1 原爆と小倉
1945年8月9日、長崎に落とされた原爆の「第一目標は小倉だった」という事実を私が知ったのは、多分小学校4年の頃だったように記憶している。その日、「小倉の天気は曇りだったから」とも聞いている。
しかし、その後、担任が「8月9日の小倉の天気は晴れ、だった!」という郷土史家の調査結果を教えてくれた。しばし、えっ?! じゃあ、どうして?・・・と子ども達の間は騒然としたが、その内、誰が言い出すともなく、「その日、小倉の天気は晴れだったけれど、上空は、八幡製鉄の煙で曇っていた」ということになって(?)何となくウヤムヤのまま収まってしまった。
8月9日、その時、私は2歳。小倉の町のど真ん中に居たから、予定通り原爆が落とされていたら、私はすでに、この世には居ない。父母はもちろん、生まれたばかりの弟もその下の妹も居ない。私から生まれた子ども達も、孫たちも、また弟・妹の子ども、孫たちも居なかったことになる。その後、「この世にいなかったかもしれない私」という思いは、単純に安堵したり、長崎の人に済まない、などという申し訳なさとも違う、何とも収まりの悪い「宙吊り感」として残り続けた。
それから長じた後、広島の原爆投下時刻8時15分、長崎の原爆炸裂時刻11時02分という大きなズレの経緯や理由を知ることにもなったが、この原爆投下の事実と、日本政府の対応に対しては、私の中では(小学生の時以来)、アメリカ許さず!日本政府の無責任!という断罪の思いとして、終生抜きがたいものとなってしまった。
後年、この辺りを小文に書き記したが、その時に記した拙歌2首を上げておこう。
本当は小倉の地だった原爆忌宙づりのまま二歳のわたし
人の世の現(うつつ)にしかと根差しつつ非戦の希ひ汎(ひろ)く深くに
(『広島・長崎・沖縄からの永遠平和詩歌集』コールサック社、2024年)
2 「憲法9条」―無念の「再軍備反対!・・・」
私の小学校入学は1949年4月。小倉の米町小学校だった。しかし、その頃、町のど真ん中に陣取っていた父の乾物屋がどうも危うくなったとか。何でも、若かった父が、急に手にした「お金」で、「酒と女」に現を抜かした結果だったようだ。祖母がため息混じりに口にしたのをうっすらと覚えている。もちろん、意味はよくは分からなかったが、店は閉じられ、店のお兄さんたちも居なくなり、家の箪笥やその他の家具にペタペタ貼り紙されていたから、何らかの「罰」らしいとは感じていた。
最初に、弟が、父の姉夫婦に連れられて居なくなった。田川の炭鉱に行ったのだと・・・。
それから、母と2歳の妹が居なくなった。「山口」の方に行ったと聞かされた。
そして残された私は、母方の祖父母の居る「行橋(ゆくはし)」の、真菰(まこも)という村へ引き取られた。
転校したのは1年次の冬。従妹のオーバーを借りて今元小学校へ通った。
そこで2年生になり、「しらみ退治」のDDTを髪の毛に振りまかれ、お昼時には、未だ持参の各自のお弁当に加えて、「牛乳」が配られた。男の子の多くは、ゴクゴク喜んで飲んでいたが、私はどうも苦手で、少し口にしただけで、残りはこっそり手洗い場で流していた。
この1950年の6月25日、実は、朝鮮戦争が勃発している。北緯38度線を越えて、北の朝鮮軍が南下してきたのだと。さらに、「朝鮮戦争休戦協定」が結ばれたのは1953年7月27日のことである。
第二次世界大戦がようやく終結して間もない頃の、まさしく「冷戦体制下」での突発的な「戦争」。・・・私は、この朝鮮戦争について、同時代に生きていながら、何の情報も受け取っていない。学校の先生からも、祖父母からも、「朝鮮戦争」の「ち」の字すら聞かされなかった。もっぱら、石蹴りや通せんぼごっこで遊んでいただけだった・・・。
ただ、今元小学校での私の「平和な」時代は、学校の渡り廊下での事故(男の子に押されて転倒)それによる顎の怪我と下の歯の後屈というハプニングによって、突然に終わってしまった。
