水俣病が映す近現代史(27)激動の1959年

1959(昭和34)年。この年、水俣病事件は最激動の年となる。

前年から「なべ底不況」から脱し「岩戸景気」が始まっていた。
6月、高度経済成長の仕掛け人のひとりである池田勇人が通産大臣に就任する。

前年秋に皇太子の結婚が発表されると、4月10日の結婚式に向けてテレビの販売台数が飛躍的に伸びた。主要都市圏で民放4局が出揃う。
そして4月20日には東海道新幹線が5年後(1964年)の開業を目指し着工。
5月26日には同じく1964年に東京でオリンピックを開催することが決定した。
さまざまな条件が揃い、日本は本格的な高度経済成長のふもとに立っていた。

新日窒水俣工場は増産に増産を重ねた。廃水の無処理海洋投棄を続けており、水俣病の被害は爆発的に拡大していた。

新日窒は社運を賭けた商品「ミナロン」アセテートを販売するため事業本部を設置し、初めてのコマーシャル戦略を打ち出すところだった。新日窒にとってネガティブなイメージは絶対に許されなかった。テレビの普及は諸刃の剣であった。

水俣工場の生産する諸原料(特に可塑剤)は高度経済成長を支える生産に不可欠だった。
しかし「主役」は、この年一斉に操業を開始する石油化学コンビナートだった。そして奇しくもこの年、西ドイツで石油(ナフサ)からアセトアルデヒドを製造する「ヘキスト・ワッカー法」が発明される。コストは新日窒のアセチレン方式の約半分で、廃棄物もわずかだった。

水俣工場は日本の高度成長に不可欠でありながらもすでにスクラップリストに上がっていたのである。つまり、石油コンビナートでの生産が軌道に乗るまでの「つなぎ」だった。
しかし「つなぎ」は「つなぎ」として不可欠であった。
元チッソ水俣工場第一組合委員長の岡本達明は、水俣病は高度経済成長の陰の部分であると言われるが、水俣病こそ高度成長の前提条件であり、高度成長はその前提条件が生んだ結果であると言っている。

では時系列にこの年を見ていこう。

(発病相次ぐ)
1月に湯浦町(水俣から北に約10km)で猫が集団発病。3月には八幡(河口付近)で患者発生。5月には御所浦島で猫の集団死。不知火海全体の汚染が考えられるようになった。

(厚生省 水俣食中毒特別部会を設置)
1月16日、厚生省は、諮問機関である食品衛生調査会に水俣食中毒特別部会を設置。会長は熊大学長、メンバーに熊大医学部・理学部教授、県衛生部長、水産試験場、水俣保健所長など。年間予算は110万円で年度内に大臣への答申を行う予定だった。

(熊本県知事が替わる)
1月22日、熊本知事選が行われ、寺本広作が4選を目指す桜井三郎に挑戦し、1万票差で当選した。寺本は昭和7年に内務省に入省。情報局新聞局長などを歴任。東條英機の秘書官も担当していた。戦時中の日本のインテリジェンス(諜報機関)にいた人物である。

(新日窒ミナロン事業本部設置)
6月1日、アセテート「ミナロン」の事業本部が設置される。営業部長は島田賢一。

(水俣市議会、国に「特別立法」の陳情再開)6月16日
水俣市議会は、前年に棚上げされた水俣病対策特別措置法の立法化運動に再び本腰を入れ、上京陳情団を編成した。陳情団の団長は水俣漁協組合長であり市議会議長であった。

(池田勇人が通産大臣に就任)6月18日
大蔵大臣(第2次岸内閣)の池田勇人が通商産業大臣に就任した。

(熊本県も市に相乗り)7月13日
熊本県は、法的根拠もなく、汚染範囲も根拠が不明確なまま、補償問題は棚に置き、漁獲・流通の自主的な禁止を呼びかけるという苦しい立場のまま時間の経過を見送っていた。
漁獲禁止の根拠法を制定させるために、熊本県もこの市の動きに同調するかたちで、厚生省にたいして特別措置法を要望することとなった。

