目次
1 原爆と小倉
2 「憲法9条」―無念の「再軍備反対!・・・」
3 クラスの級長・副級長-「男女平等」って難しい?
4 小倉の地で―三池闘争・60年安保闘争など
5 予期しなかった特別奨学金と「東京」―「女ばっかしのチョロイお茶大!」
6 大学入学(1961年)以降―セツルメント・自治会活動・構造改革派
7 東大大学院、全共闘への参加、そして退却
① お茶大の教員に薦められた「東大大学院」
② 奨学金のための「入籍」と「ノンセクト」という「結果」 ←今回ここから
③ 「民青」ばかりの教育学部・・・そこでの「時計台」占拠事件
④ 「全共闘」って?
⑤ 「全国全共闘集会」(1968.⒒.22)の舞台裏で
7-② 奨学金のための「入籍」と「ノンセクト」という「結果」
私が大学院に入るに当たっての身辺の変化の一つは、奨学金をもらうために、「入籍」したことである。それまでは、大学3年の終り頃から、セツルメントでずっと一緒だった一年先輩の東京教育大生と、「喫茶店のコーヒー代が勿体ない!」というので、同棲していたのだ。それこそ高田馬場のガード下の呑み屋街の端っこ。まさに「かぐや姫」の歌う「神田川」と瓜二つの、6畳(3畳ではなかったが!)ひと間の生活だった。ただ、そこは、かつてのセツルメント仲間たちの溜まり場でもあったし、ベトナム反戦のための活動の拠点にもなっていた。
ところが、大学院の奨学金申請に当たって気づいたことだが、私は未だ23歳未満。親の経済状況の書類が必要となる。それまで、ずっと貧しかった父親が、私の母とは離婚し、別の人と再婚し、そして1960年代以降の「高度経済成長」と「不動産ブーム」の中で、「お金持ち!」になっていたのである。大学の学費は一切貰わないで大学生活を送ってきたのに、ここで親の高所得のために大学院の奨学金が貰えない!?・・・そんなバカな!
そこで方法は一つ。「入籍」ということになった。相棒もまた、教育大の大学院に行きたいとは言っていたものの、先輩の「推し」で、「全国一般」労組の専従オルグで働くことを決めていた。二人とも、「結婚」という形式や「豊かな暮らし」というものに、とんと関心がなかったのである。・・・という訳で、私の大学院生活は「伊藤祥子」で始まった。
いま一つ、大学時代に関わっていた「構造改革派」という党派も、その後いくつか分立し、潰れ、教育大、お茶大が中心だった党派は解体してしまった。
ただそれは、一面では「政治セクト」からの解放であった。「ノンセクト」というあり方の自由さ、健全さに、改めてホッとしたことを覚えている。
「セクト」の一員であった時、自分らの「セクト」が、本当に他セクトより「正当」なのかどうか、つねに不安だった。しかも、周りの友だちを「わがセクト」に勧誘(オルグ)しなければいけない、「ただの友だち」で居てはならない、という強迫観念が、何としんどかったことよ!と思う。
もちろん、「構造改革派」という政治潮流へのシンパシーは変わることはなかったが、「路線・方針」は、自分で決めてよいもの、必要に応じて、他の人との共同も、自分自身が選び決めて行けばいい・・・「ノンセクト」の立場になってみて、本当に「政治セクト」の偏狭さが実感されたのだ。それは、個人として、「政治の場への自由な参加」を手にした感激でもあった。
③「民青」ばかりの教育学部・・・そこでの「時計台」占拠事件
お茶大の自治会では、新聞研を牛耳っていた「社学同」のメンバーとは共同戦線を組めていたけれど、「民青」は、本当に敵対的だった。昔は、仲良しだった友達も、民青にオルグられると、途端に目も合わせなくなった。
