オルハン・バムク(1952~)の『雪』
――「9.11」以降のイスラム過激派をめぐる情勢を予見したベストセラー話題作(前)
オルハン・バムクは2006年、トルコの作家として初のノーベル文学賞を受賞した。受賞理由は「生まれ故郷の街に漂う憂いを帯びた魂を追い求めた末、文化の衝突と交錯を表現するための新たな境地を見出した」。2002年に発表された小説『雪』は、世界40か国語に翻訳され、「9.11」以降のイスラム過激派をめぐる情勢を見事に予見したとして、アメリカをはじめ各国でベストセラー入りした超話題作。和久井路子訳・藤原書店刊。その肝の部分を私なりに紹介しよう。
舞台は1990年代初頭、トルコ北東部のアルメニア国境に程近い地方都市カルス。往年の栄華も消え去り貧困にあえぐこの都市では、イスラム主義と欧化主義の対立が激化し、市長殺害事件、少女たちの謎の連続自殺事件が相次ぐ。例年にない大雪で交通が遮断され、陸の孤島と化したカルス。雇われ記者として事件を取材に訪れていた無神論者の詩人Kaは、学生時代の憧れの女性イぺッキと遭遇し情愛の炎を再燃させる。折しも発生したイスラム過激派に対抗するクーデタ事件にも遭遇し、宗教と暴力の渦中に巻き込まれてゆく・・・・・。
だが、イぺッキはすぐ来なかった。このこともKaの一生で最大の拷問の一つとなった。待つことの死ぬような苦しみのせいで、彼は恋するのを怖れていたことを思い出した。部屋に戻るや否や、先ずベッドの上に体を投げ出した。すぐ起き上がってきちんと身なりを整え、手を洗った。手や腕や唇の端から血の気がなくなったのを感じた。震える手で、髪を梳かし、鏡に映った顔を見てもう一度くしゃくしゃにした。全てこれらのことをするのに、ごく僅かしか時間がたっていないのを見て恐怖に駆られて、窓の外に目をやった。
窓から最初にトゥルグット氏とカディフェが出かけるのを見る必要があった。もしかしたら、Kaがトイレに行った間に彼らは行ってしまったかも知れなかった。もしその間に行ったのだったら、イペッキは今までにここに来る筈だった。もしかしたら、昨日見た部屋で香水を付けたり、化粧品を塗ってゆっくり支度をしているのかも知れなかった。一緒に過ごすことのできる時間をそのようなことに費やすとは何という間違いだ!
彼が彼女をどんなに愛しているか知っているのだろうか?そんなことは、待っているこの瞬間の耐え難い苦痛には値しないことを彼女が来たら言おう。しかし来るのだろうか?イぺッキが最後の瞬間に心変わりして来ないだろうとの思いが、時間が経つに連れてますます確かに思え始めた。
一台の馬車がホテルに近づいたのと、カディフェに寄りかかって進むトゥルグット氏が、ザーヒデとレセプションのジャーヴィトの手助けによって馬車に乗せられて、車の横を覆うナイロンの覆いを引いたのが見えた。しかし車は動かなかった。街灯の灯りで、その一片一片が前よりも大きく見える雪が雨除けの覆いにたちまちにして溜まった。Kaには時が止まったかのように思えた。気が狂いそうだった。すると、その時、ザーヒデが小走りにやって来て車の中に、Kaからは見えない何かを差し出した。車が動き出すと、Kaの鼓動が速まった。
しかし、それでもイペッキは来なかった。
待つことの苦しみと恋との違いは何か?恋と同じく待つことの苦しみも、Kaの胃の上部と腹の筋肉の間のどこかで始まる。この中心から、胸や脚の上部と頭を占拠して拡がって行き、体中を麻痺させる。ホテルの内部の物音を聞きながら、イペッキがこの瞬間に何をしているかを考えようとして、道を通る、彼女には似ても似つかない女をイペッキだと思った。雪はなんと美しく見えることだろう!
一瞬でも待っていることを忘れることはなんといいことか!子供の頃、予防注射を受けるために、学校の食堂に集められた時、ヨードチンキと揚げ物の臭いの中で、腕を捲り上げて、行列をして待っている時も、腹はこんなふうに痛むのだった。死んだ方がいいと思った。うちへ帰って、自分独りで居たらよかったと思った。フランクフルトの惨めな部屋にいたいとさえ思った。ここに来たことで何と大きな過ちをしたことか!
今や詩すら思い浮かばない。誰もいない通りに降る雪をさえ、苦しくて見えなかった。それでも、雪が降っている時、この暖かい窓の前に立っているのはいい気持ちだった。これは少なくとも死ぬよりも良かった。イペッキが来なければ、死ぬかも知れないのだから。
停電した。
これは自分に送られた標だと見做した。イペッキは停電になるのを知っていたから、来なかったのかも知れない。彼の目は雪の下の暗い通りで、イペッキがいないことを説明するものを探した。イペッキが未だ来ないことを説明する何かを。トラックが一台見えた。軍用トラックだったのだろうか?否、勘違いだった。今度は階段の方から聞こえた物音もそうだった。
誰も来るはずがない。窓の傍を離れた。仰向けにベッドに体を投げた。腹の痛みは、深く強い苦痛と後悔に満ちた絶望感に変わった。自分の人生が無駄であったこと、ここで不幸せと孤独の中で死ぬと怖れた。フランクフルトであの鼠の穴に再び入る力はなかった。心の中を苦しめる慙愧の念は、これほど不幸せであることではなくて、本当は、もう少し賢く振る舞っていたら、人生をずっと幸せに過ごすことができただろうと判ったことだった。もっと恐ろしいことは彼の不幸せと孤独を誰も気がつかないことだった。
イペッキが気がついていたら、待たせることなく、上がって来ただろうに!母がこの状態を見たら、この世で唯一人彼女が憂えて、彼の髪を撫でて慰めてくれただろう。縁に氷が付いた窓から、カルスの微かな灯りと家の中の橙色っぽい色が見えた。雪がこの速度で何日も、何か月も降り続いて、カルスの街を誰も二度と見られないほど覆ってしまったら、今横になっているこのベッドで眠り込んでしまって、目が覚めたら、日の照ってる朝に母親と一緒にいたら、などと望んだ。
初出:「リベラル21」2025.03.15より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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