Global Headlines:1968年5月の英雄「赤毛のダニー」、生涯を語る

<はじめに>

 いまさら私ごときが総括的な言明することに意味があるのかという気もするが、過去への責任という意味で、日本型「新左翼」運動について若干回顧してみたいと思います。具体的な運動論戦術論というより、主に社会学的哲学的な視点から批判的に振り返ってみましょう。

 丸山眞男が日本の左翼の特色として析出した「理論信仰」は、いわゆる正統派だけでなく、反正統派運動にも「見事に」受け継がれていきました。いったい理論と理論信仰とはどうちがうのでしょうか。理論は一般的な理解では「仮説演繹体系」であるといってよいでしょう。主にイギリス経験論由来の帰納法と大陸合理論由来の演繹法の両方を理論的な手続きとして組み込んでいるもので、既知の事実から仮説を立て、その仮説から理論的予測を立て、実験や観察によって検証/反証して結論を導き出す方法です。演繹法が特に機能するのは、過去の理論的達成に照らしそれと整合性にある推論によって予測する場面です。理論の特質は、常に現実に対して開かれた修正可能な体系であるところにあります。ところが理論体系と同じ体裁をとった場合にも―たとえば弁証論―、宗教的教義体系は、閉じられており、絶対性や無謬性を特質とします。しかし理論体系もそれを受け取る仕方によっては、信仰と同様の機制が働く場合があります。具体的現実との往還運動なしに、理論を理論としてむやみにありがたがり崇める精神的態度、それを理論信仰というのです。マルクス主義がロシアの現実の中で咀嚼され、土着化していくなかで、ロシア的家父長的な人間関係の刻印を帯び、またロシア正教のエートスと教条(ドグマ)の影響を被り、閉じられた教条として硬直化し、絶対化されていった。その完成形態がマルクス=レーニン主義、すなわちスターリン主義でした。そうした教条的理論体系が、コミンテルンを通じて各国の共産党に伝播していきました。特に植民地従属国や後発資本主義の諸国においては、コミンテルンの負の影響力は、市民社会が不在で、政治意識や政党形成が未熟なだけに決定的であったでしょう。

 これはあくまで仮説として聞いていただきたいのですが、日本のマルクス主義―西欧思想一般といってもよい―の傾向を見ていると、江戸儒学の訓詁解釈の伝統が、いい意味でも悪い意味でも生きていると思います。中国古典の解釈において、江戸儒学は様々な流派に分岐しながら精緻な解釈体系を築き上げていきました。しかし解釈体系がいかに秀でていても、それらと一般大衆の道徳生活と懸隔がある。マルクス解釈学においても同様に、知識人や知識青年向けの教養と市民社会の常識とが乖離している。そのためでしょう、私は、日本のマルクス学の水準は世界トップレベルだと学生時代に聞かされて、なんとなく腑に落ちない気持ちになったのを憶えています。理論では一流であるが、実践では二流?なによりも理論と実践との一致を標榜するマルクス主義において、どうしてそうなるのか、頭がこんがらがりそうになりました。

 講壇におけるマルクス学の成果と弱体な実際の革命運動との不釣り合いな状態は、いわゆる日本型「新左翼」運動(以下、新左翼運動とする)においても克服されず、いや正統派よりもさらに病膏肓に入っていたように思います。特有のジャーゴン(革命的隠語体系)は、一般学生や市民社会を遠ざけてやまない分、当事者の特権意識をくすぐることになったのでしょう。「全学の学友諸君!」とマイクで呼びかけるだけで、演説者は高揚した気分になれたのです。しかしその姿を遠巻きに見る一般学生の気持ちには思いは及ばなかったのです。

