世界のノンフィクション秀作を読む(59) 小笠原弘幸の『ケマル・アタチュルク』(上)

小笠原弘幸(九州大学大学院准教授:イスラム文明史)の『ケマル・アタチュルク』
(中公新書) ――現代トルコ建国の父の横顔(上)

 旧オスマン帝国の英雄で新生トルコ建国の父とされるケマル(1881~1938)。その救国の英雄がアタチュルク(父なるトルコ人)と敬称されるに至る道程をイスラム文明に詳しい筆者が詳述する。ケマル無かりせば、現トルコは存在し得なかった、とまで私は考える。

 バルカン半島の港町サロニカで1881年、ケマルは下級官僚の後嗣ムスタファとして誕生。洋式の小学校に通う十歳の頃、父親が急死する。少年は生得の負けず嫌いで、他の生徒と喧嘩、教師に激しく殴打されて血塗れに。驚いた祖母が退学させたという逸話が残る。三年後、サロニカの幼年学校に入学。フランス語や数学が良くでき、リーダー的存在となる。
 マナストゥルの予科士官学校を次席で卒業。99年、帝都イスタンブルの陸軍士官学校に入学する。オスマン帝国の中心地イスタンブルは一九世紀末、七十万の臣民と十万の外国人を抱える世界最大級の都市だった。帝国軍の将来を担う人材を育成するエリート校にはこの時期、帝国末期と共和制初期に活躍する、錚々たる面々が在籍していた。

 最も親しかったアリ・フアト(ジェベソイ)は、イスタンブルの参謀本部に勤める父イスマイル・ファズル将軍の息子。将軍は息子の親友をいたく気に入り、事あるごとに屋敷へ招待した。フアトには一学年下で同じく軍人の家系のキャーズム・カラベキルという知己がいて、ケマルに引き合わせた。このカラベキルは、後にケマルの最も力強い味方にして、政敵となる。ケマルの二学年上には、青年トルコ革命(後述)で一躍英雄の座を勝ち取るエンヴェル、そして国民闘争の元勲の一人レフェトがいた。

 1902年、ケマルは既定の過程を修了して少尉に任官。成績優秀者上位四〇名のみに許される参謀科(後に「陸軍大学」に改組)へ進学し、エリート将校への道が開かれる。翌年に中尉、翌々年秋には卒業試験に合格、大尉となり、任命を待つばかりになった。
 当時のオスマン帝国陸軍は六軍構成で、規模の順に「軍団」「師団」「旅団」「連隊」「大隊」に編成。第一軍は帝都イスタンブルを守護する近衛軍。第二軍はトラキア地方、第三軍はマケドニア地方・・・と地域別に守護を担当。ケマルは故郷と縁のある第三軍配属を志望した。帝国にとってマケドニアが要地であることを認識していたからだ。
 マケドニアは、オスマン帝国内で最も近代化が進み、経済も発展している地域だった。半面、民族構成が複雑で、ブルガリア、セルビア、ギリシアの干渉に常に晒されていた。この地の安定こそが帝国の命運を左右すると、参謀科卒のエリートたちは認識していた。

 ケマルはシリア赴任を経て07年秋、上級大尉に昇進してマケドニアの第三軍に転属。盟友フアトとフェトヒが迎え、ケマルは自身が設立した団体「祖国と自由協会」が消滅(「統一進歩協会」に合併)したと聞き、やむなく、フアトらも加盟していた新組織に参加する。
 もう一方の「オスマン自由協会」は前年、サロニカの郵便局員タラ―トを中心に結成された新組織。少なからぬ青年将校たちが加わっており、士官学校で二学年上だったエンヴェルや一〇歳ほど年長の軍人ジェマルらが頭角を現しつつあった。

 ◇ガリポリの英雄
 08年夏、立憲制の復活を掲げ、エンヴェルら第三軍の若手将校たちが革命を目指し挙兵する。皇帝アブデュルハミト二世は鎮圧の手が失敗すると、あっけなく彼らの主張を受け入れた。三〇年に及ぶ専制は終わりを告げ、憲法と議会の再開が約された(青年トルコ革命)。英雄エンヴェルはドイツ駐在武官を拝命(六年後には陸相に就任)し、颯爽とベルリンに渡る。ケマルの盟友フェトヒはパリ、フアトはローマに派遣された。
しかし、ケマルはさしたる役割を担わぬままマケドニアに留まり、革命後まもなくリビアに派遣される。同年秋には西部国境方面を監視する任務に就いている。14年7月、サラエボ事件を機に第一次世界大戦が勃発する。翌年1月、ケマルは第一九師団長を拝命し、ガリポリ半島防備を担う。イギリス政府はダーダネルス海峡攻撃を決定する。
海相チャーチルは作戦を立案した。二度の海峡突破作戦に失敗し、連合国軍は海峡の北西に伸びるガリポリ半島の攻略を図る。同半島は長さ約八十キロ、幅は六~二十キロ。中央部は高地を成し、最高地点は標高三百メートルを超す。半島の守備は第三軍が担い、ドイツ軍事使節団の団長ザンデルス元帥が統括役だった。ケマルは実戦でドイツ人が指揮を執るのを批判し、元帥との仲は最初から険悪だった。