(国は難色を示す)
ところが国も「危険水域の線引き=補償」という問題が絡むことで立法化に難色を示した。
実際は、国が動くということは全国的な問題に波及することになり、類推される同種の問題に延焼することを恐れていたと思われる。
特に通産省にとっては、重化学工業の本格的始動の出鼻を挫かれたくなかった。

(特措法ではなく水質ニ法で)
1959(昭和34)年7月、厚生省から県に、特措法ではなく「水質ニ法」を適用する方針であることが伝えられていた。

(有機水銀説が発表される)7月22日
熊大研究班は「有機水銀説」を公式発表した。水俣病の原因が工場排水であることがより一層確かなニュースとして広く伝わったのである。
このあと「工場の操業停止」の声が各所から出始める。
これは新日窒、日本化学工業協会、通産省に大きなインパクトを与えた。高度経済成長の急坂の直前にいた日本にとって、それは絶対に避けなくてはならなかった。
一斉に、防御・反撃体制が組まれていく。

(細川一が猫への廃液直接投与実験を開始)7月24日
熊大の有機水銀説は社会に緊迫した状況をもたらした。新日窒付属病院の院長細川は、1957(昭和32)年5月に工場内で組織された「〈奇病〉研究班」が続けてきた猫実験で、廃液の直接投与実験に踏み切った。原因物質を絞り込むより、汚染源を特定することを急いだのである。

それまで工場側は「直接投与」を避けていた。だからそれは細川が全責任を負う秘密実験であった。動物実験責任者である助手にも当初は何をやっているのか教えなかったという。
細川は、アセトアルデヒド精留塔からの廃液を入手し、猫に投与する実験を開始した。

(魚小売商組合の不買決議)
7月31日、魚小売商組合は水俣漁民の漁獲物の一切の不買を決議した。
これを受けて水俣漁協は、排水浄化装置の設置以外解決方法はないとの態度を固めていく。

(県議会による工場長らの聴衆)8月5日
いよいよ熊本県も一枚岩ではなくなる。農漁村に票田をおく自民党県議が漁民擁護に乗り出したのである。
7月、熊本県議会は「水俣病特別委員会」を組織した。
同委員会は初めて工場長を招き聴取をした。工場長は(排水の)沈殿池を建設中で翌年の3月に完成予定であることを述べた。

同委員会からは、水俣工場を停止せよという議論が湧いてくる。

(残渣利用工場の建設)
上記の委員会で工場長は、カーバイド残渣について、旭化成の子会社である新日本化学工業が耐火レンガ(マグネシアクリンカー)製造工場を水俣工場内に建設中であると述べた。残渣を原料用に供給することで海洋投棄が減るという見込みを述べたと思われる。
ところが、この工場は完成したものの、海水取水施設の設置に水俣漁協が同意しないので工事が中断していた。

(県知事による漁協-新日窒斡旋)8月26日
県知事寺本は、この斡旋のチャンスを逃さなかった。
3500万円+年200万円の補償金で、取水施設の設置を漁協に飲ませる斡旋案を提示、双方が受諾した。
これにより、レンガ工場の工事が再開した。

一方、水俣漁協は他漁協に「抜け駆け」して補償契約を結んだかたちになった。

この斡旋については、通産省と化学業界に事前の相談がなかったということで、新日窒と県知事を叱りつけたと言われている。
県知事が独断で動き始めていた。

(珍説の投下)
8月30日、新聞紙上で清浦雷作東京工大教授が「有機水銀説は慎重に取り扱うべき」との見解を発表した。
それに続き、9月28日、日本化学工業協会の大島竹治理事は有機水銀説を否定し「爆薬説」を発表した。旧海軍が放置した爆弾から有害物質が漏出しているという説だった。

現在の我々にとっては噴飯ものの「珍説」だが「水銀説」のメカニズムすら未解明であった当時、業界大御所の発言をメディアは「水銀説」と等価に扱った。社長の吉岡喜一はこの説を支持した。
この珍説投下は、事態が緊迫していたその頃、問題を「原因究明」というフェーズに移行させ、「諸説あり」という印象を与えた。

