21世紀ノーベル文学賞作品を読む(6-中)

E・イェリネクの『ピアニスト』(鳥影社・中込啓子:訳)
――社会の不条理と抑圧への反発(続き)

その後、エリカはとにかく「音楽アカデミー」における大切な修了コンサートで無力ぶりを完璧にさらけ出す。ライバルたちの招集された家族の前で、そして連れなしの一人で現れた母親の前で、彼女は期待された成果を挙げられない。母親はなけなしの金をはたいてエリカのコンサート用衣装と化粧に費やしていた。後でエリカは母から平手打ちを食らう。
音楽の面でずぶの素人でさえ、例えエリカの両手にではなくても、その顔に能力の機能マヒを読み取ることができたからだ。おまけにエリカは、幅広く、滔々と流れゆく大衆のための選曲を全くしていなかったのだ。それどころかメシアン(フランスの現代音楽の作曲家)とかいう名前の作曲家を、母親が断固警告をしていた選択をしていたのだった。

この選択をした子供は、こんな風では、母親と子供が既にいつも軽蔑してきた大衆の心に忍び込んでいくことはできない。前者<母親>はいつも例の大衆の、小さくて目立たない一部分だったから、そして後者<エリカ>は決して大衆の、小さくて目立たない人でありたくはないから、という理由からの選択だった。屈辱のうちにエリカは演奏していた壇上からよろよろ離れ、恥辱にまみれ、自分の発送人、つまり、母親の出迎えを受ける。元高名な女性ピアニストだった自分の先生もまた、集中力欠如だったから、と非常に激しい調子でエリカを叱責する。大きなチャンスが役立てられなかったし、もう二度とその機会が戻って来ることはない。もはや誰からもエリカが嫉妬されず、もう誰の願望の的でもない日が遠からず近づいてくるだろう。

教授職に鞍替えする以外、何がエリカに残されているというのか。突如つっかえつっかえ弾く初心者や心のこもっていない上級過程生の前に自らの姿を見出すことになる巨匠ピアニストには、酷い措置だ。かつての時代同様、今でも未だ多くの若い人たちが芸術へと駆り立てられるが、そのうちの大半は自分たちの両親に芸術へと駆り立てられている。というのも、その両親らは芸術について何一つ理解しておらず、芸術が存在していることだけは何とか知っているに過ぎないためだ。

おまけに両親たちはその関わりをとても喜んでいる!とはいえやはり限界も在らざるを得ないわけで、多くがまた芸術を脇へと押しやることになるのは確かなこと。エリカは教職活動をしていくうちに、才能のある者と才能のない者との間に殊更好んで境界線を引くようになり、選び出したり選び捨てたりすることで多くの事柄が報いられている。所詮、エリカ自身がかつて抜きん出た雄羊(マタイ伝に「悪人<羊たち>から善人<雄羊たち>を区別する」の一節がある)として、並みの羊たちから区別されていたことがあった。エリカの男女の生徒らはごく大雑把に言えば、ありとあらゆる種類の者が混在していて玉石混淆であり、誰も生徒たちを予めそれとなく味見したり、味付けしたりはしていなかった。

生徒のうちに稀にしか一本の赤い薔薇は見つからない。教職初年度にエリカは早くも、クレメンティ・ソナチネ<作品三六の第1番から第6番までの全六曲の小ソナタ>の一曲か二曲の果実をかなり多くの生徒たちから掘り起こすことに成功するが、その一方で他の生徒らはぶつぶつ不平を言いながらチェルニーの初心者練習曲を未だあちこち掻き回していて、中間試験の時には引き離され、見棄てられる。理由は、両親たちが、自分の子供は直に肉や野菜入りのパイを食べるだろうと固く信じているのに、子供は葉っぱ一枚、穀物一粒を見つけようなどと少しも願わないからだ。

三年経つとその都度ピアノ生徒は次の一段高い級に進級する必要がある。この目的のためには進級試験に合格することだ。この試験に関する最大の仕事としてエリカはより高度なツーリングを目指して、かなり激しくアクセルを踏み、怠惰な学生エンジンを締め上げなければならない。こんな風に手をかけた生徒のエンジンが時々きちんと始動しないことがある。そのような生徒が音楽という言葉を女の子の耳に滴らす時だけ、音楽と関係を持ちたいのに過ぎず、出来ればなるべく全く別のことをしたいためだ。エリカは音楽という言葉を女の子の耳に滴らすところなど喜んで見たくないし、自分で出来る時には阻止する。

