21世紀ノーベル文学賞作品を読む(6―上)

エルフリーデ・イェリネク(オーストリア、04年度受賞)の『ピアニスト』
(鳥影社刊、中込啓子:訳)――社会の不条理と抑圧への反発

E・イェリネク(1946~)は2004年度のノーベル文学賞を受けた。受賞理由は「その小説と劇作における音楽的な声と対声によって、社会の不条理と抑圧を並外れた言葉への情熱を持って描き出したこと」。その魅力の一端を、代表作『ピアニスト』で探ってみよう。

エリカ、原野の花<ヒース、淡い紫紅色、小低木の小花>。この花から娘は名前を貰っている。出産する前、母親の目の前には何かおずおずとして、優しいものが漂っていた。そのあと母親が、生身の体から勢いよく飛び出させた粘土の塊を眺めていた時に、純粋さと繊細さを保持するためには、気配りなどせずにその塊を的確に形を整えて切るという仕事にすぐ取り掛かった。あそこで一部分切り取って、向こうでも未だちょっと切るという具合に。どの子供も汚物や糞便を前にしたら、無理やり引っ張り戻さないと、本能的にそれを目指して進む。

エリカのために母親は早期から、何らかの形で芸術的な職業をと選ぶが、それは、苦労多くして獲得した精緻な技からお金を搾り取ることができるように、という魂胆があったからだけれど、他方では平均的人間がこの女性芸術家を称賛しながら取り囲んで拍手喝采してくれることもある。今ようやくエリカには然るべく叩き込まれたあげくの繊細な技がある。今からすぐにエリカは音楽のワゴンを軌道に乗せて、即座に技巧を凝らし始める方がいい。従って、このような少女にうってつけでないのは、荒っぽいことを実行するとか、難しい手仕事や家事をすること。

少女は生まれた時からクラシックのダンスや、歌曲や、音楽の技巧へと運命づけられている。世界的に著名な女性ピアニスト、これがどうやら母の理想像である。ということは、奸計を弄してでも子供が道を見出すようにと、母親はどこの角にでも道しるべを地中に叩き込んで、もしエリカが練習したがらない時には、娘も一緒に叩き込む。母は、エリカを嫉妬している一群の存在のことを警告するが、その群団というのは、やっと勝ち取ったものを常に邪魔しようとしていて、その殆どは例外ないくらい男性集団なのだ。

気を逸らしちゃダメよ!エリカが到達するどんな段階でも、ゆったり休息する暇などは許されない。はあはあ息を弾ませながら、アイスピッケルにもたれかかったりしていてはいけない。なぜなら、すぐに次に進むのだから、つまり次の段階へ、と。森の動物たちは危険なほど間近に寄って来て、同じようにエリカを野獣化しようとする。競争相手たちは眺望を説明してあげたいからという口実を使って、エリカを岩礁におびき出そうと願う。

とにかく、どんなに易々と人は転落するものなのか!母親は子供が深淵に陥らず身を守るように、深淵とはどんなであるのか目に見えるように描写する。頂上では世界的名声を欲しいままに支配できるけれど、大抵の人々には世界的名声が首尾よく達せられることなど決してない。頂上では冷たい風が吹いていて、そこにいる芸術家は孤独であり、自分でもそうだと言っている。この母がなおも生きていて、エリカの未来が活気づいている限り、この子にとって問題になるのは唯一つ、つまり絶対的な世界のトップ。

ママはいつも両足で大地にしっかり根を張って立っているから、下から押し上げている。そして間もなくエリカは出身の地である母なる大地<本来の意味は肥沃な土>にもう立ってはいない、そうではなくて、既に彼女は先の方へと奸策を巡らした別の大地の背面に立っている。こちらは危なっかしい大地だ!エリカは母親の両肩の上で爪先立ちして、熟練した指を突き立てて、上の方にある突端をしっかり掴む。残念ながらそれは、頂上の本物の突端だと思わせただけで、単なる岩のうちの突出部だという正体をやがて顕わにするが、エリカは上腕の筋肉をぴんと張りつめ、体を上に、上にと伸ばす。

