近代の夜明けー大分県人(賢人)の事績に触れて(3)

梅園の経済書「価原」を読む
 三浦梅園の「価原」(1773年)をはじめてひも解きました。三枝博音 (さいぐさ・ひろと)教授の編集になる岩波文庫版で、昭和 42年発行のものです。注釈もほとんどなく、現代語訳なしの読み下し文と旧字体・常用の漢和辞典にはない難解な漢語の連続で往生しましたが、なんとか読了しました。夜な夜な (?) 抽象的な自然哲学体系の構築に心血を注ぐ一方、豊後国東のひなびた農村で町医者を営む関係上、病気に限らず農民の窮状について日常いろいろ相談を受けることが多かったのでしょう。三枝教授の解説によれば、このときも杵築藩に出仕するある侍が、奉公人たちの賃金が年毎の景気不景気につけてどうして変動するのか、疑間を解いてほしいと梅園に頼んだ、そのことがきっかけで出来上がった本だといいます。
 そもそもタイトルの「価原」とはなにか。「価原」は「価源」に同じ、つまりそれは経済的価値の根源はなにかという設間の意を表しております。アダム・スミスであれば「労働」と答えるところですが、梅園はそこまでは届かず、経済的価値の大本は金銀貨幣ではなく、衣食住の生産と消費にかかわるすべての必需物資であるとします。本来貨幣は物品の流通手段であり、ものの価値表示のための尺度、交換のための手段であって、経済目的そのものではない (はずである)。 この時代ますます強まる貨幣重視の風潮に対し、梅園曰く、それは目的と手段を取り違えているのであり、目的はあくまで士農工商全体をつつむ人々の生活 (物資)の豊かさなのだ。いま風に言えば、真の豊かさとは、庶民の生活の福利厚生がほんとうに充実しているかどうかにあるということでしょう。目的と手段を正しい位置関係におくこと、ここに梅園の経済政策の眼目があります。梅園が述べる経済政策の意味を十分に理解するためには、最初に江戸時代の経済一般、梅園を取り巻く経済状況はどういうものだったか、おさらいをしておく方がよいでしょう。
 徳川幕藩体制の経済的な建前は、いわゆる自然 (現物) 経済、石高制にもとづく各藩の自給自足体制 (ア ウタルキー)です。この政治経済体制の枠組みは、もともと豊臣秀吉の検地と刀狩 (兵農分離) よってつくられたものです。それまでは甲州の武田軍団が典型的ですが、中核となる騎馬武者は領地を直接保有経営し、いったん事あれば、費用自弁で兵を引き連れ戦場に駆けつける半農半武士です。だから戦闘に従事するのは主に農閑期に限られ、春先の田植え時期には絶対領地にいなければならないという点で行動が制約されています。迅速な移動と果敢な攻めという特性をもつ騎馬軍団でありながら、そこに致命的弱点を武田軍団はもっていたのです。言い換えれば、武田軍団がもつのは中世的農本的な強さであって、織田軍団のもつ商品経済を活用した近世的な兵農分離の先取性・組織性には結局敗れざるを得なかったのです。徳川幕藩体制にあっては、兵農分離は徹底されて武士団は城下町に集められ、封地 (采邑) との直接的関係は断ち切られていました。その分一般の家臣団は身分的独立性失って、俸禄を支給される一種のサラリーマンとなってしまいました。本来の封建制は、封地の安堵と軍役の義務との相互契約関係によって成り立つのですが、それが擬制にすぎなくなると封建的な主従関係にもとづく忠誠心も揺らいできます。しかも武士の困窮化は、忠誠心の動揺にいっそう拍車をかけたのです。そこで幕府は、朱子学という官製のイデオロギー (忠孝中心) によって、たえず忠誠心を上から注入して補強しなければならなかったのです。
