水俣病が映す近現代史(29)水俣病事件としての労働争議

【明治~戦前までの労働組合運動】

明治以降、日本は近代化を推し進める中で、多くの賃金労働者が生まれたが、労使関係は主従関係のような非人間的なものだった。

1885(明治18)年、山梨県甲府の製糸工場でのストライキが日本で最初の労働争議であったとされている。その後1897(明治30)年、片山潜・高野房太郎らが「労働組合期成会」を結成し、日本の労働者運動が本格的に始まったかにみえたが、1900(明治33)年に制定された治安警察法によって運動は弾圧された。

大正時代にはデモクラシーのムードのなか、鈴木文治の指導により友愛会が結成され、やがて日本労働総同盟と改称し、日本の労働組合の全国中央組織として発展した。しかし昭和に入り治安維持法が制定され弾圧が一段と厳しくなった。1936(昭和11)年の2・26事件以降、メーデーが禁止され、労働組合運動は壊滅状態に陥った。1937(昭和12)年、日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が制定され、1940年には大日本産業報国会が発足し、すべての労働組合は解散を余儀なくされた。

しかし労働運動の歴史は確かに存在しており、戦後に知識層が中心となってそれを再興する動きにつながる。

【戦後の労働組合運動】

日本の戦後の労働運動は、GHQの初期占領政策によって大きく影響を受けた。GHQは、日本を民主化するために様々な改革を行ったが、労働改革はその重要な柱の一つだった。

1945(昭和20)年12月、GHQの指導のもとで労働組合法が制定された。これにより、労働者は団結権、団体交渉権、争議権という、それまで認められていなかった権利を手に入れた。さらに、労働関係調整法(1946年公布)と労働基準法(1947年公布)という「労働三法」が制定され、労働者の権利を保障する重要な基盤となった。

GHQは、労働組合の保護と育成を日本政府に命じただけでなく、アメリカの労働組合組織であるAFL(アメリカ労働総同盟)やCIO(アメリカ産業別労働組合会議)の指導者たちを日本に招き、労働運動を支援した。その結果、日本の労働組合組織率は急速に上昇し、1946(昭和21)年末には39%、1949(昭和24)年には53.6%という高い水準に達した。

この背景には、当時の極東司令官マッカーサーが、アメリカ大統領を目指していたという事情があった。共和党には労働組合の支持層があり、マッカーサーは日本の労働運動を巧みに利用しようとした。しかし、1948(昭和23)年6月の共和党候補選挙で彼は惨敗し、その直後からGHQの方針は手のひらを返したように転換した。

選挙惨敗の翌月、マッカーサーは芦田均首相に「マッカーサー書簡」を送った。これは、公務員の労働権を制限することを求める内容だった。この直前に、現業公務員と非現業公務員の合同による大規模なゼネストが計画されていた。この書簡を受けて、1948(昭和23)年7月には政令が公布され、公務員の争議行為は禁止され、団体交渉権も厳しく制限されることになった。この政令は、1952(昭和27)年に失効するが、その間、公務員の労働運動は大きく制限された。

マッカーサーの政策転換は、国際情勢の大きな変化とも深く関わっていた。1948(昭和23)年に朝鮮民主主義人民共和国が成立し、1949(昭和24)年には中国で革命が成功して毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。これらの出来事は、アメリカ(資本主義)にとって市場を失うことを意味した。さらに、ソ連が原爆実験に成功したことは、アメリカだけが核を持つことで獲得した世界の軍事的覇権を失ったことを意味していた。第二次世界大戦終結後にアメリカが描いていた世界秩序は、音を立てて崩れたのである。

これらの出来事を受けて、アメリカは急激に「反共」へと傾斜していった。共産主義者を排除しようとする「レッド・パージ(赤狩り)」と呼ばれる運動が始まり、アメリカ上院議員ジョセフ・R・マッカーシーが主導したことから、「マッカーシズム」とも呼ばれた。「マッカーシズム」はアメリカ本土よりも朝鮮半島で生身の暴力となって猛威を振るった。「四・三事件」では、済州島で数万人が殺害された。(本シリーズ19: 敗戦前後の朝鮮と水俣)

