これまでも、「選択的夫婦別姓」をめぐる問題を、ここ「ちきゅう座」でも、3回に渡り掲載していただいた。しかし、ある友人からは、「なぜ、クダクダといつまでも拘るのか?『選択したい人が別姓を選べばよくて、選択したくない人は同姓であればいい』・・・それだけの話ではないか?!」と、あきれられた。
確かに、私が目にした「選択的夫婦別姓に関する世論調査」でも、次のような数値が示されている。
NHK世論調査(2024年5月1日) 賛成:62% 反対:27 %
朝日新聞世論調査(同年7月) 賛成:73% 反対:21%
自民党支持層対象(同年9月2日) 賛成:64%
朝日新聞世論調査(2025年2月17日) 賛成:63% 反対:29%
もちろん、「世論調査」そのものの確実性や有効性が問題になるとしても、大勢として、60~70%の人々が肯定的であり、20~30%が否定的であることは分かる。
すべての人々に「強制」される政策ならば、2~3割の反対がある場合、その政策が「見切り発車」で施行される場合には、内容に「賛成」している人々からでさえ、かなりの批判や抵抗が予想されるだろう。しかし、今回のような「選択的」である政策の場合には、反対者に対して、彼らの「選択および自由」を妨げるものではない(つまり保障するものである)以上、この辺りで「法案制定・実行」の運びとなっても、さほどの非難・批判には値しないと思われる。
しかも、今回は、日本自身も批准している「女性差別撤廃条約」に依拠した「女性差別撤廃委員会(CEDAW)」からの4度目(2003、2009、2016年と続いて)の勧告を受け、「結婚に際して、夫婦同姓を強いているのは世界で日本だけ!」と明らかにされたということもある。
その上、今回はさらに、経団連からの「選択的夫婦別姓を可能にする法律の早期制定を求める提言」までも公表されているのである。通常ならば、ここらでさっさと法案を作成し、石破首相自身が述べていたように、「選択的夫婦別姓」制度を速やかに実現するよいタイミングなのだろうと思われる。
しかし、その石破首相自身の口調が、首相の座に就くやたちまちにトーンダウンし、この「選択的夫婦別姓」案が、またまた無視され、放置される気配である(もちろん、自民党内、また野党の中でも、積極的な動きは継続されているが・・・)。
その理由の一つに、60~70%の賛成派と、20~30%の反対派の意見の濃度の緻密さや迫力の違いがあるのかもしれない。事実、賛成派が多数を占めているとはいえ、実際に結婚届を出した人たちの間では、約95%のカップルが「夫の姓で同姓」という日本の現実がある(2023年時点)。
もちろん、私自身は、この「選択的夫婦別姓」制度に賛成である。ただ、それさえ獲得できれば、後は効率よく仕事に邁進できると期待している「働く女性」たちと同じではない。私自身は、逆に、高市早苗氏などを代表とする20~30%の反対派の人々や、それにも増して、「選択的夫婦別姓」に賛成しながら、自分たちはさっさと当たり前に「夫の姓で入籍」してしまう、圧倒的多数の日本人の「結婚観・家族観」を対象化したいと思っている。
田中優子氏の新聞記事:「時代を読む」に〝ひとこと”
今回とりあげるのは、法政大学の前総長だった田中優子氏の「東京新聞」(2025.3.30)「時代を読む」の記事である。これもまた、先の友人が親切にもメールで送ってくれた。
タイトルは「〝選択”を邪魔するな」である。友人曰く、「選択的夫婦別姓に対しては、これくらいの簡潔な反論・批判で充分なのでは?」というものだった。
田中優子氏は、まず、2020年に実施された調査の結果を紹介している。それは、「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」および早稲田大学の研究室が行ったものである。
それによると、「自分は夫婦同姓がよい。他の夫婦も同姓であるべきだ」は、14.4%。一方、「(自分の選択はそれぞれでも)他の夫婦は同姓でも別姓でもかまわない」は70.6%。
この調査結果に対して、田中優子氏は、「他の夫婦の選択にまで『あるべき』を唱える人が14%以上もいることに、・・・私は驚いた」と述べている。
「なぜなら・・・」と、この後に田中氏の理由が述べられている。
― 日本国憲法第24条は「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し」とあり「のみ」を入れている。親を含め他人が結婚に口出しはできない、と言っているのだ。家族に関する事項についても「個人の尊厳」と「両性の平等」に基づくとあり、この憲法制定の段階で、明治以来の家父長的家族制度は終わったのである。(太字は池田)