時々、エリカは試験前にお説教する。作品に相応しくない間違った精神で全体を再現するよりは、ミスタッチする方が未だずっと害は少ない、と。言ってみれば、不安で心を閉ざしている聞こえない耳に、エリカは説教をしている。その理由は、多くの生徒にとって音楽は、労働者階級の深みから芸術家の清廉さという高みへの飛翔であるからだ。生徒たちは後々同じように男女のピアノ教師になる。試験の時には、不安という興奮剤をドーピングされて、汗で滲む指が性急な鼓動に急き立てられ、誤ったキーの上に滑ってしまうのを、生徒たちは恐れている。すると、試験前にエリカは存分に解釈を話して聞かせることが可能だ。あなた方はとにかく、終わりまで弾き通すことが出来ると欲することです。

エリカの思考は、金髪の美しい青年、ヴァルター・クレマーに喜ばしげに向かっていく。この若者は最近、朝一番に早くもやって来て、夕方には一番最後に去っていく。勤勉なところは四季咲きのベゴニアそのままだ、とエリカは認めざるを得ない。クレマーは工科大学の学生であり、そこでは電流とその有益な特性とを学んでいる。最近では生徒全部が終わるのを待ち通す。それも、初めの躊躇いがちに指で打つ練習から、ショパンの幻想曲へ短調、作品第四九番の最後の打鍵まで。まるでこの青年には有り余るほど時間があるかのように見えるが、こんなこと、大学課程の最終段階にいる学生の場合に有りそうにはない。

非生産的にここでぼんやり座っているよりは、むしろシェーンベルク(1874~1951:ウィーン生まれ、12音技法の創始者)の練習を実践してみる方がいいのでは、とある日エリカは訊いてみる。大学の勉強で学ぶべきことはないの?講義とか、演習とかはないの?何もないの?彼女は学期末休暇中だと聞かされる。エリカは多くの学生を教えてはいるけれど、学期末休暇など考えたことがなかった。ピアノの休暇と大学の休暇とは重なり合わない。厳密に言えば、芸術に関して有給休暇などは決してないし、芸術がどこまでも人に付いて回る、そして芸術家にはそれだけが正しい。

エリカは訝る。クレマーさん、一体どうして貴方はいつもそんなに早く来るんですか?
もし貴方のように、シェーンベルクの33bの演奏を勉強している人なら、「楽しく歌いましょう、悦ばしき響きを」(ウィーンでよく知られた1960年発行の「子供の歌と民謡集」)などという歌集を気に入っているなんて有り得ないことですよ。ですからなぜ耳を傾けているんですか?せっせと忙しげなクレマーは嘘をつく。どこでも、いつでも人は何かしら利益を得ることができます、それがほんの僅かだけであっても。あらゆるものから教訓は引き出せます、ともっと益しな事など何も企てていないこのペテン師は言う。

自分の兄弟たちのごく小さな事柄そしてほんの僅かな事からさえも、知識欲いかんでそれなりに、いくらか脳裏に焼き付く場合もあるのです。でもねクレマーさん、先に進んで行くには、じきにそういう事を乗り越える必要がありますよ。生徒はごく些細な事に固執している事など許されません。固執ばかりしていると、生徒の上位者が余計な手出しをしますよ。その上エリカが何か演奏してみせる時、それがただ単調な歌声を伴ったり、ファララと弾きながら歌ったり、あるいはロ長調音階の音を響かせたりするだけでも、この若い男は喜んで女性教師に耳を傾ける。

エリカは言う。クレマーさん、貴方の年長のピアノ教師にお世辞を言わないで下さい。若い男は答える。年長だなんて問題になり得ません。それにお世辞だというのは真実でありません。それって、僕が全面的に、極めて正直に、心底から納得して言っている事ですから!この美しい青年は、自分はものすごく熱心なのだから、教材以外に何か課題を付け加えて練習しても構わない、という好意の標を時々請い求める。期待一杯の表情で女性教師をじっと見て、指示を待っている。合図を待ち構えている。馬上で高みの鞍に座っていて傲慢な女性教師は、シェーンベルクに関して辛辣な言い方をして、若い男の熱気を冷ます。つまりは、それにしても貴方はシェーンベルクをまたしても未だそんなに上手には弾けていませんよ、と。生徒は自分が見下されているという時ですら、そのような教師陣の一女性教師にどんなに喜んで自らを委ねていることか。女教師はと言えば、生徒を見下しながら手綱をしっかりと握っている。

初出:「リベラル21」2025.01.18より許可を得て転載
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