水俣病が映す近現代史(28)1960年~事件の封印と忘却

水俣病事件は1959(昭和34)年という激動の年の年末に、ウソ浄化装置の「完成」を華々しく飾り立てることによって漁協と患者へ涙金で「和解」を強い、唐突な幕引きが図られた。

時系列で見ていく前に、この時代を概括しておこうと思う。

【60年安保闘争】
年が替わり60年代が始まる。
年明け早々、年末に日本中を報道で賑わせた水俣病の記憶が吹き飛ばされる出来事が起こる。
岸信介首相が訪米先でアイゼンハワー大統領と「新安保条約」に調印したのである。
この改定は、米国の日本防衛義務が明記された上に、日本にも防衛義務が生じる内容で、再軍備への道が開かれていた。

これに対し学生をはじめ、労働者、学生、知識人、一般市民など様々な層から全国で500万人以上の大規模な抗議運動が続いた。
5月19日、国会議事堂を30万人とも言われる民衆が包囲するなか、新安保条約は衆院特別委員会で強行採決され、5月20日に衆院本会議を通過した。そして参議院の議決がないまま、6月19日に自然成立した。

【労働争議】
全国で日米安保改定に対する抗議運動が広がっているとき、九州の三井三池炭鉱では空前の規模で労使対決争議が行われていた。

戦後の日本企業は、労働者と経営者とが未分離であることが多く、労働組合は産業別ではなく企業単位に結成されていることが多かった。だから、概して日本の企業は労使協調型で、労働組合の要求は賃上げや雇用・労働条件の改善などの「要求型」が多かった。

大企業である日窒ですら、敗戦後復員者や植民地からの帰還者を、温情的に雇用したり、雇用のために子会社設立にまで奔走したように、無下に切り捨てることは少なかった。敗戦後の「復興」というフェーズのなかで解雇という方策はなじまなかったのである。

「ドッジ・ライン」実施後、公務員、国鉄、郵政、電電公社などの非民間企業が最初に大量解雇を行った。
民間企業で最初に雇用を持ちこたえられなかったのが、石油化政策の風に晒された石炭産業であった。

旧財閥の三井鉱山が運営する三井三池炭鉱では1953(昭和28)年に経営合理化のために退職募集・勧告を行った。しかしなかなか退職者数が目標に達しなかったため、2700人を指名解雇した。そこから労使対決に火がついた。労組は113日におよぶストライキを行った。最後は会社が解雇を撤回。労働組合は勝利の金字塔を打ち立てた。

しかしエネルギー・産業の石油化政策がさらに進む中で経営悪化は避けられず、1959(昭和34)年再び退職募集した。だが目標数に達せず、ついに指名解雇を通告した。労組側はストライキを開始。

1956(昭和31)年の「もはや戦後ではない」という経済白書の文言が示していたように、時代のフェーズは「復興」から「成長」に移っていた。「経営合理化」、現代の言葉で言う「リストラ」(restructuring)が求められたのである。

三井側は今度は諦めなかった。財界全体が三井を支援した。高度経済成長をうまく推し進めていくために古い産業形態のスクラップは必需条件だった。
一方で日本の労働組合を束ねる総評議会(総評)は三井労組を全面的に支援したため「財界」VS「労働組合」の頂上合戦となった。

しかしストライキが300日を超えると生活苦に耐えかねる組合員が出始めた。また警官との衝突による負傷者や逮捕者が出るほど過激化した運動に反発する労働者も出始めた。すると「第二組合」が自発的に結成され、そちらに移籍してストから離脱する労働者が増えだした。やがて第二組合の人数が元の組合を上回るようになり、1960(昭和35)年8月、労働組合側の敗北に終わった。
次に述べるように、そのころすでに「政治・闘争の季節」は終わっていて、「経済の季節」を迎えていたのである。

【池田勇人が首相に】
新安保反対運動は、岸信介・岸内閣に対する反感が原動力の大きな割合を占めていたため、1960(昭和35)年6月23日、岸内閣が退陣を表明すると、運動に勝利感がもたらされ、抗議行動は急速に退潮していった。

そして7月19日、高度経済成長の仕立て役で、それまで通産大臣を務めていた池田勇人が内閣総理大臣に就任する。
彼は通産大臣の頃から口にしていた「所得倍増計画」を、目玉政策として発表した。
国民は経済成長を目前にしながら「政治」に辟易していた。それをバネにして一斉に「経済」のほうへと向かわせることに成功した。

それらの「60年安保」を通して、池田はテレビを中心とするメディアが世論を形成することを学んだ。それで彼はそれまでの高圧的な態度をあらため、低姿勢で庶民派イメージをアピールした。

【池田の通商政策】
池田は、経済成長を推し進め国際競争力を強化するために、貿易の9割を自由化する方針を決定した。1962(昭和37)年10月1日に実施された原油の輸入自由化は産業とエネルギー政策の重要な転換点となり、石炭産業はますます斜陽化した。