(初の互助会⇒県に嘆願)9月12日
互助会は県知事に嘆願書を提出した。窮状を訴える「生存患者43名の心からの御願ひ」として治療費と栄養費を求める書面だった。
熊本県は「現在は法律に縛られて支給できない」と回答した。

(細川、猫実験の結果を幹部に報告)10月6日
細川一新日窒附属病院長は、アセトアルデヒド第一精留塔の廃水を直接投与した猫(400号)が水俣病の症状を発症したことを確認。九州大学医学部で解剖し、病理所見も確認された。
10日、これらのことが工場技術部幹部へ報告された。
その報告は秘匿された。
新日窒はここから「確信犯」となる。

(漁民総決起大会)10月17日
(水俣漁協以外の)不知火海沿岸漁民、熊本県漁民総決起大会が開催される。「浄化装置完成まで操業停止、漁業補償要求、患者への見舞金支給」などを決議、新日窒は交渉を拒否。漁民らは工場に投石したため、警官が出動した。

県漁連は、訴えの中に患者への見舞金支給を盛り込む決議はしたものの、彼らの目標は漁業補償であった。
だから患者たちは自ら闘うしかなかった。
9月17日、互助会は市長に運動資金の助成を陳情した。市議会は10万円の助成を採択した。

(新日窒、鉄くず入り沈殿プール完成)10月19日
新日窒は水銀(無機)を吸着させる鉄くず入り沈殿プールを完成させた。

(通産省、排水口を元に戻すことを指示)10月21日
通産省は新日窒に、水俣川河口への排水を即時中止し、百間港の方へ戻すことと、翌年3月完成予定の排水浄化装置を年内に完成させることを指示した。

(国は、特措法ではなく水質二法で)10月22日
厚生省・通産省・経済企画庁・水産庁の協議会が開かれ(特別立法ではなく)、原因確定後に「水質二法」の適用の検討に入る、とした。

「原因確定後に」という条件は、明らかに御用学者の投下した珍説「爆薬説」と連動していた。科学論争に持ち込み、問題をうやむやにする策略だった。
つまり「適用」はちらつかせているにすぎず、その気は無かった。そもそも「水質二法」は関連法が未整備だったため、問題解決には役立たないことは明らかだった。

(県議会は「公害防止条例」案)10月26日
県議会からは独自に公害防止条例によって工場の排水停止命令を出す案が打ち出された。
水上副知事は「法的に(工場に操業を)停止させる権限は県には無い」と答弁している。実際には、知事には規制権限があった。
また知事は「水質二法と同じ内容の条例は制定できない」と述べている。それも間違いで、条例の制定は可能だった。
県は、議会を牽制し、工場停止を回避していた。

(逆送ポンプ完成、排水止まる)10月30日
逆送ポンプ設備が完成し、残渣プールへの排水は上澄み水をアセチレン発生器に「逆送」して用いたのである。
翌日の新聞には「排水完全停止」の見出しが踊った。たしかに残渣プールから海への浸透水を除けば、直接排水は止まった。
ただしアセチレン発生器に不具合が出るようになり、80日間しかこの方法は続かなかった。

(NHK「奇病のかげに」放送される)11月29日
テレビ放送の電波がほぼ全国主要都市に行き渡っていたが、はじめて水俣病のドキュメンタリーが放送された。原因不明で恐ろしい病気が「ミナマタ」というところで発生しているという内容だった。

(不知火海漁民一揆)11月2日
衆議院調査団が来水し現地調査をする。それに合わせ熊本県漁連主催の不知火海沿岸漁民総決起大会が水俣市で開かれ、約4千人が参加した(水俣漁協以外)。

市内デモ行進の後、漁民たちは工場に団体交渉の申し入れをしようとし、工場がこれを拒否すると、漁民約2千人が工場に乱入し事務所などを破壊した。警官隊が出動し、100名近くが負傷した。工場側は1千万円の被害にあったと発表した。

3名の漁協幹部は懲役1~1.8年、52名の漁民が刑事罰を受けた。そのうち2名がのちに絞首自殺している。
のちにそのうち半数が水俣病の症状を訴え、13名が認定されている。