 どうか、以下、皆さんには怒らないで聞いてほしいと思います。なるほど、日本の新左翼運動は、黒田寛一、吉本隆明、宇野弘蔵、広松渉といった優れた頭脳によって理論的栄養を与えられていました。それぞれの理論家は、スターリン主義の苦い過去から脱却するのに、大いに貢献した人々であることには、私も同意します。しかし問題は、それらの理論家たちをいわば教祖として崇め、それを中心に青年学生が囲繞してセクトを形成したという在り方にあります。教祖は疑似的な絶対者とみなされ、それにほぼ無批判的に追随する姿は、いかにも権威主義的な光景でした。つまり大学の権威主義をラジカルに批判する側も、それに負けず劣らず権威主義的であるように見えたのです。これでは政党(パルタイ)は形成されず、せいぜい小党派(ゼクテ)ができるにすぎない。したがって教祖が亡くなったり、その影響力が衰えれば、市民社会や国家領域における実践と自己検証という政党の不可欠の客観性要件を欠いているために、成員個々の主観性にしたがって四分五裂する。それに暴力がともなえば、陰惨の一語に尽きる事態となるのは必定でした。あたかもドストエフスキーの「悪霊」の世界が、拡大再現されるかのごときでした。

 ヘーゲルは、その「法(権利)の哲学」において、ジャコバン独裁の政治的狂信を新旧対立の宗教的狂信と同等のものとして批判しています。狂信の根底にあるのは、抽象的な主観的自由の形式であるという。「狂信は一つの抽象的なものを欲するのであって」、どんな分節・編成も差異も区別も欲しない。(平等とか革命とかといった)単純な諸規定で現実を染め上げ、それが暴力と結びついたとき狂信の蛮行となるとヘーゲルは言います。ブレーキとなる社会的な経験を有せず、単純な自我が暴走するところに、青年運動にありがちな狂信的ラジカリズムが生まれるのでしょう。狂信性を育むのは、独善性であり他者への不寛容であります。政治の世界は、権力をめぐって信念と信念、自己確信と自己確信の衝突する世界であります。しかし宗教との比較で言えば、あくまで相対性の世界であり、だれもが過ちを犯しうるきわどい世界なのです。1960年代から1990年代を通じた青年運動に見られる、政治と宗教におけるファナティズム=カルト性は、後期資本主義(構造的資本主義~新自由主義的資本主義)における重大な人生論的価値や人間的きずなの欠如を埋め合わせようとして生じたものでしょう。したがって主観的絶対性への志向性が強く、自我の社会化を通じて獲得されるボン・サンス(良識)とは違ったものになる蓋然性は高かったのです。政治や宗教において表出したラジカルな若者文化の挫折のあとには、精神的な荒野が残されました。現在の日本の若者の覇気のなさは、すべてではないにせよ、かつてのラジカリズムの後遺症といえなくもありません。その意味で68世代の重い責任は残っています。

 以下に紹介するダニエル・コーン=ベンディットは、ヨーロッパにおけるニューレフト運動の英雄でした。1968年は同世代に先進各国で共有されましたが、しかし西独のニューレフト運動は独自の発展を遂げ、時代を生き延びていきました。そういう西独の人々の目に、日本の学生運動はどのように映じたか。今から十数年前、68世代の創刊したTageszeitung紙に載ったことがあります。日本の学生反乱は、学生たちの欲求不満の爆発だった(でしかなかった)。受験戦争をくぐり抜けて大都会にやってきたが、4.5畳の狭い下宿生活を強いられ、学校へ行けばマスプロ教育で学ぶ喜びを見出されなかった若者たちは、封鎖した大学や街頭のバリケードの中に疑似コンミューンを見出して、瞬間的な解放感に浸ったのだ云々。もう少し好意的なアメリカのある知識人は、親たち戦中派が築き上げつつあった高度経済成長社会に対し、経済的価値の優先がもたらすゆがみと虚しさに若者たちは抗議の行動に立ち上がったのだ、と。しかしいずれにせよ、青年学生の大規模反乱は、「よど号事件」や「浅間山荘事件」などで息の根を止められ、自滅も同然に折から高度成長する企業社会のなかに飲み込まれ姿を消していきました。

