21世紀ノーベル文学賞作品を読む(6-下)

『ピアニスト』の作者、エルフリーデ・イェリネク(オーストリア、2004年度受賞)の人となり

エルフリーデ・イェリネクは1946年、ウィーンの南西百キロほどの地方小都市ミュルツツシュラーク(シュタイアーマルク州)に生まれ、ウィーンで成長した。父親は労働者階級出身のユダヤ人で、大学を卒業し、化学の学士号を持つ。父方の祖父はオーストリアの社会民主主義運動の創設者の一人。一方、母親はウィーンの富裕なブルジョワの家の出で、カトリック信仰者だった。母親自身は有力企業で働き、人事管理部門のトップを務めた。

生地のオーストリアはウィーンやザルツブルグなど中世以来の美しい街並みと壮大な王宮や荘厳なカテドラル、音楽や美術の豊富な文化遺産を誇る都市にイメージされる。あるいはアルプスの山々が聳え、自然の恵みが溢れるチロル地方に、多くの観光客が訪れることで知られている。しかし、重すぎる過去の伝統や自然遺産は、言葉を換えれば、保守性となって、社会を重苦しいものとする。また、年間二千万人もの観光客の殺到は、国内総生産の一四%を占める観光業収入をもたらすが、その源泉である貴重な自然や独自の文化の破壊をもたらしかねない。

近い過去では、ナチズムという暴力が世界を荒らし回った時、その最初の被害者が、1938年にドイツに強制的に併合された「自分たちオーストリア人である」と考える人たちがオーストリアには多いようだ。だが、この「被害者」論が、「EUの被害者であるオーストリア人」論をはびこらせる社会的土壌を培ってきたのだ、として厳しくオーストリア人を叱る論陣も、一方で張られている。そして、その急先鋒の一人がこのイェリネクなのだ。

もう一度、イェリネクの成長期に戻る。教育はあるが、社会的には低い階層出身のユダヤ人の父と、富裕なウィーン市民階級出身の母。この家庭は、イェリネク自身も述べているが、父と母の二つの相異なる価値観のはざまに苦しむ子供時代をもたらした。彼女自身が日常的に遊びたがったのは労働者の家庭の子供たち。だが、母はそれを禁じた、というふうに。

イェリネクは修道院付属の小学校に通った後、ギムナジウムで高校卒業資格試験を修め、その間並行してウィーン音楽学校でパイプオルガン、ピアノ、ブロックフレーデを学ぶ。64年、ウィーン大学に入学。演劇学と美術史を専攻し、67年中退。並行して続けていた音楽学校は71年、オルガン奏者国家試験に合格し、卒業している。
イェリネクはこの時期に文学作品の執筆を始め、叙情詩を書き、67年に最初の詩集を発表。文芸雑誌に短い小説などを掲載する。69年には、その詩作品に対してオーストリアの二つの文学賞を受賞し、作家としての評価を得ていく。その作家活動は多岐に渉り、抒情詩はもとより、ラジオやテレビ、映画の脚本を書き、また多くの戯曲を著述。ドイツのハンブルクやボン、ベルリンの劇場で、さらにウィーンのブルク劇場などで上演されている。

それらの作品への文芸欄での批評や論文、研究書は、他のどの作家と比べてみても、数としても質としても遜色ない。小説作品も、89年の『欲望』がベストセラーになり、現代オーストリア作家、あるいは現代ドイツ語圏の作家として、重要な地位を獲得している。文学賞も、86年度ハインリヒ・ベル賞など多くを獲得している。
だが、高い評価が寄せられるイェリネクの作品は、読者に愛され、観客から温かい拍手が寄せられる筋合いのものではない。彼女自身、「最も憎まれる作家」と自称して憚らず、アバンギャルド(前衛)、アンファン・テリブル(恐るべき仔)というレッテルを張られることもしばしば。その作品で取り扱う素材、テーマが、誰もが目を背けていたかったことであるが故に、常に文学批評の枠を超える論議を巻き起こす。そのような作家なのだ。

代表作『ピアニスト』はミヒャエル・パネクによって映画化され、2001年のカンヌ国際映画祭でグランプリに選ばれている。2004年のノーベル文学賞受賞の際には、「自分が公の人になってしまったのは残念だ」と述べ、トマス・ピンチョンや同じオーストリア出身のペーター・ハントクの方が受賞にふさわしいのではないか、と語った。
現代オーストリアの病弊を暴き、オーストリアの人たちを叱り飛ばし、オーストリアと愛と憎悪で結ばれているのだ。その不機嫌そうな、挑発的な物言い。グロテスクなイメージに満ちた表象。攻撃的な風刺や揶揄による社会批判。文学作品のジャンルの限界を突き破る実験的な創作行為。と列挙できるイェリネクの特徴は、オーストリア文学のある種の伝統の連続において捉えることも可能なようだ。

オーストリア文学に明るい熊田泰章法大教授は、こう記す。
――イェリネクの作品で扱われてきた事ども。第二次世界大戦後の新しい世代の苛立ち。大都市での生活の中での存在の根拠への不安。「男」であること、「女」であることが、もはやそれだけでは、ある個人にとっての規範にはなりえないこと。この社会の中での人と人とのつながりが、個人のレベルでは暴力による支配と被支配となり、個々人の中の傷のその大きな現れとしてのテロリズムがあること。性的関係が互いの癒しのためにあるのではなく、相手を傷つけ、相手を抑圧する結果をもたらすこと。自分が安心できる場所をパートナーと共有することの困難、などなど。題材、テーマとしては気が滅入りそうなものばかりだ。ただ、そのような内容の作品を編み上げ、テクストを構築する言葉が、鈍くて輝きのない言葉なのではなく、軽やかに疾走する言葉であるところに、言語による作品としての特徴がある。

初出:「リベラル21」2025.01.23より許可を得て転載
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