「私と全共闘―縒(よ)りと捩(ね)じれと」(その3)

* この原稿は、2025年2月24日に行われた、第6回現代史研究会(ちきゅう座)の討論集会「混迷する世界の現状―現実をどう見つめ、過去の運動にどう学ぶかー」の、総合司会を任じられた池田が、「一つの参考資料」として記したものです。
 ただ、「全共闘」に関わる前の個人史が、少々長すぎますが、そこはご容赦願います。

6 大学入学(1961年)以降―セツルメント・自治会活動・構造改革派
 大学に合格したものの、さて住むところは?当然、大学の「寮」と決めていた。しかし申し込みをする段階で、すでに満員と分かり、慌てた!
 ところが、数学科に合格した親友もまた、親の東京転勤が予定より遅くなるとのことで、彼女もまた慌てていた。ただ、彼女の父親が、「予定」の遅れに責任を感じてくれたのか、福岡県の「県人寮」の情報を仕入れてくれ、二人してその寮へ申し込みをすることになった。
 お茶大の入学式の前日、県人寮の面接だった。何という綱渡りだろう。
 「半蔵門」というまるで江戸時代そのままのような駅名のところまで、都電に乗って、親友の父親が頼み込んでくれた「西田」という寮の事務担当の男性に案内されて出かけて行った。いざ、面接が始まるや、私は書類記載の不備を指摘された。用紙には、表と裏があり、そのどちらにも記載することになっていたのに、私は裏側に気づかずに白紙のまま。「こちらはどうしましたか?」と聞かれて、「あ、すみません!裏にも書くことになっていたのですか!気づきませんでした!」と私。普通なら、これでアウトだろう・・・。私はこれからの「下宿・アパート」探しに頭を巡らしていた。
 面接の最後に、「ところで、ここの場所までどうやって来られましたか?」と聞かれて、親友の父親絡みの県人寮事務担当の男性の名前を上げて、「はい、西田のおじさんに案内してもらいました」と答えたのだった。
 小倉では、年配の普通の男女を、「オジサン」「オバサン」と呼ぶ。ここでは「伯父さん・叔父さん」と取られたらしかった。「あゝ、西田さんとご関係があったのですか!」
 あるいは、すでに親友の父親がコネ(縁故)を使って、二人の「入寮」は決まっていたのかもしれない。それは不明ながら、親友と私、晴れてその県人寮(女子寮「つくし寮」)に入寮できるようになった。当時の出来たばかりの地下鉄丸の内線の終点「新中野」駅からすぐの所だった。
 因みに、その「つくし寮」の経費は、住宅費・食費含めて、月に7500円。特別奨学金でまるまる賄える金額だった。後は家庭教師をいくつかすれば、大学の授業料も小遣もOKだった。
 入学したばかりの頃、「あなた達、〝安後派”はかわいそうね。私たちは、毎日、授業休講で、デモに行っていたのよ!」と2年生は誇らしげに言っていたものだが、結局、「新安保条約」は通ってしまったし、本当にあの闘い方で良かったのですか?・・・と私は即座に聞いて見たかったのだが・・・詳しいことは何も知らない私。そんな生意気なことは、やっぱり言えなかった。
 さて、入学後、毎朝、サークルの勧誘が賑やかだった。「劇研」は、高校の演劇部と違ってプロの感じがして、それは無理!と却下。筑豊地域のドサ回りの夢を叶えようと「児童文化研究会」を探していたのだが、その前に、「セツルメント」という聞いたことのない名前のサークルが目を惹いた。しかも、お茶大・教育大の合同サークルだった。
 「大学の勉強は、教室や机の上だけでできるものではありません。地域に出ましょう!社会に出ましょう!地域の人々、子ども達と共に、〝生きた学び”をしましょう!」
 近づいて見ると、「セツルメント」というのは、イギリス発祥の歴史的・社会的な運動・実践だということ、医療班、法律班と並んで、地域の子ども達と遊んだり勉強を教えたりする「児童班」もあるということ、徳永直の『太陽のない町』のモデルになった氷川下の下請け印刷工場の町も対象地域だという・・・私は、即座に入部した。
 ただし、教育大・お茶大合同のサークル「セツルメント」には、実は大小二つがあったのだ。一つは、伝統的な「氷川下セツルメント」、もう一つは、新しくできたばかりの「八千代町セツルメント」である。私は迷うことなく、「できたばかりの小さな八千代町セツル」を選んだ。