 それに対して、西独の学生運動家たちは、社会人となってからも闘争を継続していきました。1970年代以降、新自由主義の今日につながる環境問題やジェンダー問題に政治的アジェンダを変更して、やがて環境政党「緑の党」に結集していきます。さらにナチスの戦争犯罪の問題を再提起し、西独社会の政治体質を変えることにも貢献しました。その代表格が、かつての街頭のゲバ闘士であるヨシュカ・フィッシャー(1948年生まれ)やダニエル・コーン=ベンディットでした。いわば、西独版秋田明大は、政治家人生を全うすることができたのです。

1998年、J・フィッシャー副総理兼外務大臣に。 1983年連邦国会議員に スニーカーにジーパン姿

 西欧と比較して、日本の政治社会運動に欠けていると感じる点を二点あげたいと思います

 ひとつは、戦前・戦中に関わるとこですが、日本の政党も社会運動も治安維持法によって息の根を止められたために、西欧が経験した1930年代の反ファシズム運動から学ぶことができませんでした。(もちろん1930年代半ばの反ファシズム運動は、いったんつぶされますが、世界大戦の勃発とともに息を吹き返します)。そのため、主敵ファシズムに対して、抵抗勢力が大同団結するという「統一戦線」の思想が身につきませんでした。スターリン主義のプリズムを通した、レーニン政治の党派性の論理が優位を占め続けたのです。

 反ファシズム運動の背景には、遅まきながらコミンテルンの社会ファシズム論からの転換がありました。それによって社会党と共産党との共闘が可能となり、人民戦線(front populaire)というファシスト以外の諸潮流の共同戦線・統一行動が実現したのです。もちろんスペイン内戦に参加したG・オーウェルが「カタロニア賛歌」で暴露したごとく、人民戦線内部での抗争は絶えなかったにしても、社会民主主義者とコミンテルン派が、大同団結して闘った経験は、大戦がはじまってからのレジスタンス運動に生かされていきます。とくにフランスにおいて、詩人ルイ・アラゴンの「神を信じる者も、信じない者も」という呼びかけは、宗教的寛容の精神の再生を喚起しました。またナチズムの反理性・反合理性・反ヒューマニズムに対する思想的な武器として、啓蒙思想の復活がみられました。

 1930年代の唯一の例外――影響力は極小ではあったものの、左翼勢力壊滅の後、雑誌「世界文化」(1935年)や週刊新聞「土曜日」(1936年)に拠って、ヨーロッパの人民戦線の経験を精力的に紹介したのは、京大の久野収や中井正一でした。久野収は、戦後も一貫して自主的自立的な市民運動に取り組み、鶴見俊輔や小田実らとともに「べ平連」というユニークな反戦運動を展開しました。「ノンセクト・ラジカル」という運動形態が、政治主義的政治風土―新左翼系セクトも含め―に風穴を開ける可能性をはらんでいましたが、これも後続を欠いて消滅してしまったのは、返す返すも残念なことでした。

 繰り返しになりますが、日本共産党は、1930年代を経験できなかったため、社会ファシズム論を克服することなく、戦後闘争の最前列に立つことになりました。最高指導部は非転向の栄誉に包まれていただけに、戦前戦中の反省や総括など行なう余裕も動機付けも欠けていました。党の中央集権的支配=家父長的支配(上意下達、人権やジェンダーの視点の欠落)は、共産党の党史が総括するように、1950年のコミンフォルムの介入で一挙に矛盾として爆発しました。

