またも、古い話で恐縮だが、1958年の秋、メディアと言っても当時は新聞が主流で、紙上では警職法と勤評問題について毎日のように大きく報道されていた。まだ、わが家にはテレビがなく、インターネットなど想像もつかない時代であった。次兄が中学校の教員であったこともあって、家では、よく話題になった勤評と警職法だった。大学生や働く大人たちが反対の集会やデモに参加しているのを見聞きしていて、予備校生であった私もざわつき始めたのだろう。「朝日新聞」の学生欄の「アーケード」に投書したところ掲載されたのが、以下「”日本の曲がり角”と受験生」だった。
![195811 195811](https://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/images/195811.jpg)
いまから思えば他愛ない内容なのだが、大きな反響があったらしく、新聞社には42通もの手紙が寄せられたという。投書の際、肩書に予備校名まで記してしまったので、予備校あてに何通かの手紙やはがきが届き、中には脅迫めいたはがきもあった。私は、校長室に呼ばれ、浪人生の身で軽はずみなことをするな、全学連が押しかけてきたらどうする、勉強が第一だろうとお説教を食らった。たしかに、摸試では低空飛行だった私には耳が痛かった。
その手紙の大半は、同じような思いを代弁してくれてよかったとする浪人生のものだったいう。中には生半可な知識でものを言うな、今は勉強に励むときだから我慢せよという大学生もいた。同じ予備校に通う者からは、「あんたは、通学路の駅前の横断歩道を渡らず、三角地帯を通る近道をしているのは、ルール違反ではないか、そんな人間が警職法云々を言うな、というものもあり、少し怖い思いをした。
一方、「朝日新聞」は、その反響にこたえる形で、浪人生たちの声を聴こうと座談会を企画、有楽町の朝日新聞社に数人の浪人生が参集、教育学者の海後宗臣東大教授も参加されていた。私は、他の浪人生と共にいったい何を話したのだろう。年末には以下のような記事にまとめられた。座談会の終了後、みんなでラーメン?をごちそうになったことを覚えている。
![195812 195812](https://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/images/195812.jpg)
いま手元には、手紙の一部が残されている。転居の折にも、「わが十代」の思い出として捨てきれなかったのである。手紙への返事は、当時、両親からも出さないように封印されたが、便箋に何枚も書いて下さった方々、ほぼ同年代の方々は、今どうされているだろうか。
「投書のトラウマ」とはいうものの、退職後には、地域の自治会活動で知ることになった「自治会と寄付金」を「朝日新聞」の「私の視点」に投稿、掲載されたこともある。これが縁でTBSテレビのワイド番組での短いコメントが放映されたりした。2006年から始めた当ブログには、日頃の思いを、雑多ながら綴り続けている。記事によっては、若干の反響があったり、情報交換のきっかけになったりするので、楽しみにもなっている。
初出:「内野光子のブログ」2025.2.11より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/02/post-3875f8.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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