村の医者では手当てができず、私は、校長先生と一緒に、小倉の町の大きな病院に連れて行かれた。そして、祖父(祖母)は、おそらく、この時とばかりに、私の母と父とに連絡を取ったのだ。きっと、この際だから、「縒りを戻せ!」とも強いたのだろう。
それが効を奏したのか・・・、私の歯の事故の後、父と母が対面し、妹も母に連れられて戻って来、弟も帰ってきた。「離散」していた「一家」の再出発である。と同時に、私はまた、小倉の元の米町小学校の3年に舞い戻り(再転校)時は、1951年半ばになっていた。
1951年9月8日、サンフランシスコ条約が署名され、その日の午後、吉田茂ただ一人の署名で、「日米安全保障条約」(旧安保条約)が締結され、日本の戦後の「独立」がもたらされた。ただ、以上の歴史的事実は後知恵で、サンフランシスコ条約も「日米安全保障条約」も、当時の私の記憶には全く入って来ていない。
1952年4月、私は、4年生になった。しかも講堂の壇上で一人顔を赤くしていた短大を出たばかりの新人青年教師が、私の担任になった。密かに「あの先生だったらいいな~」と思っていたから、余計に嬉しい4年生の幕開けだった。
戦争が終わって7年目。連合軍の「占領」期間も終わり、少なくとも日本の「独立」がもたらされ、中央では、文部省・厚生省とも、戦後体制が確立された頃だろう。
しかし、日本列島の南の端、北九州では、「学校」は、二部授業、三部授業などはとっくになくなってはいたが、教室の座席の配列(「コ」の字型とか円型もあり)や授業の内容などは、同学年でも先生次第、良く言えば「自由!」、悪く言えば「バラバラ」ではあった。「今日はお天気だから、外に行こう!」と言い出すのは、先生ではなく子どもたち(生徒)だった。「社会科」の日本の歴史も、自分が調べてみたい時代を子どもたちが自由に選んで、グループに分かれ、調べて、発表して、相互に質問したりした。
しかも、担任は2年制の短大を出たばかり、ピアノ(オルガン)がほとんど弾けなかった。それで、一人だけ、ピアノもスポーツ(逆立ち?)も得意な男子が、毎日放課後に残って、先生のピアノの特訓をやっていた。他の子ども達も大勢居残っていたが・・・。
そういう、「家庭よりも、どこよりも、楽しい学校」で、夕方遅くなると、「さぁ~、みんな~家へ帰りなさい!」と急かされていたのだが、ある時、クラスで「再軍備」をめぐっての討論(意見発表)が始まった。
戦争終了直後は、「大日本帝国」の天皇崇拝の国家精神が危険視され、民主主義・平和主義に基づく日本国憲法制定が誘導された。とりわけ第9条の武装放棄は顕著である。
しかし、改めて顧みれば、第二次世界大戦終結時には、すでに、米ソを中心とする「資本主義/社会主義」の「冷戦」は始まっていたのであり、1949年10月の中華人民共和国の成立や朝鮮戦争勃発などは、それをさらにシビアにしたのだろう。そのためもあって、アメリカの日本再軍備要求が現実化するのである。
家庭やラジオなどの情報をすでに得ていた男子が、まず「再軍備、さんせ~い!」と声を上げた。女子は何となく消極的な雰囲気のまま、「さんせい!」という生徒は少なかった。私も、「再軍備はいらない、戦争はしない」と声をあげた。
ところが、担任が、改まって「そうだな・・・戦争は嫌だけど、軍備は必要だね。
どの家も戸締りはするもんね・・・」と言ったのだった。いわゆる「戸締り論」だ。男の子たちは、それを聞いて、ほぼ全員が「ホラ見ろ、戸締りせんかったら、泥棒が入りほうだいじゃ~」と嬉しそうに大声を上げた。
大好きだったその4年から6年までの男先生。いろいろ影響を受けたし、何よりも「小学校の先生になりたい!」という私の強い希望の元になった先生なのだが、この一件以来、私は他の女生徒のように、この先生に対して無邪気に振る舞うことは、もうできなくなっていた。せっかく憲法で「武装放棄」を謳っているのに・・・と。
3 クラスの級長・副級長-「男女平等」って難しい?