ところが、東大の大学院の教育学専攻は、殆どが民青か党員か・・・もちろん「ノンセクト」の院生もいない訳ではないし、中には、革マル、社青同、に所属している院生にも出会っている。だが、こちらも「ノンセクト」になっていたし、「学問のための大学院」のはずだから、「党派」に拘ることはナシにした。
宗像誠也のゼミでは、少し離れた「植物園」まで足を伸ばし、草の上に坐って議論を繰り返し、その間、宗像さんはレモンを齧(かじ)ったりしていた。牧歌的ともいえる時期だった。
また、院生たちとも、教育行政の助手、また図書館の職員たちとも、日常的な会話も多く、「民青」「党員」といえど、通常の人間関係は組めていた。しかも、その頃、リブやフェミニズムの先駆けとも言われる所美都子さんの私的な研究会にも誘われ、また、一方では、東京唯物論研究会の時々の学習会が東大で開かれ、里見実・津田道夫・野本三吉・村田栄一等々、在野の理論家やノンセクトから中核派の教員たちも参加していた。今から思えば、本当に、稀有な貴重な時期だったと思う。
ドイツに留学していた持田栄一助教授が帰国して以降は、私は専ら持田ゼミを中心とし、その内、東京教育大院生の岡村達雄さん、現場の教員、学校の事務長なども加わっての研究会も立ち上げた。「下からの批判的教育計画」を考えようとする「教育計画会議」である。(これは学内が封鎖されていた時も、学外のお蕎麦屋などで開かれていた。)
修士論文も仕上げて、「女は非効率だ!」という持田栄一の本音も、宗像誠也の「教育行政研究室は男女平等です!」という宣言によって表には出ず、それでも「右翼的な」男子は落とされて、私はとりあえず博士課程に進んだ。
「医学部学生の時計台占拠!」はそんな日常の中での突然の出来事だった!
瞬く間に学生、院生が集まり、ナンダナンダ・・・と周りに情報や議論が渦巻いた。
1968年6月15日のことだった。医学部で「インターン」の待遇をめぐって争われていたことは以前から、耳に入って来てはいたが、いきなり学生の「退学処分」が出されたこと、しかも争いの現場に居なかった学生までが「退学処分」の対象にされたこと・・・等々、少しずつ情報は伝えられていたが、そこで、信じられない動きが始まった。
教育学部自治会やその他民青系の自治会の学生たちを中心として、「時計台占拠は、一部の学生の暴挙だ!跳ね上がりだ!」という糾弾である。医学部自治会の民主的な手続きも通していない「跳ね上がり」行動だと。
その時、私は改めて、「民青」とは「思想」が違う!と確信した。大学という所も、所詮は教授を中心にしたピラミッド構造。トップを牛耳る教授の意向に逆らうものは、最後は「退学処分」を食らって放擲(ほうてき)されるのだ。こういう「権力構造」の中で、それを指摘し、少しでも揺るがせようとする学生や院生の声、その行動に、どうして結集できないのだろうか・・・と。
そうではなくて、民青系学生たちは、機動隊を導入して時計台占拠の学生たちを逮捕させる大学当局に、逆に同調し拍手を送る?!・・・それは、やはりおかしい!まちがっている!
その時を境にして、東大の学部を超えた学生、院生が、医学部の闘いに共感し、同調し、医学部の教授会への批判を高めていった。
教育学部でも、学生・院生それぞれに討議が重ねられたが、圧倒的に多数派は、「占拠学生批判」だった。そのため、「占拠学生支援派」は学部でも大学院でも数えるほどの少数派。終いには、教育学部の校舎・教室には居られなくなって、時計台の中のスペースを確保するようになっていった。
「全学学生・院生共闘会議」が結成されるのも、それらの動きの結果だったと思う。
④ 「全共闘」って?
