太田哲男の『レイチェル・カーソン』(清水書院刊)――「環境の世紀」の到来を語った人(下)
カーソンの著書『我らをめぐる海』の中に、後の『沈黙の春』につながる点を見よう。先ず、エコロジー的な観点が随所に見られる。温かい水、冷たい水、澄んだ水、濁った水、ある種の栄養に富んだ水などが、プランクトンや魚類、鯨とイカ、鳥類と海亀などと、「断つことの出来ない絆」で結ばれているという記述。「食物連鎖」や「生物連鎖」に関わる記述もある。
次に、自然の破壊者としての人間という視点が、限定的ながら登場している。取り上げている事例は、インド洋モーリシャス島の鳩に似た鳥ドドの絶滅。ニュージーランドの巨鳥モア鳥の絶滅を始めとして多岐に亘る。カーソンの筆は、人間による自然の「デリケートな均衡」や「自然のバランス」の破壊、「森の破壊」を批判して、悲しみの調子を帯びる。
第三に、海にあくまで「未知で神秘なもの」を感じている点。「深海を探ったり、標本を採ったり、近代的な装置の全てを以てしても、私たちが遂に海の持つ究極の神秘を解決できるかどうか、誰も言うことは出来ない」。この自然観は『沈黙の春』に繋がっていく。
◇職を辞す
論文や著作による収入に接し、文筆に専念することも可能だとカーソンは考え始め、1952年に公務員を辞した。一六年ほどの公務員生活だった。翌年、東海岸最北部メーン州の海べりに別荘を建て、観察と読書と著述の生活に入る。別荘近くの海岸を歩き回り、潮だまりなどを観察。「海辺がいかに美と魅力に溢れた場所であることか」と記した。
57年、近くのマサチューセッツ州で蚊の撲滅のため、飛行機を使って農薬を散布~禁猟区で小鳥が沢山死んだ。これが彼女の『沈黙の春』(鳥たちが鳴かなくなった「無音の春」の意)執筆のきっかけとなる。国家ぐるみの大がかりな化学的「環境汚染」に反発。満身の怒りを込め、且つ周到な裏付けの下に世紀の労作が準備され、五年後の刊行に至る。
◇『沈黙の春』の内容
冒頭の「明日のための寓話」は、こう始まる。「アメリカの奥深く分け入った処」の町で、どういう呪いを受けたのか、若鶏は訳の判らぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。(中略)自然は、沈黙した。うす気味悪い。」。なぜ「沈黙の春」になったのか。それが以下の章で、順次説明されていく。
<化学戦が勝利に終わったことは一度もなかった>山間のゴルフ場に除草剤を撒く。芝生を整え、人間が「雑草」に一見「勝利」したかのよう。しかし、その除草剤が少しずつ川に浸み込み、水源を汚染すればどうなのか。カーソンは然るべき(科学的または統計的)裏付けがあることを示すべく、同書の巻末に全部で五八六に及ぶ詳細な注を付けた。
<そして、鳥は鳴かず>1930年頃以降、楡の木がオランダニレ病に罹るようになり、四半世紀後に害虫駆除のためにDDTのスプレーが始まった。その結果として、駒鳥の大量死が引き起こされた。この連鎖をカーソンは<楡の葉の汚染―その落ち葉をミミズが漁る―駒鳥がそのミミズをついばむ>という「禍の連鎖の輪」として説明した。
カーソンはまた、アメリカの国鳥である鷲の動向についても考察。卵の孵化率が五〇年代に顕著に減少していることを標識方式の徹底的な観察で確認する。研究者たちの観察や実験例などを基に、彼女は「鷲の数の減少はDDTなど化学薬品の影響」と推定している。
<死の川>DDTの「毒の連鎖」は、水中の生物にも及ぶ。53~54年、カナダ東部のミラミッチ川周辺で、パルプ原料になる針葉樹林を蝕む害虫駆除のために、DDTが空中散布された。その結果、肝心の害虫はあまり死なず、素晴らしい鮭の産卵場だったこの川で鮭が大量死した。殺虫剤スプレーの問題性を彼女は多面的に簡潔に記述。生態学的な見地からの位置付けに努め、殺虫剤散布に代わる方法を提起した。
害虫駆除のための有機殺虫剤の大量散布は、薬品の河川や湖沼への流入をもたらす。そうした事態が一般化したら、魚を主に食べている人々・民族はどうなるか? また、化学薬品の製造工場からの排水が下水に流れ込んだら? 海は、一体どうなる? とりわけ塩沢・河口・湾・入り江・瀬戸などの浅い海は? そこに住む生き物たちは?