【テレビと資本主義】
都心には東京タワー(1958年12月竣工)がそびえ、テレビを通して新しい情報が次々に国民に発信された。
テレビが発信した新しいものに飛びつく風潮(ブーム)が国民の間に根づいた。昭和33年のフラフープ(積水化学のポリエチレン製)、そしてこの年の夏「ダッコちゃん」という空気で膨らますビニール人形が流行る。偽物も含めると1000万個は売れたという。軟質の塩化ビニール製なので可塑剤をたっぷり使っている。当然、水俣工場で造られたものが多く使われただろう。

【核家族化 ⇄ 経済成長】
経済成長によって製造業やサービス業が増え、農漁業から離れていく人が増えた。また、戦前からあった「集団就職」が再開され、経済成長とともに増加した。
それらのことで、生活の場(故郷)と職場が分離し、核家族化が進行した。

そして高度経済成長は、多くの国民にとって「マイホーム」を到達可能な目標とさせた。「三種の神器」が祀られるべき場所は核家族化した彼らの「マイホーム」なのである。
1959年以降、銀行による住宅ローンが普及しはじめ、1961年「一世帯一住宅」を目標とする新住宅建設五ヵ年計画が開始され、空前の新築ブームが沸き起こった。

日窒から離脱した積水化学の立役者である上野次郎男は1960(昭和35)年、住宅部門を切り離し「積水ハウス」を設立し、社長に就任する(田鍋健と兼任)。同社はその後ハウジングのトップメーカーとなる。

新築ブームは塩化ビニルの需要をさらに押し上げた。給水管や電線の絶縁被膜、あまどいその他の建材に塩化ビニルが欠かせなかった。

耐久消費財を継続的な消費に持ち込むためにはグレードアップが欠かせない。「三種の神器」はやがてカラーテレビ、そして自動車へと進化していった。自動車の内装等にも塩化ビニルは不可欠だった。

1960(昭和35)年、可塑剤の原料であるオクタノールの、水俣工場が国内で占めるシェアはこの年がピークで74%だった。DOP(可塑剤)は36.5%だった。この2つだけで新日本窒素の全売上の25%に達していた。

国民は高度経済成長が醸成する欲望にうつつを抜かし、九州の末端で起こった水俣病の悲劇は、忘却の眠りに沈められていった。
そしてその間に日本中のいたるところで公害(環境・食品汚染)が進行していた。その中には後に大きな問題となるものもあれば、それらに埋もれて全国的な関心を向けられなかったものもあるし、ずっとあとになって大きな問題となるものもあった。

【1960(昭和35)年】

では、あらためて1960年からの出来事を時系列で追ってみよう。

前年10月、秘密裏に猫に対する廃液直接投与実験を行い、自社の工場廃液が水俣病の原因だとつきとめた細川一は「随所で無言の圧力を感じていた」と後に述懐しているが、それでも追試実験はどうしても行いたいと工場長の西田に辞表を片手に要求し続けていた。しかしなかなか西田は応じなかった。

(水銀廃水はふたたび水俣湾へ)
水銀が含まれたアセトアルデヒド製造設備からの廃液は、水俣川河口に作られた残渣プールに排出されていた(上澄み液のオーバーフローと漏出分が海に流出していた)が、前年10月30日から、上澄み液を工場に逆送し、アセチレン発生装置で使っていた。しかし不純物が多くトラブルに見舞われたので、上澄み液はサイクレーターに送り、その他の廃液とともに百間港から水俣湾に放出された。

(水俣病の幕引き)
水俣食中毒部会を解散してから国は急速に手仕舞いを始めていた。水質二法の今後の適用の見通しもあいまいにした。通産省は水俣病対策費用5000万円を伊勢湾台風(昭和34年9月)の救済金に流用していた。

(食中毒部会の後釜は、第2の珍説を投下)
前年11月に池田勇人によって解散させられた水俣食中毒特別部会を受けるかたちで、1月、経済企画庁を中心に通産省、厚生省、水産庁で設置されたのが「水俣病総合調査研究連絡協議会」であった。

その第2回の会議で、東京工業大学の清浦教授は、自説の「アミン中毒説」を改めて発表した。マスコミに事前にリークし、新聞の見出しに大きく載せた。熊大医学部はすぐに反論を発表したものの、水俣病の原因はまたしても「諸説あり」で迷宮入りした印象を国民に与えた。
この協議会は6、7回の開催を見込んでスタートしたが、3月の第4回を最後に再び開催されることはなかった。

(錚々たる御用学者軍団)
通産省は有機水銀説(工場廃液説)による影響が国内の他の同種工場へ波及することを懸念し、日本医学会会長の田宮猛推を委員長に、東京大学医学部の学者らを集めた「田宮委員会」を設けた。

医学会のトップが揃って水俣病の原因究明を始めたということがマスコミを通じて知られ、社会的に大きな影響力を持つようになった。

熊本大学医学部も田宮委員会への参加を要請されたが、世良完介医学部長は断った。(翌年、厚生省は熊本大学への研究費の助成を止める。)
学部長が忽那将愛(くつな・まさちか)に交代すると、新日窒との対立関係を改め、援助も受けることになった。9月からは田宮委員会にも参加した。