今では鼻が突出部の上方をちらちら覗いて見ているが、それも新たな岩をもう一つ見つけざるを得ないためだけだという結果になる。しかも初めの岩より更に切り立っている。しかし、ここでは名声という製氷工場は、早くも支所を一つ所持していて、工場の複数の製氷産物を幾つもの塊にして貯蔵しておき、このやり方で貯蔵庫のコストをそんなには犠牲にしないでいるのだ。エリカは塊の一つを舐めていて、一回の生徒コンサートのことも、早くもショパン・コンクールの優勝獲得とほとんど同じ位に受け取っている。未だ一ミリだけ足りない。足りていれば、自分は上位だ!とエリカは思う。

母はエリカが余りにも控えめなので、ちくりと嫌味を言う。あなたはいつだってビリなのね!お上品に控えていたって何にもならない。人はいつだって少なくとも上位の三人に入っていなくてはいけない。遅れてくる物事全てはゴミ箱入りになる。このように母は話していても、子供には最優秀を願っている。だから我が子を路上に放置させたままにしないのは、我が子がスポーツ関係の試合に参加しないため、そしてまた音楽の練習をなおざりにしないという目的のためだ。

エリカは目立ちたがらない。上品に自分の感情を抑制していて、他の人たちが彼女に代わって何かを獲得するのを待っている、と母獣は気持ちを傷つけられて嘆く。自分は我が子のために全ての事を独りで面倒を見ざるを得ないと痛烈に嘆いたり残念に思いながらも、勇ましい声を上げながら闘いに突進する。エリカは気高く自分自身を後回しにするが、そのためストッキングやパンティを買える位の細かいお恵みコインのほんの数枚さえ手に入れることはない。

数年が経過するうちには、これはという時に誰かを見下すことにかけて、エリカは母親以上になっている。結局ああいう素人は問題じゃないのよ、ママ。あなたの判断は生半可で、あなたの感受性も十分に熟していない。専門家だけが私の職業では価値があるのよ。母親が返答する。市井の平凡な人間の称賛を侮ってはいけない。こういう人たちは心で音楽を聴いて、それで楽しんでいるの。技術を高め過ぎてヘマをしがちな人たちや、甘やかされた人、思い上がった人たちより、もっと。お母さんは自分では音楽の事は何も判らないのに、それでも自分の子供をこういう音楽という馬具用の軛に無理に入れるわけなのね。

母と娘の間で復讐試合が正々堂々と展開する。やがて子供には、音楽の面では自分が母親を凌いでしまっていると判るからだ。子供はその母のアイドルであり、母はその分の手数料としては、ほんの少しの料金しか子供に要求しない。つまり、子供の人生だけを。母は子供の人生を自分で価値判断しても許されると思いたい。市井の平凡な人間との交際がエリカには許されない。でも、称賛にはいつでも耳を傾けていても許される。専門家の人々は残念ながらエリカを褒めない。

素人の愛好家の非音楽的である運命が、あのグルダやあのブレンデル、あのアルゲリッチ等々を掘り出した。けれども、そのような運命はコーフートの傍を、執拗に顔をそむけて通り過ぎる。そのような運命がどのみち不偏不党の存在であるのを余儀なくされるから、粋な仮面に騙されたりしたくはない。魅力的だとはエリカについて言えない。魅力的でありたいと欲するなら、母は即それを禁止しただろう。両腕をエリカは運命に向かって伸ばすが、無益なのだ。とにかくそのような運命はエリカをピアニストに仕立てあげない。鉋屑になってエリカは地面に投げ出される。エリカには自分に何が起きているか判らない。もうずっと前から自分が巨匠であるも同然なのだから。

初出:「リベラル21」2025.01.18より許可を得て転載
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