― 日本の歴史を踏まえれば笑うしかない。日本の伝統では女性天皇がいた。日本の伝統では夫婦は別姓であった。日本の伝統を捨てて天皇を男子のみの継承とし、西洋のやり方をまねて夫婦同姓を義務づけたのは日本人だった。それは世界に受け入れられる新しい国になるためだった。しかし今は、世界にあきれられる国になろうとしている。
今回、ここでは女性天皇問題は触れないでおく。いずれしっかり問題にしたいと思っているが。その上で、問題にしたいのは、私が「太字」にした箇所である。
田中優子氏は、無邪気にも「この(戦後)憲法制定の段階で、明治以来の家父長的家族制度は終わったのである」と書いている。しかし、ちょっと待って欲しい。
1946年11月3日発布され、翌47年5月3日から施行された日本国憲法と相まって、同年12月に「改正」された戦後民法では、確かに、戦前の「家族制度」は廃止された。しかし、細かく見れば、嫡出子/婚外子の差別、男女の結婚年齢の差別、離婚後の結婚可の期間の有無、等々、「家族制度」下でのさまざまな男女差別が残されていた。
もちろん、それらの大よそは、その後の民法改正によって、是正され、改善されていったのだが・・・。
ただ、今回の「選択的夫婦別姓」に明らかに抵触し、それを妨げることになっている民法750条規定は、現在に至ってもそのまま継続されている。2015年と2021年の二度に渡る「夫婦同氏(姓)」の違憲性を問う最高裁裁判においても、残念ながら、この民法750条はスルーされている。
民法750条・・・夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。
(ここでも太字は池田)
何とも紛らわしい条文である。どこにも「夫の氏を称する」とは書かれていない。「又は妻の氏を称する」という文面からは、非常に柔軟な婚姻制度!と錯覚されてしまいかねないだろう。しかし、騙されてはいけない。これは、かつての家族制度をそのまま踏襲し、「女子」だけの「家」では、跡取りとしての「婿」を取っていたために、「婿入り婚」の場合は、婿(男性)が妻の氏を称していたことの証である。
言い換えれば、この民法750条規定こそ、結婚に際しての「同姓(氏)」規定なのである。
あえて繰り返せば、表向き「家族制度」が廃止されたと言えども、「夫の家に嫁ぐ」嫁取り婚は継承され、また運悪く「女子」ばかりの「家」の場合は、その「家」の存続のために「婿」を取る「招婿婚」までもが継承されている。したがって、「夫又は妻の氏を称する」という規定は、まさしく「家のための結婚」であり、「夫又は妻の家の氏(姓)を名乗る一員になる」ということを意味している。
もちろん、戦後は、形式的には「家制度」は廃止され、「家長」なるものも存在しない。しかし、よくよく見ると、「戸籍制度」は継承され、「世帯」という単位が設けられている。
しかも、結婚によって成立する「世帯」には「世帯主」が定められ、原則それは夫=男性である。一方、女性は、確かに「家のための嫁」という立場から解放されはしたが、「妻」として位置づけられた。こうして、戦後の「核家族」は、夫=稼ぎ手、妻=主婦(家事+育児)という性別役割分業を余儀なくされていくのである。
妻無くして夫は安心して仕事に没頭できない。稼ぎ手の夫無くして妻は生活も育児も果たせない。・・・このようなモデルとしての「家庭」づくりのための「結婚」!
このような結婚・家庭を維持していくためには、「同姓」という制度は、夫婦・親子を包括するゆえに有効であり、変える訳には行かないのかもしれない。
しかし、逆に、このような結婚=夫婦・親子関係=に、人間としての「自立」や「尊厳」を損なわれると感じている人々にとっては、もう少し異なった「結婚」「夫婦・カップル」「親と子」のあり様が模索されているのかもしれない。
田中優子さん!「戦後の日本国憲法制定によって、日本の明治以来の家父長的家族制度は終わった」訳ではないのです!形を変えた、窮屈な「戦後日本の核家族」が続いて来たのです!したがって、「選択的夫婦別姓」問題を契機にして、改めて、「結婚」「家族」を問い直していければ・・・と、私は考えているのです。(了)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5934:250407〕