同じく4年生の2学期、「級長・副級長」の選挙があった。1学期に級長・副級長だった2人を除いた中から選ぶのだ。キョロキョロ周りを見回しながら、コレ!と思う友だちの名前を1名だけ書く。
集計した結果から、トップの男子が級長、同じくトップの女子が副級長、と決まった。何と、私が2学期の副級長となったのだ。・・・家で「副級長になったよ!」くらいは話したと思うが、それ以上のことを話した記憶はない。それなのに、その日の夜、珍しく早く帰ってきた父が、「祥子がトップの票を取ったのに、なんで「副」級長なんだ!
これはオカシイ!」と何度も言った。他の友だちの家に立ち寄った時にでも聞いたのだろうか・・・。私の母が、その時、父の発言に対して何と言ったのか、記憶にはない。そこで、私が父に、「だって、いつも男が級長で、女が副級長なんだから・・・」と呟いたら・・・父は、さらにいきり立って、「何で、そうなるんだよ!男女平等なのに、なんでそうなるんだよ!」と繰り返し、とどのつまり、「よし、明日、学校に行ってワシがオカシイ!と言うて来る!」なんてことになってしまった。
ただ、その結果は、校長先生まで引っ張り出しての「談判」になってしまったようだが、校長先生の、「言われることはもっともですが・・・慣例として、そうなっておりますので・・・。しかも<副>というのは<下>に位置づくのではなく、<補佐>であり、級長=副級長が<組・セット>になっていると思っていただければ・・・」等々、それで言いくるめられてしまったようだ。
その時、漠然とながら、「男女平等」という言葉のややこしさ・難しさを感じたことを覚えている。戦後育ちの子どもにとって、「一般論」として、「男」と「女」が「対等」であることは当然だった。だから「正」と「副」に分けられているとしても、それが「差別」とは思えなかったのだ。しかし、父が、唐突ながら言い出した、「いつも」男が「正」で女が「副」と定められているとしたら、また、その交代が自由に行われなくて固定化されているとしたら・・・それは、やはり「平等」とは言えないのかも・・・?
しかし、頭の中だけで「男女平等当たり前!」と思っていた当時の私に、名簿の「男」「女」の振り分けや、「男が先」という慣行の差別性を感じるまでの鋭さはなかった。どんなことも、毎日繰り返される「当たり前の慣例」となると、大抵の人は当然のように納得して、呑み込んでしまうのかもしれない。
ただ一方で、「男女平等」を振りかざして学校に乗り込んだ私の父ではあるが、定職もなく、稼ぎも乏しくて、止む無く、母が「化粧品のセールス」を始めると、ちょっとした夫婦喧嘩の果てに、その見本の化粧品(商売道具)を、ことごとく投げ砕いてしまったのだ。「何するのよ、お父ちゃん!!」と、私は泣きながら抗議したけれど・・・。
後々気づいたことだが、母の商いが、父の中にも根強い、「男が稼いで妻子を養う」という役割観にもとづく男のプライドを、ズタズタに傷つけてしまったからなのだろうと。(続く) 2025.2.5
※この原稿は、来る2月24日の現代史研(ちきゅう座)討論集会「混迷する世界の現状―現実をどう見つめ、過去の運動にどう学ぶかー」のDVD「怒りをうたえ」の感想をお願いし、書いていただいたものです(編集部)。
5dd78da7d70430b9507a52a679f31997〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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