ベネズエラの大統領就任式に出席したあとハバナに立ち寄った。ポケットには数ドルしかなかった。人民社会党(旧共産党)のカルロス・ラファエル・ロドリゲスと出逢い、「マイアミの市長がパレードの車に乗っている。革命といえるものなのか。帰るよ」と言うと、「とんでもない。指導者に会ったら」と説得された。
 午後に電話があり、迎えの車でカバーニャの要塞に向かった。ゲバラが喘息の発作で話ができなくなると、不意にフィデルが現れた。二人はアジェンデの政治家としての活動について良く知っていた。アジェンデは、革命理念のすばらしさ、モラルの高さ、国民との自然な交わりなどに感銘を受け、キューバ革命にラテンアメリカ諸国の将来の姿を重ね合わせた。カストロも初めて会ったその日から、アジェンデの誠実さや指導者としての優れた資質を見抜いていた。

≪定説の見直し—「武装闘争主義者カストロ」≫
 世界に広がる「定説」からは想像し難いが、カストロは「社会主義へのチリの道」を高く評価していた。チリ革命や、とくにキューバについては、今では多くの資料が出され、様々な「定説」が見直しを迫られている。「武装闘争主義者カストロ」もその一つである。
 1967年にはハバナで「ラテンアメリカ連帯大会」が開かれている。「ゲリラの大会」と言われたが、このときに採択された宣言では、基本路線は武装革命と謳われてはいたものの、平和的な道も可能とされていた。大会にはアジェンデも参加しており、常設機関のラテンアメリカ連帯機構の設置を提案し、認められている。
 カストロは1971年末に3週間にわたりチリを訪問している。北から南まで、一日に何度も演説し、声が出なくなるほどであった。
 いわゆる「急進派」との会合も行われた。アジェンデの漸進的移行政策を批判し、一挙に社会主義化を進めるべきだとして土地や工場の占拠を続けていた勢力であり、カストロの訪問に大きな期待を寄せていた。これに対し、カストロは「チリ革命はアジェンデの革命である。アジェンデ無くしてナッシングだ。外国人の自分にはチリについては判断できないが、キューバの経験から言うならば、体制転換は長い年月がかかる漸進的な過程である。米国は何をするかわからない。アジェンデのもとで統一していくことが不可欠だ」と諭した。だが、その後も土地占拠や工場占拠は続いた。

≪キューバの新しい社会主義≫
 「キューバ革命は社会主義革命である」とカストロが宣言したのは反革命軍の上陸前夜の1961年4月16日、米国の空爆のために死亡した市民の葬儀の席上であった。
 直後のメーデーでカストロは「識字教育と農地改革こそが社会主義なのだ」と語っている。
 革命前には文字を読めない国民が多数を占め、米国の砂糖会社が農地の70%以上を支配していた。革命成功後、多くの若者が識字教育のため農村に向かったが、暗殺された。農業改革法が制定されるや、米国の本格的な干渉が始まった。マッカーシズムの影響で反共主義が強かったキューバだが、当たり前の政策を実施しただけで、なぜ米国は武力侵攻までするのか—多くの国民はいわば自然な形で社会主義を受け入れた。「初めにマルクス・レーニン主義ありき」ではなかったのだ。
 社会主義宣言のあとも参加民主主義、平等主義体制、第3世界主義など、ソ連の体制とは一線を画す政策がとられてきたことはよく知られている。
 平等主義体制は、経済発展という点でも、また人間の多様性という点から、すでに1980年代には限界が指摘されていたが、米国の封じ込め政策のために経済低迷が続き、国民の生活を守らなければならず、転換できなかった。口火を切ったのはカストロである。2005年11月、ハバナ大学の学生を前に、「平等主義はもはや維持できない。革命は自壊する。時代が異なるマルクスやレーニンの理論をそのまま当てはめることはできない。21世紀に相応しい社会主義とはいかなるものか。若い諸君は知の限りを尽くして考えてほしい」と訴えた。これを機に地域組織や職場や学校などで議論が繰り広げられ、2011年の第6回党大会で「新しい社会主義」への転換が決まった。
 こうして国有部門は縮小され、中小の民間部門や協同組合などが拡大された。教育と医療を除き社会サービスも有料となり、所得税も導入された。所得格差の存在を前提とした社会である。
 2019年に制定された新憲法では「キューバは社会主義国家である」と規定されている。ところが、「社会主義国家」のあとには長い形容詞がつけられ、「民主的で、主権を有する、法治主義と、社会正義の社会主義国である」となっている。ここからもキューバの人々が社会主義という言葉にどのような意味を込めているかが見えてくる。
 市場原理が働くもとで、しかも多様化する国民を前に、いかにして「すべての国民の解放」という革命の基本理念を維持するか。キューバの前には難しい課題が立ちはだかっている。
***
 今日、国際メディア網が世界を覆い、ステレオタイプなものの見方が浸透している。ウルグアイ問題についても、グローバル・サウス諸国がロシアの侵攻を非難しないのはロシアや中国との経済関係のためとされているが、未だに軍政のトラウマに苛まれ続けるチリの国民が、欧米諸国と声を合わせてロシアを非難することができるのかどうか。キューバも同様である。「制裁」の名のもとに、60年以上にわたり米国の経済封鎖や武力干渉やテロ活動など、戦争状態に置かれている。
 通説や常識にとらわれことなく、少し目を転じれば異なる世界がみえてくる。

初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1279:231012〕