日本でも「レッド・パージ(赤狩り)」が1949(昭和24)年から行われ、行政機関において共産党員とその支持者が、翌年7月からは民間企業でも同様の解雇が行われた。新日窒水俣工場では「緊急人員整理」と称して25名が解雇の対象となった。当年東大を卒業して入社したばかりの労組組合長もその一人だった。解雇されたのは、彼のような大卒者だけでなく、一般の工員も含まれていた。戦後、マルクス主義を勉強する労働者も少なくなかったという証言もある。そうした人も対象とされた。しかし、組合の幹部でも対象とされなかった人もいるので、上層部の恣意的な判断が働いていたことが推測される。

1949(昭和24)年3月には「ドッジ・ライン」が発表され、財政再建を目的とした緊縮財政政策が実行された。これにより、主に国営・公共企業で大量の解雇が行われた。労働組合はこれに対して必死の抵抗を試みた。特に争議が激化した国鉄で、下山事件(総裁が謎の死)、三鷹事件(無人列車暴走)、松川事件(軌道破壊による脱線転覆)という不可解な事件が相次いで発生した。民間企業でも、雇用者数の多い東芝、日産、トヨタ自動車などの大企業で大規模な争議が起こった。

しかし、これらの労働争議を経験した多くの経営者は、組合との全面対決を避け、協調路線へと転換していった。他方、石油化政策によって打撃を受けた石炭産業を中心として、大規模かつ強制的な人員整理が避けられず、経営者と労働者の間で激しい衝突が続いた。

その代表的な例が、旧財閥である三井鉱山が運営する三井三池炭鉱であった。三池炭鉱では数千人の組合員が300日を超えるストライキを行い、これは過去最大規模のストライキとなった。しかし、会社側の巧妙な組合切り崩し工作によって、1960年8月、労働組合側は敗北を喫した。この三池争議は、戦後労働運動の大きな転換点となった。

石炭化学産業を基本としていた新日窒も、当然「合理化」の大波がほどなく到達する。

【水俣工場労働組合の誕生】

戦後、多くの企業で労働組合が結成されるなか、日窒水俣工場では、1946(昭和21)年1月26日に「日本窒素水俣工場労働組合」(水俣労組)が設立された。労働組合法が施行(3月1日)される前のことである。これは労働組合についての知識があった大卒社員たちが中心となって設立を呼びかけ、実現した。水俣労組は、工場の再建と日窒の復興、そして労働条件の改善を目指す、「労使協調型」の組合だった。

日窒という会社は、戦前から続く財閥系の企業によく見られたように、社員と工員という身分制度が存在した。社員は月給制、工員は日給制という待遇の違いがあり、地元(水俣地域)で採用されるのは中卒の工員のみだった。高卒以上が社員の条件であったが、地元採用だと高卒でも工員扱いだったという。工員は出世しても係長未満の組長止まり。さらに工員の中にも男女で格差があったというから、まさに身分制度と呼ぶべき状況だった。

こうした身分制度の撤廃こそが、水俣工場労働組合が会社に対して最初に要求したことだった。1949(昭和24)年、組合は工員・職員という呼称の廃止と給与体系の統一、そして定年年齢(50歳)の延長(55歳)を求めた。しかし、会社は「生産秩序の維持」を理由にこれを拒否。人員整理をしたい会社にとって、定年延長は受け入れられないものだった。

1953(昭和28)年、組合が実施した調査によると、主要な硫安工業の会社では、すでに呼称は社員に統一され、給与もほとんどが月給制となっていた。新日窒の労働者の権利に対する意識は、他社に比べて非常に遅れていたと言えるだろう。

組合の要求は続き、ついに1953(昭和28)年10月、ストライキを決行した。その結果、会社は呼称の統一と定年延長を受け入れたが、給与体系の変更はすぐに実現しなかった。ストライキは一旦解除されたが、翌年の就業規則の改訂で変更されたのは定年制のみだった。