 60年安保闘争の「敗北」?の後のせいか、表向きは「政治色」はほとんど見えなかった。それでも、実際は、各大学の自治会は、日共系、非(反?)日共系の勢力に分かれていたし、各サークルまでも、政治的党派の手が伸びていた。
 初めは、「氷川下セツルメント」も「八千代町セツルメント」も共に日共系(つまりサークルを牛耳っている先輩たちが日共党員あるいは民青の同盟員)ということだった。
 同じ地域を受け持った1年先輩の教育大生にとって、セツル活動に熱心に取り組む私は、いろいろな意味で「狙いやすい的(まと)」?だったのだろう。
 セツルの活動以外に、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』、マルクスの『経哲草稿』や、レーニンの『国家と革命』を勧められたり、サークルのメンバーと山登りに行ったり、二人で海に行ったりもした。要するに「恋愛がらみのオルグ活動」に絡み取られたと言えるのかもしれない。
 そして、「民青」に入る?と勧められ、その気になっていた頃、東京教育大・お茶大の日本共産党「細胞」は、党中央の革命の路線をめぐる対立に振り回されていたようだ。つまり、両細胞とも、イタリアのグラムシの思想に共鳴する「構造改革派」だったが、結局、党中央から除名され、別の党名を名乗ることになってしまった。私の「民青」参加は宙吊りになり、最終的には、別の党派の青年同盟「共産主義青年同盟」(通称「共青」)に加盟することになった。そして、この結果、「セツルメント」も「氷川下」と「八千代町」とは、それぞれ「日共系(派)」と「反日共系(派)」に分裂することになってしまった。‘
 何とも、主体性の乏しい「左翼」思想への接近ではあったが、文学者で言えば中野重治、佐多稲子などが同じ除名組だったことも心強いものがあり、しかも、グラムシの言う、「高度に発達した資本主義国での革命」は、「暴力」によるものではなく「社会的ヘゲモニー=合意」に基づくことを基本とすべき、という「革命路線」には、本心から同意できると思った。
 その後、大学2年生の後期、その政治党派からの推薦(名指し?)で、お茶大自治会の委員長候補として選挙に立候補し、当選した。「構造改革派」路線に沿って、寮はもともと「学生の自治」によっていたため、その歴史・実績を踏襲し、学生会館も「学生の手による自治・運営」を獲得していった。
 しかし、学内の自治会活動は、日共・民青の妨害を防げば、さほど困難なことはなかったが、東京都内の自治会連合は、1960年の安保闘争時点で、日本共産党を批判する「共産主義者同盟(ブント)」の登場、その学生組織の「社学同」、さらに日本社会党内の青年組織「社青同(解放派)」など、後の「三派全学連」に結集する諸派によって成り立っていた。お茶大自治会を支えていた「共青」は、日本共産党から一番後になって除名された「構造改革派」である。「反日共」ということで、他のセクトと共に「三派都学連」に合流する形で、集会や街頭デモに参加したが・・・「暴力革命」を軸に据える他の党派とは、やはり基本的にズレていた。(その後、勢力を増して来る「革マル」派の学生組織は「マル学同」、お茶大ではごく少数だった。)
 最終的には1965年6月22日締結となる「日韓条約」だが、私が自治会委員長に従事していた1962年秋から63年春にかけての「日韓条約」批准反対デモは、都内全体で200名~300名ほどの悲しいくらい少数の時が多かった。機動隊に両側をビッシリ挟まれて身動きできない、デモともいえないデモだった。
 経済大国になったからといって、無償、有償の賠償金を差し出して、日本が韓国に対して行った戦前の植民地政策・・・それらをすべて「終わり」とする!・・・それはやはりおかしい!と、学内でも、都内のデモででも訴えたいと思いつつ・・・その方途は「しょぼいデモ」以外、掴めないままだった。
 「地区労」という日本共産党が主宰する原爆関係の集会に出た時、私はお茶大の自治会を代表して出席したのだが、最後に異議あり、と挙手したにもかかわらず、私の「反日共」というスタンスがバレていたのだろう、指名されるどころか、周り全員が拍手!そして司会が「満場一致で承認されました!」と言って、さらに大きな拍手。言論封殺である!
