下町担当の記者たちとの交流
「えー、彼女が芸術院会員に」。2月21日(金)の朝、新聞各紙を読んでいたら、朝日新聞の社会・総合面の下段に「芸術院新会員に15人」という見出しの記事が載っており、3月1日付で文部科学相が発令する新しい芸術院会員15人の氏名、経歴と顔写真が紹介されていた。15人を初めから1人ひとり見て行ったら、一番最後が、俳優の倍賞千恵子ん(83歳)であった。
朝日新聞によると、芸術院とは各分野の優れた芸術家を経済的に優遇するための栄誉機関。会員は非常勤の国家公務員で年に250万円が支給されるという。倍賞さんの芸術分野は「映画」。芸術院会員に選ばれたのは、「民衆の生活感情を全身で表現する演技で映画やテレビ、舞台で活躍」してきたからという。
芸術院会員の定員は120人で、今回の15人を含めると計115人。このうち、「映画」分野の会員は映画監督の山田洋次氏、タレントの黒柳徹子さん、それに今回会員になった倍賞さんとアニメーション映画監督の富野由悠季氏を加えてわずか4人である。つまり、倍賞さんは映画界で稀有な存在となったのだ。それだけに、私は朝日新聞の朝刊で倍賞さんが芸術院会員になったのを見て、飛び上がらんばかりに驚いたわけである。
実は、飛び上がらんばかりに驚いたのには、もう一つ理由があった。ちょうど60年前に、当時朝日新聞社会部記者だった私が属していた、東京の「下町記者クラブ」が倍賞さんに感謝状を贈呈していたからだ。
そのいきさつは、かつてウエブサイトで書いていた連載『もの書きを目指す人びとへ~わが体験的マスコミ論~』に「ひょうたんから駒が出る」の題で書いているので、その大半を以下に掲載する。
◇ ◇ ◇
一九六四年(昭和三十九年)二月から私が担当することになった警視庁第七方面本部管内(東京の墨田、江東、江戸川、葛飾、足立の五区)は、事件・事故が多発していた地域だった。だから、この地域をフォローする本所署記者クラブ(下町記者クラブとも墨東記者会とも いった)には、加盟各社のほとんどがそれぞれ二人の記者を常駐させていた。
殺人、強盗、かっぱらい、盗み、スリ、脅し、とばく、短銃発射、誘拐、放火、火事、爆発、水死、自殺、交通事故、ひき逃げ……。事件記者として、ありとあらゆる犯罪や事故に出合った。社会の現実とじかに向き合う多忙な日々だった。
が、一日中、朝から深夜までのべつ幕なしに事件・事故に追いまくられていたわけではない。時によっては事件・事故のない平穏な日もあった。まして雨降りの日などは、管内の盛り場や名所に遊びがてらに出かける気にもなれず、狭くて暗い記者クラブで時間をつぶすほかなかった。昼食で短時間外に出ることがあるものの、午前十時からから夜十時までそうやって過ごすのは退屈きわまりなく、記者クラブ員は本を読んだり、居眠りをしたり、他社の記者 と麻雀卓を囲んだりして、時を過ごした。クラブにテレビはなかった。
夏が去り、九月に入ったころだったと思う。その日も事件がなく、クラブ員は暇をもてあましていた。とりとめもない雑談にあきたころ、毎日新聞の瀬下恵介記者が叫んだ。
「倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか」
倍賞千恵子さんといえば、当時、新進の若手女優であり、歌手だった。『下町の太陽』という歌が大ヒット。彼女主演で映画化もされた。今ふうにいえば、人気上昇中のアイドルといってよかった。
「下町記者クラブとして感謝状を贈ろうじゃないか。彼女、下町の出身でもあるし」と瀬下記者。クラブ員はみな仰天した。彼の、そのとっぴょうしもない発想というか、思いつきに、である。が、「こんなむさくるしい所にくるわけがない」と、だれも相手にしなかった。