このストライキの最中、会社は組合員の一部に働きかけ、第二組合を作る工作を謀っていた。組合幹部の機転でこの動きは食い止められたが、会社が労働者の分断を図る体質を持っていることが明らかになった。

【滋賀守山工場での争議】

1960(昭和35)年、新日窒傘下の日窒アセテート守山工場で労働争議が勃発した。水俣工場で差別的な扱いを受けていた工員よりも、守山工場はさらに待遇が悪かったという。繊維工場=女子工員が多いことが理由だったというが、当時はこのような偏見に満ちた差別的な待遇がまかり通る時代であった。

守山工場の労働者は、水俣工場と同じ給与体系を求め、水俣工場労組との「日窒連合」を結成し、「合化労連」(合成化学産業労働組合連合)にも加盟した。五井工場でも労組が結成されることを前に、水俣労組が主導権を失うことを恐れ、「日窒連合」の結成を歓迎した。

この動きに対し、会社は吉岡社長が「闘争至上主義の組合(水俣労組のこと)に入ることは工場を潰すことになる」などと言う録音を拡声器で流し妨害したが、投票は圧倒的多数で承認された。

会社は1953(昭和28)年の水俣工場ストライキ時と同様、リーダー格の労働者に働きかけ、会社寄りの新組合「第二組合」を作らせた。そして、さまざまな手段を使って、第一組合(もともとの労働組合)を切り崩そうとした。会社は、第二組合の構成員に、第一組合の部下をどれだけ切り崩せるかを評価基準としたため、第二組合は、第一組合員が就職したときの保証人(親戚や地元の有力者)に働きかけるなど、あらゆる切り崩し工作を行った。

1961(昭和36)年、第一組合が賃上げを要求したことで、全面ストライキに突入した。会社はロックアウト(事業所を一時的に閉鎖して労働者の就労を拒否すること。労働関係調整法で定められており、正当性がある場合、賃金支払い義務を免れる。)を宣言し、工場内では第二組合の労働者が強行就労を始めた。結局、106日間の争議は賃上げ案を了承することで終結した。第一組合は存続したが、組合員の切り崩しは進んでしまった。この争議は、滋賀県では1954(昭和29)年の近江絹糸(現・オーミケンシ)の労働争議に次ぐ規模となった。

【「安定賃金方式」そして水俣闘争へ】

1960年代に入ると、岩戸景気も末期にさしかかり、化学業界は競争激化と輸入品の流入で価格が下落し、新日窒も例外ではなく、特にアセチレン誘導品はコスト高となって競争力を失い、業績は悪化していた。

1962(昭和37)年5月25日、千葉の五井に建設中の石油化学工場にポリプロピレン製造設備が着工した。年内完成を目指していた。また、守山工場にはポリプロピレン繊維工場が着工した。

1962(昭和37)年、「春闘」で新日窒労組は賃上げを要求したが、会社はゼロ回答だった。労組はストライキを繰り返したが、会社は譲歩しなかった。

そして会社は唐突に「安定賃金方式」を提案してきたのである。これは、賃上げ額を同業他社の平均妥結額に連動させるもので、組合がそれを受け入れたら人員整理は行わない、というものだった。

この提案の背景には、各企業の経営者団体がストライキを避けるため、組合の要求をできるだけ飲まずに、かつストライキも回避する方策を模索していたことがある。同様のものが化学業界や他の業界の一部でも提案されていた。とくに新日窒は、これから稼働する五井工場がコンビナート形式であったため、ストライキを回避したいという事情もあった。

労組は即座にこの提案を拒否し、ストライキに突入した。組合側は、安定賃金制度は実際は人員整理の隠れ蓑であると考えた。労組は中央労働委員会(中労委)に斡旋を申請したが、妥結には至らなかった。