 さて、実際の経済状態はというと、信長・秀吉の「楽市・楽座」政策をみてもわかるように、西日本中 心に戦国時代から貨幣経済は相当程度発達しつつありました。そして江戸期に入ってからは、参勤交代にともなってヒトとモノの交通や流通が盛んになったこともあり、藩経済は領国の垣根を超えて全国的な市場と金融の網の目に組み入れられるようになります。各藩は――自給自足の建前に反し――藩内で徴収した年貢 (米穀や特産品)を大阪の藩蔵屋敷に送リ、それを幕府発行の正貨に換えて必要な財政支出に充当しました。この換金業務を行なったのが大阪の蔵元や掛屋などの大高利貸商人で、かれらは次第に力を蓄えて「大名貸」とよばれる、年貢を担保にした信用貸し=金融業務を行なうようになりました。
 とくに18世紀に入ってからは、各藩は参観交代や御用普請 (幕府の公共事業) にともなう出費が増大する一方―幕府は、政策的にも諸藩に余力が残らないよう出費を強いたのです.年々収入源であるの米価の低価格化が進んだため、藩財政は恒常的な赤字に陥り、大名貸や御用金 (藩内借り入れ) に依存せざるをえなくなります。歳入不足を補い、債務を返済するためにも課税を強化する。賦役と年貢に対する五人組制度による連帯責任制でがんじがらめにされていた農民は、ときとして過酷な課税から逃れるため、逃散や一揆に訴えざるを得なくなります。その結果農村は荒廃し、税収入が減って藩財政は一層タイトになっていくという悪循環に陥るケースも少なくなかったのです。当然農村の疲弊にともなって、それに寄生する武士階級自身の経済的困窮も広がっていきます。
 重税による農村の疲弊は、全国各地でみられました。藩政府は、財政赤字を埋めるため飢饉や凶作への備え (ストック=食糧備蓄) すら全部吐き出させるため、不作凶作のときはただちに餓死の被害が出ることになります。加えて間接的なストック――堤防、灌漑・水利施設等の社会資本の整備――を軽んじているため、 もともと災害に弱い村落体質になっていましたので、凶作、疫病の流行や自然災害も被害が重症化し、天災が人災的相貌を帯びるのです。
 ちなみに五公五民とか六公四民とかいう税と農民の取り分比ですが、農民の取り分にはすべての必要な生産経費が含まれていますので、実質的な可処分所得はぐっと少ないのです。封建貴族 (武士階級) の多さと農村の貧しさこそ――西欧と比較して――封建制日本の一大特色なのです。農村が貧しさから解放されるのは、やっと戦後の農地改革以後のことです。どれほどGHQの行なった農村改革――戦前戦中アメリカのすべてのシンクタンクや調査機関は、農村の後進性こそ日本軍国主義ファシズムの温床であるとする点で一致していました――が、日本史上いかに大きな意義を持っていたかが理解されます。
 さらに農民は封建的武士団による苛敏誅求を受けるだけでなく、貨幣経済の発達とともに商人、とりわけ高利貸し商人による農村支配を受けるようになります。というのは四本 (漆 、桑、檜、こうぞ) 三草 (紅花、藍、麻ないし木綿) といわれるように、全国的に――西日本では綿花や東 日本では養蚕など――商品作物の栽培が盛んになり、それらを原材料として織物業を筆頭に製紙、蝋、染色、陶器、鉄器、漆器などの製造業が農村での家内工業として盛んになっていきます。こうして次第に問屋制家内工業が発達、農民はそのための原材料の購入にあてる資金を、前貸しという形で取引業者から借り受けるのですが、その高利の債務を背負って商人からの搾取も受けるようになるのです。イギリスの資本主義は、(都市でなく) 農村の家内副業から起こったといわれています。中世末期の段階で封建的農奴的なしがらみを徐々に脱して独立自営農民が広範に生まれ、農村副業から本格的な産業化、マニュファクチュア化へ乗り出していくのですが、そのことが可能だったのは (日本と違って) 農村に余剰が蓄積されていたからです。以上の概説を踏まえれば、これから紹介する梅園の一言一句がなにを意味するか、よくお分かりになると思います。
