21世紀ノーベル文学賞作品を読む(7-下)

ハロルド・ピンター(イギリス、2005年度受賞者)の人となり――劇作によって、日常の対話の中に潜在する危機を晒し出し、抑圧された密室に突破口を開いたこと

H・ピンターの主著『何も起こりはしなかった――劇の言葉、政治の言葉』(集英社、2007年刊)の訳者・喜志哲雄氏(京大名誉教授、英米演劇学)は巻末の解説にその人なりや業績についてこう記す。
――ピンターは1930年10月10日にロンドン東部のユダヤ人の家庭に生まれた。父親は仕立て屋だった。戦中(第二次大戦を指す)は空襲を避けるために地方へ疎開することが何度もあったが、やがてロンドンに落ち着いた彼は熱心な読書家となった。彼が愛読した作家は、ジェイムズ・ジョイス、D・H・ロレンス、ドストエフスキー、ヘミングウェイ、ヴァージニア・ウルフ、ランボー、イェイツ、カフカ、ヘンリー・ミラー、サミュエル・ベケットなどだった。

彼は映画好きでもあり、ありとあらゆる映画を見たが、ルイス・ヴニュエルなどのシュール・レアリスム(超現実主義)映画から強い印象を受けた。エイゼンシュテイン(注:ソ連の映画監督。『戦艦ポチョムキン』など初期の映画製作の中で、大きな技術革新となる
「モンタージュ技法」を完成させた)の作品もごく若い時に見た。
文学趣味においても映画趣味においても、この十代の少年が異常に早熟だったことが判る。他方、彼は詩作にも熱中した。この頃に彼が書いた詩の幾つかは活字になっているが、それらは全て素朴でも平易でもない作品ばかりである。

彼が十八歳になった時、ある決定的な事件が起こった。当時のイギリスには未だ徴兵制度があったが、彼は徴兵を忌避したのである。宗教的な理由で徴兵を忌避することは認められていたが、彼は「自分は戦争の恐ろしさに気付いているから、戦争に手を貸すことは拒否する」と述べ、裁判にかけられて罰金刑に処された。後年のピンターは政治的発言を盛んにするようになるが、そういう在り方の萌芽は既にこの頃に認められる。

これより早く、彼は自分が通っていたグラマー・スクールへ赴任してきたJ・ブリアリーという教師によって演劇への興味をかき立てられていた。ブリアリーは生徒たちによる『マクベス』の上演を計画し、ピンターを主役に指名したのである。
この学校を卒業したピンターは演劇学校へ進み、プロの俳優となった。そして1956年、ある劇団の仕事で知り合った女優のヴィヴィアン・マーチャントと結婚した。彼女はピンターの初期から中期にかけての作品で重要な役を演じるようになる。

無名の俳優だったピンターは相変わらず詩作を続ける一方、『こびとたち』という自伝的な小説を執筆する仕事にも力を注いでいた(この小説は後に劇化されるが、小説自体、会話を大量に含んだものである)。1957年、ピンターは少年時代からの親友で、ブリストル大学の演劇科で学んでいたヘンリー・ウルフという人物の求めに応じ、初めて戯曲を書いた。
『部屋』というこの作品はブリストル大学で上演され、好評だった。こうしてピンターは劇作を続ける決意を固めた、

しかし、彼が劇作家として本格的に出発するための作品となる筈だった『誕生日のパーティ』(1958年初演)は興行的には大失敗だった。この劇の主人公は、どこかの海辺の町の下宿屋で暮らしているスタンリーという三十男である。彼はかつてはピアニストだったと称しているが、どういうわけか酷く脅えている。彼の許へユダヤ人とアイルランド人という、奇妙な組み合わせの二人の男がやって来る。
下宿屋の女主人は、スタンリー自身は知らないが、今日はスタンリーの誕生日であり、パーティを開くから、二人も参加してくれと言う。二人はスタンリーが組織を裏切ったと言って激しく非難し、彼を一種の拷問にかける。そして、無気力状態になったスタンリーを連れ去る。

古風な演劇観を捨て切れない劇評家たちは、こぞってこの作品を批判した。スタンリーがピアニストだったというのは本当なのか。二人組の男はどんな組織から派遣されて来たのか。スタンリーが自分の誕生日に気付かないというのは、事実なのか。そもそも彼は正常なのか。こうしたことは一切説明されていない。劇評家たちには、この劇の<判らなさ>が気に入らなかったのだ。しかし、事情が判らないからこそ、この劇は恐ろしいのであり、今では『誕生日のパーティ』は傑作として広く認められている。
1960年に上演された『管理人』によって、ようやくピンターは劇作家としての地位を確立した。これは二人の兄弟と浮浪者という三人の男が、ある場所の占有権をめぐって争うさまを描いているが、俗語だらけの台詞が生き生きしていて、しかも詩的であるのが好評だった。これ以後、ピンターは舞台はもちろんラジオやテレビをも活動の場とし、更に映画シナリオにも手を広げるなど、精力的に活動するようになる。

なお、喜志氏は「あとがき」の冒頭に次のような文章を記している。「(ハロルド・ピンターのノーベル文学賞受賞の報に接し)嬉しかったが、少しも驚かなかった。劇というものの在り方を決定的に変えてしまったこの劇作家が、いずれはノーベル賞を受けることを、何十年も前から確信していたからである」。
喜志氏は別の場所で故ピンターに関し、次のようにも記している。「彼の劇は二つの意味で革命的だった、と私は思う。先ず、彼は劇が現実を捉えるやり方を決定的に変えてしまった。旧来のリアリズム劇は、登場人物の行動だけでなく、なぜその人物がそんな行動をするのかも――つまり、行動の前提となる動機や理由をも――示すのが普通だった。だから、古風なリアリズム劇は、<分かり易い>ものだったのである。しかし、人間には、他人の行動を認識することはできても、行動の動機や理由を理解できるとは限らない。ある行動を選ぶ当の人物にとってさえ、自分がなぜそんな行動をしたのかが判らないことがある。動機や理由についての議論は、人が現実に対して下す解釈に過ぎないのだが、古いリアリズム劇は、まるで解釈もまた現実の一部であるかのような錯覚に基づいて成立していた。ピンターはこのことに気付き、現実を解釈抜きで提示した。だから彼の劇はしばしば<分かり難い>として批判されたが、現実は容易に理解できるとするのは、人間の思い上がりに過ぎないのである。

初出:「リベラル21」2025.02.21より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6689.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14111:250221〕