【組合分裂、「第二の三池」に】

争議が長引く中、組合内に「工場民主化研究会」(民研)という組織が作られ、組合員に加入を呼びかけ始めた。組合は民研の解散を決めたが、民研の活動は止まらなかった。そして会社は水俣工場にロックアウトを宣言をした。組合はストライキを全面・無期限に切り替えた。その翌日、民研は「組合分裂」を宣言し、第二組合を名乗ったのだった。(ここから元来の組合は第一組合と言う)

第二組合は、当初は高卒者を中心とした250名だった。対立は激化し、第一組合のメンバーは第二組合員が生活する社員寮を包囲して軟禁した。水俣の街は争議で騒然となり、「第二の三池」と呼ばれるまでになった。

工場内では、第一組合員と第二組合員が衝突し、会社は工場の入出妨害を止めるための仮処分を裁判所に訴えた。裁判所の決定を受け、第一組合は第二組合員の工場内就業を認めた。第一組合は第二組合員の入出や食料などの搬入を、正門で厳しく監視した。

第二組合は会社の提案を受け入れ、安定賃金と合理化協定を締結した。

【悪辣な配置転換】

このストライキは10ヶ月にも及ぶ長期戦となった。第一組合の団結は非常に固かったが、長期戦となるなかで三池炭鉱の争議と同様に、離脱し第二組合に移籍する者が跡を絶たなかった。

最終的に、組合は熊本地方労働委員会(地労委)の斡旋案を受け入れ、ストライキは解除された。斡旋案は会社案より増額された安定賃金体制と、過剰人員の整理の受け入れだった。

ストライキが解除された後も、会社は第一組合員に対する差別的な扱いをやめなかった。再就労・再配転は段階的に行われ、その過程で会社は労働者を細かく選考しており、組合員を選別していた。

元の職場に再配属されなかった労働者は、新設された「施設部」という部署に配属された。特に、組合幹部は最も過酷な労働を強いられる「第5課」に配属され、道路清掃や草むしりなどの雑務に従事させられた。

さらに会社は「希望退職」を募集したが、実際は募集とは名ばかりの、会社が独自に設定した「基準」に基づく強制解雇だった。組合はこれに反対し、交渉を重ねたが、結局、多くの労働者が退職せざるを得なかった。

【子会社設立とさらなる人員整理】

「希望退職」は3次実施され終了したが、次に会社は水俣に子会社「南九開発株式会社」を設立し、約320名の労働者を配置転換すると通告した。これも配置転換とは名ばかりの解雇であると組合は反発し、地裁に地位保全の仮処分申請を行った。しかし、裁判所は新日窒はこれまでも子会社を作っては人員を移動させてきた経緯があり、組合もそれを認めてきたという理由で、申請を却下した。

南九開発での労働は、製品の運搬、ドラム缶洗浄などの雑役、工場外では道路舗装や整地作業であり「施設部第5課」が子会社化されたのと同様であった。

【会社の「勝利」と闘争の傷跡】

これらの労働争議が収束したとき、結果的には会社が最初に示した余剰人員750人は、様々な形で削減された。

一連の闘争によって会社は当期利益で前年度比10億9100万円のマイナスを計上。新日窒からの歳入に大きく依存していた水俣市の歳入不足額は約2000万円といわれ財政を圧迫した。

それだけでなく、32.3%あったアセトアルデヒドの市場占有率は20.7%に激減し、オクタノールのそれはほぼ失った。石油化後の市場を取り戻すためにこのあと日本興業銀行と供に悪戦苦闘する。

当時の水俣市の人口は約5万人。新日本窒素および関連下請工場の従業員は約5000名。家族や近い親戚に必ず「関係者」がいた。組合員の分裂は、同僚間、先輩後輩間だけでなく、家族・兄弟までを引き裂いた。争議以来、別居・断絶したままの親子・兄弟も少なくない。

こうして闘争は水俣のまちに大きな傷跡を残した。現在でも、表面上は水俣病のそれより大きい。

会社は、この闘争に「勝った」ことでいくつかのものを得た。悲願の人員整理、組合の弱体化、そして何より水俣病事件の粉飾であった。しかしこれは会社の一方的な「勝利」では終わらなかった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1337:250111〕