有機殺虫剤の大量散布という現象には然るべき背景があった。第二次大戦で使用された殺虫剤は、戦後に生産過剰となり、新たな使用先を必要としていた。また、飛行機も戦後には生産過剰となり、新たな使用先を必要としていた。殺虫剤を空中から散布するのは、過剰品の素晴らしい捌け口となった、という訳である。
「空からの一斉爆撃」として紹介された実例は二つ。一つは、56~57年に農務省の指導によりペンシルベニア・ニュージャージー・ミシガン・ニューヨークなどの諸州でマイマイガ「根絶」のため、燃料油に溶解させたDDTを大量に空中散布したという例。もう一つは、58~59年にこれも農務省の指導下、アメリカ南部の火蟻(ファイア・アント)「根絶」計画による大量の化学薬品スプレーが実施されたという例である。
この箇所は、カーソンによる徹底的な行政批判である。農務省防除局は「目的のためには手段を選ばず」という考えで動いており、「毒薬の必要量も調べなければ、他の生物への影響なども科学的に考えずに、ただ駆除しなければならない、と大げさに騒ぎたてただけだった」。その上、「市民個人の侵すべからざる財産権を無視しようと圧力を加える」。彼女のここでの行政批判は、厳しく辛辣である。
<人間の代価>ここまでは主として自然界の問題を論じていたのに対し、以下の部分では人間の生活の場における殺虫剤の問題を扱っている。先ずは台所用殺虫剤、衣服用殺虫剤、庭園用殺虫剤などの問題性。また、化学薬品が食品にどれだけ残留物として付着しているかも論じられる。そして、汚染の地球的規模での拡散に着目。さらには、殺虫剤の乱用、政府のこうした問題への監視体制の不十分さ、化学薬品の「許容量」の問題など、そして、こうした状況への対応策も述べられている。
<科学者としての手腕>カーソンは「私たちみんなが<発癌物質の海>の只中に浮かんでいる」というある学者の言葉を引用。この状況を、伝染病の病菌との関連で説明している。予防が大切なのは、癌でも伝染病でも同様。伝染病の場合は、病原が人間の意志に反して広がった。だが、発癌物質は人間の手で広められている。安楽な生活を求めるために。
◇『沈黙の春』出版の後
反響の一つは、企業からの圧力。DDT以上の有毒性があると指摘されたクロールデンの製造企業ベルシコール社は、雑誌連載中の『沈黙の春』のクロールデンの記述には誤りがあるとし、原文通りで出版されるなら告訴も辞さないと主張した。が、カーソンの記述に信頼性を認める出版社側は相手にせず、ベルシコール社も告訴には至らなかった。
63年夏、ホワイトハウスでの記者会見で、時の大統領ケネディは農薬の害の問題化を肯定。『ニューヨーカー』に載った「沈黙の春」の内容を知っていた。大統領夫人ジャクリーンは農薬使用の話を聞くため、カーソンをホワイトハウスに招いた。
カーソンは一層高名となり、様々な栄誉を受ける。63年中にシュバイツァー・メダル、全米野生生物連盟の「年次保護者」賞、オーデュボン・メダル、アメリカ地理学協会のカラム・メダル等々。この年、翻訳が仏・独・伊・日など一四カ国で出され、翌年1月までに『沈黙の春』は六〇万部が印刷された。
この間に、癌がカーソンの体を蝕んでいた。64年4月、乳癌のため五六歳で死去。『沈黙の春』で、カーソンは合成化学物質と癌との関係について書いていた。いわば自己の命と引き換えに、この書を世に送り出したように映る。
▽筆者の一言 カーソンは二〇世紀の独特の位置を強調し、こう言った。「人間という一族が、恐るべき力を手に入れ、自然を変えようとしている」。一九世紀末までに見つかった工業的発癌物質は六つばかり。だが、二〇世紀になると、無数の化学的発癌物が現れ、「人間は、否が応でも毒に取り囲まれて生活しなければならなくなった」と記す。私は朝日新聞記者当時、1970年前後の「東大紛争」の折、「公害自主講座」で知られる宇井純さんを知り、休日に宇都宮の自宅まで押しかけて持論を詳しく拝聴した。宇井さんはその「反体制」ぶりを疎まれ、二十一年も東大助手に据え置かれた後、沖縄大教授に転じた。私は日本社会に瀰漫している度し難いアンチ「反体制」体質につくづく嫌気がさしている。
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