(新日窒、有機水銀「説」に反論)11月2日
新日窒は「水俣病原因物質としての『有機水銀説』に対する見解」を発表。アセトアルデヒド工場廃液の直接投与実験(猫400号)の結果については触れずに有機水銀説に対して反論した。

(水俣統一戦線 vs 漁民)11月7日
漁民以外の水俣の全ての団体(水俣市長・市議会議長・商工会議所・農協・新日窒労組・水俣地区労)が<工場を停止しないように>知事に陳情した。彼らは2日の漁民暴動事件を受けて、一斉に「漁民糾弾」の態度を示した。

(県漁連、県知事にあっせんを正式要請)
11月10日、熊本県漁連は知事に漁業補償交渉のあっせんを正式要請した。

(第2の珍説投下)
8月に水銀説に疑問を投げかけた清浦雷作は、「有機アミン説」を通産省に報告し、自ら新聞各社に連絡し記事にさせた。

(食中毒部会答申「有機水銀説」公式確認)11月12日
厚生省食品衛生調査会「水俣食中毒特別部会」は、「水俣病の主因は水俣湾の魚介類に含まれるある種の有機水銀化合物である」との最終答申を出した。

(池田勇人の恫喝)11月13日
答申の翌日、閣議に答申を報告したが、池田勇人通産大臣は「有機水銀が工場から流出したとの結論は早計だ」と怒鳴りつけた。そのため閣議の了解とはならず、厚生省はその日に水俣食中毒特別部会を解散した。
マスコミもいったい何が起こったのか事情がつかめず、社説で批判したのは数日後だった。

同日の政府の『水俣病に関する対策(案) 』では、「水質二法」の水質保全法を早急に適用することと「仲介人による和解制度」を使うことを指導する、としていた。

(知事が独自に斡旋へ)11月13日
本州製紙事件に応急対応するために作られた「水質二法」の水質保全法第21条には、水質汚濁に起因する被害者と加害者の間の紛争を、裁判外で仲介委員会によって解決することを目的とした「仲介制度」が含まれていた。
通産省は、11月後半に上京した知事にたいして執拗にこれを利用するように促していた。

しかしこの仲介制度によると、通産省の管理下で県が調停委員会を組織することになる。寺本知事は、これを退けたかった。
そのため「自主解決」へと急いだ。
知事は独自に不知火海沿岸漁民への漁業補償斡旋に乗り出した。

(互助会⇒県知事に直訴)11月21日
調停委員会が発足しようとするなか、互助会はこの機会を逃したら補償を取ることは出来ないという機運が高まった。互助会は中村市長と県知事を訪問し、陳情書を知事に提出した。漁業補償より患者補償を優先してほしいという内容だった。

(互助会⇒工場に補償要求書)11月25日
互助会は工場に被害者78名の補償金として2億3400万円(一人300万円)を要求する決議文を提出した。
28日の工場の回答は、病因と工場排水との関係は明らかになっていない、お気の毒だが、要求には応じられないという内容だった。

その日(28日)の午後から患者たちは、初冬の工場正門前で座り込みを始める。

(県知事があっせんする調停委員会が発足)11月26日
熊本県知事を委員長とする「不知火海漁業紛争調停委員会」が組織された。ほかに県議会議長、水俣市長、全国町村長会長、熊本日日新聞社社長の5名だった。それとオブザーバーに通産省の人間が入っていた。

(社内猫実験、禁止される)11月30日
社内研究班会議が開かれ、猫実験の追試実験を要望していた細川の意向を却下し、追試は禁止された。

(アセトアルデヒド廃液にメチル水銀が含まれることを確認)
11月、新日窒研究部の川崎克彦は、アセトアルデヒド精留塔廃液にメチル水銀が含まれていることを、ペーパークロマトグラフィーで確認した。

(互助会を蚊帳の外にして調停案が練られる)12月12日
知事は調停案に患者補償も加えると発表した。互助会会長は「心から感謝している」と新聞の取材に答えている。
しかし調停委員会では、互助会の代表者が正式に決まっていないと難癖をつけて、正式当事者と認めず、本来の調停案から除外された。
患者は蚊帳の外。補償内容は調停委員会と工場のみで詰められた。