そんな中で、瀬下記者は記者クラブの隅にあった公衆電話に硬貨を入れ続けながら、どこかに電話をかけた。いったん切ると、またかける。いずれも随分長い電話だった。そして、彼はついに叫んだのである。
「おーい、みんな、倍賞千恵子がくるぞ」
おちょぼ口をして満面笑みをたたえた瀬下記者のその時の表情はいまでも忘れられない。瀬下記者によれば、松竹本社に電話し、倍賞さんを表彰したいから派遣してくれるよう頼んだ。相手は最初、難色を示していたが、どうしてもとねばったら、ついに「行かせましょう」と言 ってくれたという。
「都民の日」の十月一日、彼女は本所署に一人でやってきた。私たちは署長室を借り、彼女を招き入れた。
私たちはコーヒーとケーキで彼女と懇談した。感謝状を渡したが、そこには「あなたは、『下 町の太陽』で、下町の良さを全国に知らしめた」といった意味のことが書かれていたと記憶している。それに、太陽をかたどったガラスの盆を贈った。それは、何を贈ろうかと思案したあげく、他のクラブ員と私が、両国駅近くのインテリア専門店の倉庫内を物色中に見つけたものだった。もちろん、みんなで金を出し合って買った。
当時、彼女は二十三歳。それはそれは美しかった。「きれいだな。こりゃ、掃きだめに鶴だ」。クラブ員から、そんな声がもれた。
彼女自身も驚いたようだった。後にもれ聞いたところでは、本所署を訪ねる前、「わたし、何も悪いことをしていないのに、どうして警察に行かなくてはならないのかしら」と周囲にもらしていたという。
本所署記者クラブのこの“壮挙”は、他の警察記者クラブに波紋を広げた。「おれたちは吉永小百合を招くんだ」などという威勢のいい声が聞こえてきた。しかし、結局、女優さんを招くことができた警察記者クラブは他には一つもなかった。
それに、これには後日談がある。九年後、私たちは倍賞千恵子さんと再会することになる。
すでに本所署記者クラブを去っていた、私たちかつてのクラブメンバーから、「また、倍賞さんに会いたい」という声が起こり、私たちが、映画『男はつらいよ』シリーズのヒットを祝って、寅さんの妹さくらを演じていた倍賞さんを招いたのだ。こんどは、すぐ承諾してくれた。私たちは、山田洋次監督、寅さん役の渥美清さんも一緒に招いた。
一九七三年十二月十六日、銀座のレストラン「三笠会館」。あの「下町の太陽」娘はいまや大スターに変身していたが、本所署署長室での初対面で感じさせた庶民的な雰囲気を失ってはいなかった。この時の楽しいひとときは忘れ難い。
以来、私は『男はつらいよ』は欠かさず見てきた。スクリーンに「さくら」が登場すると、私は本所署での、次いで、レストランでの倍賞さんを思い出しては、当時を懐かしみ、心の中で声援を送った。
私は、本所署記者クラブでの珍事から一つのことを学んだ。人間、時には、とっぴょうしもないことを考えてみるものだ。そして、あれこれ思案するだけでなく、思いついたら、失敗を恐 れず果敢に挑戦してみることだ。そしたら、思いがけない道が開けるかもしれない。瀬下記者の挑戦は、そのことを教えてくれたような気がする。
◇ ◇ ◇
珍事から60年。珍事の発案者だった瀬下氏はすでに故人。が、いまなお健在の、かつての下町記者クラブのメンバーは、新聞で倍賞さんの芸術院会員就任を知り、思い思いの感慨にふけったろうと思う。いずれにしても、「下町の太陽」だった倍賞さんと下町担当記者だった新聞記者たちの出会いと交流を懐かしく想い出していたに違いない。
私は、倍賞さんが、「下町の民衆の生活感情を全身で表現する演技」をいつまでも映画や歌で続けて欲しい、と願わずにはいられない。
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初出:「リベラル21」2025.02.28より許可を得て転載
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