今では、「全共闘運動」といえば、ノンセクトラディカル(無党派学生)による「大学解放(解体)運動」と理解されている向きもある。
確かに、中心になった学生たちは、戦後生まれのベビーブーマー(団塊世代)である。先行世代(親世代)への反抗もあっただろうし、戦後文化の開花という面もあったかもしれない。アメリカによるベトナム戦争への反対ということも含め、この時代は世界的な学生・青年の反抗・レジスタンスで彩られてもいる。
日本に限れば、高校全入運動に続き、大学進学も大幅に増え、この時代、大学の「授業料値上げ」も相次いだ。さらに、大学間格差も広がり、一部ではマンモス大学も現れた。
あの時代を振り返る時、確かにある種の熱気が漲(みなぎ)っていたのは事実である。私が、お茶大自治会を担っていた頃、集会もデモもショボかった。
ところが、1960年代半ばから後半にかけて、集会もデモも一気に膨らみ、元気になったことを覚えている。学生が要求を大学に突きつけ、正当に応えてもらえなければ、学内をバリケード封鎖する。授業も休講が多くなり、その分、バリケードの中での自主ゼミも、自由で楽しかった。
しかし、東大の「全共闘」に限っても、医学部闘争ですら、インターンの有給制や「閉鎖病棟」を「解放病棟」へという変化はあっただろうが・・・、全体的には、ほとんど成果を出せていないのではないだろうか。「ノンセクトラディカル」は一種の幻想だったのかもしれない。具体的な要求、あるいは、大学「変革」への本気の欲求は希薄だったのだと思う。「大学解体!」「自己否定!」と、スローガンは大きすぎて、抽象的だったし、文部省が狙っていた「大学管理体制」強化のための「大学管理法」も法定されてしまっていた。
そして、やはりはっきりと言えば、当時の闘争も、結局は、多数に分岐した「政治党派(セクト)」の主観的な「指導」?の下にあったのだ。
私が、少しだけ関与した、イタリアのグラムシに依拠した「構造改革」派ですら、政治闘争における「前衛」は否定していなかったと思う。ましてや、レーニン、毛沢東、トロツキーに範を求める多くの党派は、「暴力」自体をもいささかも自戒し相対化も、していなかったと思う。
「教育学部院生会議」として安田講堂に寝泊まりしていた時、一学年下の男子が青い顔をしてやって来て、「池田さん!革マル派と中核がいま、ゲバ棒持って構えてます、大変です!止めさせてください!」。あれは、「内ゲバ」が一般化する直前の頃だったかもしれない。慌てて外に出ると、確かに100人ずつくらいの革マル派と中核派が、向き合ったままの態勢だった。私が、間に割り込んで、「止めてください!運動を何だと思っているんですか!」と叫んだのだが、向き合っていた両派の最前列の人たちは、まるで無表情で、「変な飛び入り」を無視するだけだった。突然現れた、奇妙な女子学生(院生)に戸惑っただけかもしれない。
⑤ 「全国全共闘集会」(1968.⒒.22)の舞台裏で
その日は、東大の安田講堂前の広場で、東京都内だけでなく、全国の「全共闘」が結集した記念の集会の日だった。委員長は山本義隆。その日の集会は、遠方からの各大学の「全共闘」のためだったのか、夕方近くから始まった。
その日、私は女子ばかり数人で、安田講堂内(近く?)の調理室で働いていた。
東大「全共闘」の副委員長の「彼女」に当たる人が、「今日は特別な日だから・・・」と、何と「炊き込みご飯のおにぎり」を作る、というのである。
男たちが「集会」で集まっている時に、おにぎりを出す、ということ自体も奇妙である(災害時ではないのだし・・・)。自分たちの「食事」くらい、自分たちで用意すべきだろう。しかも人数が多いのに、一体何人分を賄うというのか・・・
でも、私はそこで、「こんなこと、止めようよ。こんなに多い人たちが居るのに・・・少しのおにぎり作って、一体何の意味があるの?」と言って、さっさと止めて集会に参加することもできたのに・・・。
個人の家に招いた訳でもないのに、「梅干し入り」のおにぎりですら、回されてくること自体が奇異だろうに・・・。何で、「炊き込みご飯のおにぎり」なのか・・・。