 梅園は、先に紹介したように金銀貨幣が世にのさばる状況に警鐘を発します。貨幣をみなが追い求めるようになった結果、実物経済――梅園は六府といい、生産生活の必需品の総体をさす――が軽んじられるようになった。しかし貨幣が多いことは、ただちに物資が豊かであることを意味しないという。たとえば物資の量が同じ場合、貨幣量が二倍になれば物価は二倍になる。だから貨幣の改鋳によって貨幣流通量がふえれば、一時的に財政は好転するかもしれないが、庶民は物価高に泣くことになる。(梅園は、流通貨幣量と流通物資量との適切な、あるべき均衡点を暗示しています)
 つまりここで梅園は、財政難を乗り切る対策として貨幣改鋳 (金銀に混ぜ物をして量を増やす) の策しかもたない幕藩を暗に批判しているのです。「悪貨は良貨を駆逐する」というエリザベス王朝の経済顧問グレシャムの法則を梅園はここで独自に唱え、貨幣改鋳が貨幣偏重の風潮を助長していると批判します。
――梅園は、ここで外部から遮断された 「島」を想定し一種の思考実験を行なっています。 貨幣流通が、必ずしも商品経済発展の血流=金融としての発展的役割を果たさず、高利貸し資本として農工 (農民と町民) からの収奪の道具になっている。過重な債務と過酷な取り立て、買占め売り惜しみによる米価の高騰が、さらには武士階級を窮迫させ、そのため農民への苛飲誅求を倍化させる役割しか果たさないことを、梅園は正確に見抜いております。
 そうしてどのような結果になったか。本業である農業が重税で割に合わないとみなが思って、(逃散や出 稼ぎ等の手段で) みな貨幣を求めて商の盛んな都市へ流れ込んでいく。さらにモノも都市の富商が吸い上げて、農村から都市へ一方的に流れ込む。そのためますます農村はヒト・モノとも空洞化し、実物経済はいっそう落ち込んでいくという悪循環になっているとみるのです。だから帰農を促す政策が必要であると強調します。農も工も本来の仕事で報われストック (餘布餘粟一余分な衣糧のたくわえ) できるような仕組みが必要だという。ストックがあればこそ、凶作だからといってすぐに村を離れないで済むというわけです。
「かくして本業に帰ることを得ば、民力専ら農桑に帰し、地力尽くすことを得て、地の物を生ずること、ますます多くして、男女餘布餘粟有り、金銀偏重の勢なく、各其力を以て金銀を蓄へ、然して暇日孝悌忠信の教を施せば、人米粟布絹の貴きを知り、金銀通利の物たるを知り、廉恥礼譲の風興すべし。慈愛側隠の情養ふべし」(このようにして本業に復帰することができれば、農民の力は専ら農業に注がれ、地力を十分利用して作物をますます多く得られることになる。ひとは食料衣料を十分手にしているので、金銀を偏重することもなく、自然に金銀が貯まっていく。そして仕事のない日には孝悌忠信の道徳の教えを受けるので、食料衣料の実物の大切さを認識し、金銀が流通交換の道具であるに過ぎないと認識し、 廉恥礼譲―  恥を知り、謙譲する心―の気風が必ず起こるであろう。慈愛と同情の心も養われるであろう)
 梅園がここで唱えている政策の基本は、農本主義といってよいでしょう。農業を立国の基本として国家経営を考える思想です。また梅園は経世済民 (経済) の基本は、「利用・厚生・正徳の三事」にあるとします。「恒産なくし恒心なし」(孟子)、生産の向上を図り、民生を厚くし、民の道徳的教化を図ること、この三点を為政者の使命だとするのです。そのためにもまず為政者自身が身を正さなければならない。まして天下の私物化はナンセンスで、「さる程に国家の長として社稜 (しゃしょく) を守るの人は、 国家は祖宗の国家にして、社稜は民生の社稜、其一身を奉ずるが為に非ざるを知るべし」とします。つまり、「これほどまでに国家の指導者として国家の重責を担う者は、国家は先祖代々の国家であり、その任務は民生のためのものであつて、自分自身の利益のためではないことを肝に銘ずるべきである」というのです。 たしかに梅園の思想も、やはりは儒教的な治国平天下をめざす仁政思想、徳冶主義の枠内にあるといってよいでしょう。ただ彼の条理学の考え方につながると思うのですが、「天地の間の造化」(天地万物の自然の営み)に したがうべしとする、一種の自然法的な考え方――実定法とは区別された本来の自然的なあり方とルール――がみられることで、現行支配秩序の維持を絶対とする正統派とその点で区別されるのでしょう。