調停案は互助会の要求から大幅に値切られ、7400万円とされた。しかも2400万円(一人あたり30.8万)を一時金、5000万円は年金とされた。
工場側はこの補償額に反対したが、知事は「譲れない」と押し通したと新聞が報じている。

(「廃水浄化神話」の創作)
各漁協は、次第に工場の排水浄化設備の不備を訴え、条例によって工場を停止することを訴えるようになっていた。
もともとレンガ工場への原料を分離する装置サイクレーターとセディフローターが12月なかばに完成することになっていた。
そこで、この装置を「完璧な水銀除去能力を持つ装置」にでっち上げ、それを大々的に宣伝する方針をとった。

これもヒントは足尾銅山鉱毒事件にあった。
1891(明治24)年、鉱毒被害が拡大するなかで、明治政府は粉鉱採集器をヨーロッパから購入して据え付けた。被害がなくなることを保証すると、すべての被害村は鉱山と示談契約を結んだ。しかし粉鉱採集器とはただの選鉱機であり、鉱毒を防ぐものでは全くなかったのである。

サイクレーターとセディフローターは荏原インフィルコ社製で、廃水を中和し固形物を分離する機能しか持っていない。アセトアルデヒド廃水は注文仕様に入っていないし、稼働直後は送水もしていない。

(浄化装置神話と調停)12月17日
新日窒と熊本県漁連は調停委員会による調停案を受諾した。
県漁連への補償金は3500万円。
そして6500万円は「融資」とされた。しかし別紙の「覚書」でこれは償還も利息も不必要とあった。つまり補償額は総額で1億だった。今後の公害被害補償のモデルケースとなるので、通産省の意向で表向きの補償額はぎりぎりまで下げられたのである。調印は25日。

県漁連の当初の要求額は25億だった。
契約書の第一条には、「廃水浄化装置を完備し将来における紛争の禍根を根絶する……」とある。
浄化装置神話による早期解決と補償の大減額。この筋書きを描けるのは寺本知事しかいないだろう。

なお、この補償契約も、将来水俣病が工場廃水が原因だと決定しても追加補償はしない、という条項が挟まれた「永久示談契約」になっている。

(「廃水浄化装置」竣工式)12月24日
元々ただの新設レンガ工場向けの廃水/汚泥分離装置だったものの稼働に、派手な竣工式が演出された。吉岡社長が「これが浄化後の廃液だ」という水をコップで飲んでみせた。ただの水道水だったことが後に労組の告発で発覚している。

(「暴動」の後始末)
補償契約締結後、工場での暴動の咎で警察が漁協を家宅捜索し、幹部ら3人をふくむ35人を逮捕した。そして補償金から工場の被害補償として1千万円を減額された。

(患者への「見舞金」)12月30日
調停委員会は最終的には互助会を正式当事者と認め、契約書の調印に至った。
ただし「補償」ではなく「見舞金」としての契約だった。工場は水俣病についての加害者責任を認めなかったのである。

金額は値切りに値切られ、生存者には、発病年から1959年12月31日までの年数に10万円を乗じた金額を一時金として。死亡者にはそれに加え30万円と葬祭料2万円というものだった。
そしてこれも将来工場が原因だと分かっても新たな補償金の要求は行わない、という永久示談契約であった。
さらに、もし将来工場が原因でないと分かったら、その月をもって見舞金の交付は中止する、という条項まで付けられた。

(窮地が続く患者たち)
2年前、1954(昭和29)年の洞爺丸台風事故での死亡者への補償金は65万円だった。約10%消費者物価指数が上昇した5年後、死亡者の見舞金30万円はいかにも安かった。

この契約によってほとんどの患者家庭で生活保護が打ち切られた。借金を返すと一時金はすぐに底をついた。
近隣からの「奇病」差別は、見舞金への妬みに変わった。雨漏りだらけだった屋根を修理しただけで、嫌味を言われたりした。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1332:241207〕