炊飯器、まな板、包丁ですら、数が揃っていないのに、人参も、椎茸も切ってご飯に混ぜる?炊きあがったご飯を急いで冷まして、おにぎりにする・・・
私は今でも後悔している。「いいこと」をしていると思っている副委員長の「彼女」さんに、どうして、「こんな意味のないこと、止めましょう!」と言えなかったのか・・・。
ウーマン・リブやフェミニズムが叫ばれる前にも、あの場で、きちんと「女の無駄な配慮」を、止めさせることができたはずなのに・・・いや、「意味のある行為と思われていることの滑稽さ」を、あの場できちんと言うべきだったのに・・・。
最後に、「全共闘運動は何だったか?」を考える時に、私は、占拠していた安田講堂内のトイレの状況を思い出す。未だ「水洗トイレ」ではなかったからだろうが、「足の踏み場がない!」の言葉通りのトイレの状況だった。そういう私は、だからといって、黙ってトイレを掃除する気にもならなかったし、みんなに「トイレ掃除しましょうよ!」と呼びかけることもしなかった。その意味でも、「おにぎりづくり」と同じく、私もまた同罪ではあるが、当時の運動の決定的な「欠落」が、こんな所にも潜んでいると思っている。
そして、結局は、既成セクトのショーと化した「安田砦」の「徹底抗戦」。
どこで、誰と誰たちが話し合い、了承しあったのか・・・前日だったか、前々日だったか、「ノンセクトは皆、退去しろ!」との命令が下った。各セクトごとの「持ち場=陣地」が決まったというのである。初めは、「革マル派」も参加予定で、確か「法文二号館」だったか・・・しかし、当日の朝、機動隊が封鎖解除に始動した頃、すでに「もぬけの殻」だったと聞いた。日本共産党と同じく、「革マル派」も「前衛党、死守!」だったからであろう。
追い出されたノンセクトの人々は、一部は各セクトと合流し、お茶の水駅前での「カルチェラタン」=機動隊との攻防戦に参加したとのことだ。その他、私も含め、一部は東大正門前の友人の下宿に泊り、機動隊が始動するまでは、正門前で佇(たたず)むだけ、時々シュプレヒコールを叫んだりした。もちろん、中で籠城した各セクトのメンバーは、「自分の人生・命」丸ごと、覚悟した上での行動だったとは思う。
私にとって、この1.18-19以降、やはり敗北感か脱力感か・・・生活丸ごと「投げやり」になっていたのかもしれない。この頃、気づいたら、私は夫との間の子を妊娠していた。その後、これからのことを思って、アレコレ悩みもしたが、結論を出す前に、ふらりと立ち寄った教育学部の指導教官に「子どもができました・・・」と告げたのだった。
その時、彼は即座に「堕ろせ!」と言った。「研究者になるのだったら、子どもなんか産んじゃダメだ!」とも。・・・その言葉で、迷っていた私は逆に、「この子は産みます!」と、言うことができたのだった。
(ただ、ここでこの稿を「お終い」にすると、指導教官を「悪者?」にしたまま、私は「啖呵を切って」颯爽と退場!・・・という風になるのだが、現実は、必ずしもそれほどカッコ良く進むわけではなかった。
確かに、この後、私は、東京都の保母試験のための勉強を始め、友人が譲ってくれた古いオルガンで、「バイエル70番以上」という実技試験のために、72番と73番の曲だけを練習し始めた。
お腹の子どもは、有効期限ギリギリの「学割」を使って東大病院で無事に出産した。(その翌日が、日本赤軍派の「よど号」ハイジャック事件だった。)
そして、都の保母試験を受験し、「保母資格」も確保して、いよいよ「職場探し」と思っていた頃、たまたま中野区のある短大が「保育科」を新設するというので、そこの理事だった厚生省の元女性局長を通して指導教官に話が行き、結局、私は、その短大の「講師」として働き始めることになった。
こうして、「口の悪さ」は、相変わらずながら、私自身もまた、いろいろな「人の繋がりや善意、コネという形?」にも助けられて、今日まで生きてきたのだった。)(了)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5922:250325〕