『寂聴九十七歳の遺言』(朝日新書 2019)を読む ― 2025年・戦後80年・を迎えて

 今年2025年は、戦後の第一次ベビーブーム時代に生まれた「団塊の世代」(1947~1950)がすべて75歳、つまり「後期高齢者」の仲間入りをするという画期的な年であるという。もっとも、戦後世代の75歳は、大方は元気である。当人ですら「後期高齢者?ウン、それナニ!」とそっぽを向く人の方が多いかもしれない。
 しかし、生理は正直でもある。75歳から80歳に向かい始めると、多くの人が、何やら体の不調を感じ始める。これからの健康保険、介護保険のあり方、それらの財政問題が急を要する所以であろう。
 ただ、ここでは「2025年問題」をきっかけにして、ぐんと身近になる自らの「死」をどのように位置づけ(?)、あるいは感じながら生きていくのか、そのような、ある意味では哲学的でもあり宗教的でもある「人間の内なる根本問題」を、瀬戸内寂聴の「遺言」という名の著書を参考にしながら、考えてみたいと思った。
 ただ、寂聴さんは、51歳で出家して尼僧になっている。

― 出家して、瀬戸内晴美から瀬戸内寂聴になってからは、次第にそういう孤独感が薄くなりました。/ いつでも仏さまが私のそばにいらっしゃると信じているから、もう耐え難いほどの孤独は感じなくなっているのでしょう(p.53)。
― 出家というのは、一度、生きながら死ぬことです。だから今度死ぬのは、二度目の死というわけ。だから死ぬのは怖くないし、極楽へフリーパスだと思います。(p.78)
 
 さらに、次のようにも語っている。
― いくら自分のそばに人が集まってきても結局、「ひとり」です。ただ、それが心に深くわかるのは、九十歳を過ぎてから。八十代だとまだわからないと思います。(p.52)

 私自身は、団塊世代よりも少し年長。今年3月で82歳になる。寂聴さんの語るところによれば、「孤独」あるいは「ひとり」という実感を身の裡に抱え込むには、まだまだ若輩者であり、さらにキリスト教や宗派を問わず仏教にすら信仰を求めていない私には、寂聴さんの遺言から何ほどのことを汲み取ることができるのだろうか。心許ないかぎりだが、それでも寂聴さんの言葉を虚心に受け止めてみようと思う。
 とはいえ、寂聴さんは基本的にお茶目さんだと思う。次のようなことを大真面目に書き、悪ぶれることなく実践もしている。

― 私の健康法はとてもシンプルです。/第一に好きなことをすること。次によく眠ること。そして肉を食べること。肉を食べないと頭が悪くなります。肉を食べているとボケないから、少しでもいいから何の肉でもいいから食べて下さい。(p.104)

 確かに、何かの番組で寂聴さんの夕食の場面が紹介されたことがあった。「肉」といっても、上等な肉が驚くほど、幾皿も並べられていた。上等な肉は柔らかくて美味だ、ということくらい、ほとんどの人は知っている。しかし、普通は、上等な肉はそれほど多くは食べられない。財布の中身と相談しつつ、だからである。
 出家しているのに、何の屈託もなく、「お肉を食べろ!」という所が寂聴さんの邪気の無さなのかもしれない。

死ぬことはたいしたことじゃないのかもしれない 
― 私はもともと、死んだら次があるとも思っていません。法話では、「死んだらみんなに逢える」と言うけれど、死んだら何もないんじゃないかなとも思う。あの熱い火で焼かれて骨だけになって、あと何があるというのかしら。(p.170)

― 死んだ時にお葬式に行ったりお線香をあげに行ったり、そんなことをする必要はないのね。だって死んだ時に行っても仕方がないじゃないですか。お友だちは死んでいるんだから。そんなものはお坊さんに任せておけばいいのです。(p.152)

― 人間は、死ぬ時にその人の一番いい顔になる。生きている間にこびりついた何か嫌なものがすっかり消えるのかもしれません。(p.164)

― 最後の最後、「ありがとう」といえれば、救いがありますね。残されたものもそのひと言でずい分慰められるでしょう。(p.174)

魂は信じています
― あの世があるかどうかはわかりませんが、魂はあると私は信じています。亡くなった人は、肉体を焼かれて灰と骨になるけれど、魂は残っていると思える。死んだ後に何もなかったら、この世に生きた意味がないと思う。私にはいわゆる霊感はありません。でも、時に彼ら、彼女たちの気配を身近に感じることがあるんです。/ 年をとるほどに悩みが少なくなって、楽しいこともたくさんあります。それを私は、私の肉親なり私が愛した人たちの魂が、みんなで私を守ってくれているおかげだと信じているのです。(p.178‐179)

― 生き残っている私たちが亡くなった人を忘れないことが大切だと思います。人間は
忘却する生き物だからこそ、せめて愛する人のことはずっと忘れないでいたい。忘れないことが一番の供養です。(p.180)

 本書は、『寂聴九十七歳の遺言』のタイトルそのまま、寂聴さんの97歳の誕生日の一コマまで書かれている。そこで、「何か、ひと言」と求められた寂聴さん、「生きすぎました・・・」と答えている。そして、「もう十分生きた、いつ死んでもいい。ここ数年の口癖です」とも呟いている。
 その上で、寂聴さんは、最後の最後まで、次のように語っている。

― それでも私は、今も時に徹夜しながら小説や随筆を書きつづけています。私にとっては書くことこそが生きること。自分の文学に対していまだに満足していない。だから死ぬまで書きつづけていたいのです。(p.190)

 お見事!という他ない、その生きる姿、そして死を迎える姿。
 寂聴さんは、1922(大正11)年5月15日生まれである。
 何と、私の父は、1920(大正9)年5月8日生まれ。母は、1924(大正13)年4月10日生まれである。まさに、私の父母と同時代の人ではないか!もっとも、父は92歳まで生きてはいたが、母は75歳で亡くなっている。だから、すでに亡くなっている私の父母と、元気な寂聴さんを、私の中で重ねて見る事は、これまで一度もありえなかった。
 今回、寂聴さんが私の両親と同世代!と知ってから、「死んだ人たち」と「いま生きている人間」との関わりが、急に身近に感じられるようになってきた。
 今はまだ「生きている」私たちは、すでに死んでしまった身近な人々を、たえず思い出し、交流する事・・・それは「順番」なのだし、そうしてこれを「繰り返す」ことが、個々の人間の「死」を、印づけることなのだ・・・と、改めて納得できた気がする。
「死」もまた、個別の現象でありつつ、身近な人々と繋がっていることなのだ、と。
                            (今回は、これで了)
2025,1,5

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