 しかし、翻ってみれば、自分たちが学生大会を開く時、司会者は同じ党派の人、そして、民青系の人が挙手をしても、その人は無視する。所詮は「同じ穴のムジナ」である。
 「三派」系のセクト内でも、異なるセクトの間でも、「リンチ」という名の暴力は、この時もすでに目にしていた。目にしていながら、為す術がなかった・・・。
 言い忘れてしまったが、私が東京に出て来るきっかけだった「愛しい君」とは、お茶大に入学して半年ほどして、別れてしまった。彼は相変わらず高校にはほとんど行かないまま、一応「東大を目指す!」とは言いつつも、浪人中。
 大学に入学して、セツル活動その他が新しく、物めずらしく始まっていた私とは、やはり世界が違ってきていた。「会えば必ずセックス!」というのも気が滅入っていた。しかし、片方からだけの別れは、言い出すのは難しい。「好きな人ができたから、別れて欲しい!」と思いきって口に出したが・・・そして、それは本当のことながら、「勝手が良すぎるだろ⁈」・・・本気で「殺す!」と言われたことは、今でも忘れてはいない。

7 東大大学院、全共闘への参加、そして退却
① お茶大の教員に薦められた「東大大学院(教育行政学)」
 お茶大の自治会委員長を辞めて、卒業のこと、卒業後のことなどを、それとなく考え始めた。大学3年の後期だったか、付属小学校4年生の教育実習も始まった。
 その時のことだ。算数の割り算の練習で、豆テストを行った。
 次の授業時間にテスト用紙を返す。「さあ、テストを返します!あわてん坊ミスはなかったか、よおく見直してみましょう」などと言いながら、名前を呼び始めると、子ども達が騒ぎ始める。「せんせい、名前が見えまーす!裏返しにして返してくださーい!」うん、何のこと?
 分かったことは、教師が、無造作に、名前と点数を表にして返していると、それぞれの子どもの名前と点数が、他の子に見えてしまうというのだ。うん?ナンデ?・・・点数を他の子に見られるのは困ります!だって・・・?
 「アラ、豆テストですよ。割り算をみんながマスターしたのか・・・あるいは、間違った人が居たら、どこで間違ったか、本人も、周りの人も、確認するためのテストでしょ?」
 私が経験したかつての小学校での算数の時間、「間違いは、宝物!」と担任が大声で叫んだものだ。自分の間違いも、他の子の間違いも、みんなで共有して、その原因を見つける!・・・だから、〝間違いは、宝もの”なのだ。しかし、そんな悠長なことは、理解もされないし、楽しんでももらえない。
 私が夢を見ていた「小学校の学び」の姿は、大きく変わってしまっていた(もちろん、「東京の文京区のお茶の水女子大学付属小学校」というハイクラスの特殊性はあったかもしれないが・・・こんな「学校」の現状の中で、私は、到底、小学校の教師はやってはいけない。・・・学校をめぐる政策・制度の問題なのだ。だったらそれを変えなければ・・・)
 少し、短絡的だったかもしれないが、私は、「現場の教師」になる前に、もう少し今の教育の制度を考えたい、学びたい、と思った。・・・とすると・・・そのためには?
「大学院に行って勉強したい!」と思い至った経緯である。
 その時、残念なことに、お茶大には未だ、大学院が設置されていなかった。仕方がない、目の前の東京教育大の大学院に行くしかないか・・・と決めざるをえなかった。ただし、セツルのサークルと自治会ばかりやってきたから、勉強(特に語学:英語とフランス語)はサッパリ。「二か国語」の受験を必要とする大学院入試のためには、ここは、1年の浪人時代が必要だな、とも覚悟した。
 その頃だった。私の指導教官だった吉田昇さんの授業に参加していた、同じ教育学部の助教授・宮坂広作さんが、「池田さん、大学院に行くのですか?それなら、東大の教育行政が面白いんじゃないですか?主任の宗像誠也はリベラル派、五十嵐顕は正統の日共派、助教授の持田栄一は構造改革派。揃ってますね。しかも、宗像―五十嵐の発案なのか、入試の語学は一つですよ。大学院に語学の壁を作るな!がモットーらしいです。
ラッキーじゃありませんか。」
 それを聞いて、確かに面白そう!・・・と私も納得した。
 それならば、英語の勉強だけを(もっとも英単語の数を増やすことだろうが・・・)1年間集中して、来年の春に、東大大学院の教育行政専攻課程を受験しよう!と思い直した私は、それからしばらくして、宮坂さんに、「先生、ありがとうございました。東大の教育行政、来年受験します」と報告した。すると、宮坂さん、「いや、それは勿体ない、この3月、試しに受けて見たらどうですか?様子も分かるし、問題の傾向も分かるし・・・」
 ということで、大学4年の卒業間近、「様子伺い受験」をした。緊張感ゼロ!その上、書きたい放題、言いたい放題、で・・・何と大学院浪人をしないまま進学できたのだ。この時の宮坂広作先生の助言が無かったら・・・ともかく、とりあえず「幸運」だったと感謝している。(続)

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