(「400号猫実験」の追試が許可される)
5月、工場長の西田は、新日窒の本社に「栄転」し水俣を離れることになった。
西田は、あくまで研究のためで結果を発表しないという約束で細川に追試を許可した。真相を知っている細川を「野に放つ」ことは危険だと西田は考えたのではないかと言われている。

猫へのアセトアルデヒド工場廃液直接投与実験は8月から再開された。(「研究班」は存続し、その他の実験は継続していた。)翌年にかけ9匹行われたが、7匹が発症した。(2匹は投与量が多すぎたとみられ衰弱死)
しかし工場技術部はすべて「疑症」としか判断しなかった。細川は病理所見を求めて、有意な発症がみられた「猫690号」の標本を東京大学医学部の斉藤守のところに送った。「この標本は大事なものですからよろしく」と添えた。

しばらくして細川が結果を聞きに行ったら、斉藤は「明日からアメリカに行く。標本は、探したら、ない。あとで探しますから」とのことだったが、標本が見つかることは永久になかった。
斉藤守は新日窒幹部と太いパイプがあり、田宮委員会の主要スタッフでもあった。

(熊大「水俣病は終息した」)
熊大研究班は、魚介類の水銀調査も十分に行わず、10月の2名の発病を最後に「水俣病は終息した」とした。
世良完介研究班長は、新日窒が設置した「廃水浄化装置」の稼働が奏功した、と述べた。
研究の中心だった熊大研究班が太鼓判を押したことで、住民や漁師は安心して魚を食べるようになった。しかし工場は効果の無い浄水装置をつかって廃水を海に投棄し続けており、水俣病はふたたび発生期を迎えていた。

(守山工場で労働争議)11~12月
水俣から離れて、滋賀県守山の日窒アセテートの話になる。
繊維工業は「花形」とは言ってもそれは表向きの話で、労働者にとっては明治時代の「女工哀史」のような低賃金・長時間労働の現場だった。同「身分」ならば、化学工場である水俣工場のほうが賃金が高かったのである。

そこで日窒アセテート守山工場労働組合は、1960(昭和35)年11月、水俣工場と同じ給与体系にすべく、水俣工場労組との連合会を結成した。また水俣も加盟している「合化労連」(合成化学産業労働組合連合)にも加盟した。

水俣の組合は闘争主義で、お構いなしにストライキを決行する。これから千葉県五井でコンビナートを運営しようとしている新日窒にとって、各工場の労組が水俣労組と連携し一本化されると大変厄介だった。
他社と連携するコンビナートにとってストライキは避けたかったのである。だから会社はこの動きを敏感に察知し、危険視した。
12月23日、水俣から転勤してきた職員・職長ら85名が守山労組に脱退届を提出した。会社が画策し、労使協調の「御用組合」を作らせたのだった。

会社は、新組合に移らない組合員を主要ポストから外して雑役をさせたり、親戚などに圧力をかけたり、あの手この手でつぎつぎと切り崩しを謀った。

【1961(昭和36)年】

(新卒職員が原因物質を析出する)
この年(1960年)に東京大学薬学部化学分析を卒業して入社した石原俊一は、技術部研究室に配属され分析作業をしていた。
入社から約1年、1961(昭和36)年5月頃から、自分の判断で、アセトアルデヒド精留塔ドーレンから有機水銀を抽出する実験を始めた。その年の暮れまでに、そこからメチル水銀を抽出し結晶化することに成功した。

【1962(昭和37)年】

2月、石原の研究成果が上司に報告されたが、技術部は石原の成果を取り上げず、さらなる追求実験もせず、極秘扱いにした。
細川一は彼の研究結果を高く評価し「猫400号」以降の実験の結果とともに発表できないかと相談したらしいが、叶わなかった。
石原の研究はその後の労働争議で中断させられ、そのあとデルタ・プラスチックという新日窒の子会社に「左遷」された。
彼が工場を離れるときに研究室に置いてきた研究ノートは、会社が処分したとされている。

(熊大研究班がメチル水銀を抽出)
それまで熊大研究班が注目してこなかったアセトアルデヒド製造工程に、メンバーのひとりである瀬辺恵鎧(薬理学)が注目する。

1962年8月、その影響を受けた医学部の入鹿山且朗は、水俣工場から採取した試料のなかにアセトアルデヒド製造設備付近で採られた泥試料があったことを思い出し、抽出実験を行った。そしてそこから塩化メチル水銀を抽出することに成功した。
水俣工場の石原より約半年遅れての成果だった。

この「メチル水銀析出」は大ニュースであるはずだった。しかし水俣病はもう「終わった」話だった。
だから、出続けているはずのメチル水銀が、いったいどのような機序で「浄化」されているのか、本当に浄化されているのか、世の中は深く追究しなかった。

そしてそのころ水俣は、水俣病どころではない重大な事態に直面していた。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1333:241212〕