 4月25日、半島の南西岸アルブルヌに七万人もの連合国軍が上陸し、死闘が始まる。ケマルは麾下の歩兵連隊を丘の上に配置。浮足立つ兵を「死ね!」と叱咤し、決死の銃剣攻撃の気構えで対抗。要地の丘を確保することに成功、オスマン軍は防御線を構築できた。この戦果で彼は勲章を授与され、司令部の設置場所は『ケマルの地点』と命名される。
 積年のライバルの陸相エンヴェルもケマルを訪ね、最高位の勲章を授与。彼を右翼北部地域の司令官に任じ、位を大佐に昇進させた。両軍は塹壕を挟んで対峙~激戦が続く。劣悪な環境下で、赤痢やチフスが蔓延した。8月9日、連合国軍はトルコ側陣地に砲撃の雨を降らせ、最前線で指揮を執るケマルは胸部を負傷(懐中の時計に被弾)している。猛攻をしのぐ中、援軍が陸続と到着し、半島を防ぎ切った彼は多数の勲章を授与された。12月19日、イギリス軍は撤退を開始、苦戦の責任を問われた海相チャーチルは辞任していた。

 16年2月、アルメニアの要地エルズルムがロシアの手に落ち、ケマルの第六軍団が出動する。彼は准将に昇進し、「将軍(パシャ)」と敬われる身となる。ケマルの指揮下には参謀長を務めるイスメト大佐がいて、両者は認め合い、喫緊の仲となる。
翌年7月、アラブ戦線で戦う第七軍団の司令官にケマルが任命される。就任早々、彼は上司エンヴェルに抗議の書簡を送った。「ドイツ人は、戦争を長期化させることに利を得て、我々を植民地にしている」と。ドイツ側への不信は独りケマルに止まらず、上官であるジェマルらも等しく批判していた。10月、ケマルは司令官を辞任、イスタンブルに帰還する。

 ◇国民闘争の聖戦士(上)
 18年11月13日朝、ケマルはイスタンブルのアジア側、ハイダルパシャ駅に辿り着く。この日、六十隻を超える連合国艦隊がボスフォラス海峡に到着、宮殿沖に投錨していた。敵艦隊が海峡を我が物顔に往来し、あまつさえ宮殿を睥睨するなど、イスタンブルが帝都になって四世紀半、初めてのことだった。
 イスタンブルに戻ったケマルは同志たちと密談を重ね、現状打開への策を練る。オスマン政界は、統一進歩協会主流派が崩壊したため、再編へと向かっていた。協会は11月1日に活動を停止、それを受けて、非主流派が幾つかの新党派を結成していた。
 この頃、軍人として最も強い発言力を持つ一人のケマルは、事態打開へ様々な手を打つ。その一つは旧友フェトヒとの活動。フェトヒは統一進歩協会のリーダーとなるよう提案されながら、これを断り、新たにオスマン自由主義者民衆党を結成した。ケマルはこれに協力すると共に、その機関紙に出資、寄稿を重ね、同紙はケマルの英雄化に一役買う。

 この時期のケマルの同志は五人いた。政治家として活動するフェトヒにジャンブラト、元海相でケマルに劣らぬ名声を持つラウフ、そしてカラベキル。アンカラの第二〇軍団長であるフアトも、療養を理由としてイスタンブルに戻っていた。
また、憲兵隊総司令官レフェト(ベレ)も同志に加わった。彼は1881年にサロニカで生まれ、ケマルと同年同郷。軍が解体されていく中、憲兵の協力は重要だった。ほぼ同世代の彼らは、まもなく本格的に開始される国民闘争を牽引した、革命の元勲となる。まもなく逮捕されるフェトヒとジャンブラトを除く、ケマル、ラウフ、カラベキル、フアト、レフェトは、後の研究者に、国民闘争の「最初の五人」と称された。
 程なく、彼らの謀議には、イスメト大佐も加わっている。彼らは幾度となく市街のケマルの部屋に集い、来るべき祖国の将来について議論を重ねた。国民闘争初期のプランは、ケマルのこの部屋で、彼らに依って作り上げられたと言っていい。

 19年1月末、統一進歩協会関係者に対する一斉逮捕が行われる。カラ・ケマルやジャンブラトら協会の領袖たち三〇名ほどが次々と捕えられるが、ケマルは逮捕を免れた。軍の信頼厚いケマルを逮捕した場合、軍が蜂起する可能性が危惧されたのである。抵抗運動に加わりうる主要人物は、次々と逮捕されていった。
事態の悪化を観取したケマルたちは、イスタンブルでの活動に限界を感じざるを得なかった。密談を重ねた彼らは、帝国軍の武装解除を食い止め、国民を一つにまとめ、アナトリアで抵抗の基盤を築くことを目的とするようになる。この頃、残存するオスマン帝国軍三万五千人のうち実に一万九千人が反体制派の影響下にある第一五軍団に属しており、重要な抵抗の拠点と成り得る存在だった。

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