 だから梅園は実物重視、ストック重視の考え方ができるのです。つまり農民を富ませることによって 経済全体の発展を期する。農民から一切の余剰を絞りとり、ジリ貧に追い込む「貧困の経済学」ではなく、’ 農民が余剰を蓄積し生産能力を向上させることによって、全体のパイをふくらませ、その結果税源も拡大するという「豊かさの経斉学」につながる、ヒュ―マニスティックな経済観を感じ取れる。広く浅くという近代的な徴税観は、こうした「豊かさの経済学」の上に立っています。逆に取りやすいところから多く取るというのは、当然「貧困の経済学」――かつ低水準の行政能カ――の上に立っていることになります。農民を含め勤労者というものは、貧しい状態に置いた方がよく働くものだとする根強い伝統的な経営者理念は、「貧困の経済学」を信奉するものです。
 まとめに入りましょう。かたや貨幣経済の発展とかたや農村の貧しさと荒廃、両者の不均等な状態こそ、封建制経済の最大のガンであることに着限して、梅園はあくまで農村の貧しさを克服する方向で解決策を考えているのです。たしかに農本主義ですから、貨幣経済の発展の先に未来社会があることの認識はないともいえます。あるいは土地の所有制度にふれないで、つまり封建的な土地所有制度を不間に付したままでは、帰農を促し農村への定着を訴えても政策的効果は薄いであろうとはいえます。ただ封建制打倒を言ってしまえば、事態の改善改良を意味する政策論は成り立たなくなります。しかし見方によっては、こんにち金融取引が実体経済を離れて一人歩きし、バブルの破綻が甚大な被害を各国の経済に与えている状況を見るにつけ、実物と貨幣とのつながりを重視し、民生の充実こそ施政の基本だとした梅園の着眼点は古くて新しいといえるのでしょう。儒教の知的圏内であれ、日々の経済的実情を観察しながら経済原理に立ち返って判断し処方する――その姿勢は自の前にある常識の認識批判をしながら、世界の根本構造を思索する梅園哲学の本領の反映でしょう。
 ただ三枝博音教授が述べるように、ただちに反観合一の適用例とはいえるかどうか。あるいはまた条理の哲学体系が、世界観的パラダイムとして農村経済の分析・探求をどの程度方向付けているのかも正確にみるべきと思います。つまり高度の抽象性、包括性において際立つ梅園の哲学的演繹体系と、経済の実情から出発して帰納的に推論を重ね因果関係をつきとめて解決策を出す経済政策との間に相互にフィードバックできる関係が成り立っているのかどうかです。どんなに華麗に見えようとも、哲学的演繹体系は、事実によって検証ないし反証されるような構造にはなっていないならば、それは閉じられた体系であり、スコラ的空理空論といわれても仕方ないからです。杞憂ならばいいのですが、一部の研究家に梅園の条理体系をやや神秘化する向きがあるやに感じましたので、あえて一言付け加えました。
  日本人離れしたラジカル (根源的) な思索活動に力を尽くしたあと、梅園が鬼籍に入った1789年は、はるか遠くのフランスでバスチューユ牢獄の襲撃をきっかけとして、封建制廃止、自由・平等・博愛の市民革命が勃発した年でした。

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