 もう一つの論点は、政党と社会・大衆運動との関係です。政党が主で、社会・大衆運動を従とする考え方の起点は、ロシア革命後の、ボリシェビキ内での「労働組合論争」にあると言っていいでしょう。この論争は、「労働組合は、党の伝導ベルトである」という有名な定式化で決着するのですが、要は 政党がその大衆組織内のフラクションを通じて大衆運動を「指導する」という定型ができたのです。この弊害が最悪のかたちで現れたのが、日本の原水爆禁止運動における社共の介入と分裂でした。私は社共は同罪だと思っておりますが、要は社会・大衆運動の自主性自立性の原則が日本では確立していなかったのです。悪しき政治優位、政治主義やセクショナリズムの負の伝統が政党を縛っていたのです。

 では、日本の新左翼運動は、これらの欠点から免れていたのでしょうか。とんでもありません、痛恨の極みですが、市民運動や学生運動を共産主義革命を標榜するセクトが乗っ取り引き回す構図は、全共闘運動という学生運動でも見事にあてはまりました。そのため戦後、戦争体験を踏まえ多くの先人たちの努力で築いてきた大学の自治会は、ほとんど解体しました。反動に対する抵抗の拠点となりうる自治会をつぶした我らが罪は大きいと考えております。大学の自治(学生自治、教授会自治、学術会議など)が危機にあるとき、良心の疼きなしにはこの問題を考えることができません。

 最後に自ら参加した(過激な)学生運動を省みるとき、日本の青少年たちの自我形成の問題として一般化して考えるべき点があるように感じます。日本の青少年は、とくに自我の形成期にあたる思春期に大きなハンデを背負わされているように思います。つまり画一的な受験戦争が、自我の成長を妨げているのではないかということです。秀才であればあるほど、自我の覚醒欲求を抑えつけ、受験知識の吸収に血眼になる。自我の成熟過程とは、一方で既存の社会規範を同化し自らを社会化していく過程です。しかし他方で社会規範を同化しきれず、それに対する反抗や不同意といった葛藤を経験する時期でもあります。また身近な家族関係から離れ、他者経験を通じて世界が広がっていくのもこの時期でしょう。そうした自分を取り囲む環境との同化と異化の往復運動を通じて、自我は成熟していくのです。その場合、よき書物に出会う経験は、千金に値すると思います。そうした時間的余裕を与えられず、とくに社会的な経験の機会をほとんどまったく与えられないのは、危険ですらあります。他者経験や社会経験なしには、他者(人、動物、自然)への共感能力は育たないでしょう。「勉強ばかりして遊ばない子は馬鹿になる」ということわざまで英語にはあります。古代ギリシアのアテネでは、文化の理性(ロゴス)優位という特色はありますが、それでもバランスの取れた人格形成のため、音楽や体操の習得を義務化していたのです。我々の時代からオウム真理教の時代へ時代が下っていくうちに、問題は深刻化していきました。アメリカのプラグマティズムの教育哲学者デュ―イが展開したような、社会に包まれ社会と応答関係にある教育環境(コミュニティ)のなかで、子どもたちを育てること、そのことの重要性を痛感している次第です。

 以上、確たる結論のない総括めいた文章ですが、問題提起のひとつとして受けとめていただければ、幸いです。

ダニエル・コーン=ベンディットが80歳に:「私は68年の太陽だった」

――彼はパリでバリケードを築き、20年間にわたって緑の党から欧州議会議員を務めた。矛盾の喜びと自分自身のポスターボーイイメージについて。

出典:taz.4.4.20257

原題*Daniel Cohn-Bendit wird 80„Ich war die Sonne von 68“https://artsandculture.google.com/entity/m01p1ft?hl=ja

好々爺然とした現在のコーン=ベンディット

ジャン=ポール・サルトルとの共同記者会見

「憎しみを克服することは、政治家が望めば、たいていの場合可能だ」–ダニエル・コーン=ベンディット

<ダニエル・コーン=ベンディットが、フランクフルトのオステンド地区にある彼のアパートでのインタビューに招いてくれた。4月4日の80歳の誕生日を間近に控え、彼は上機嫌で、いつものように何か新しいことを考えたがっている>

taz: ダニエル・コーン=ベンディットさん、あなた自身の計算によれば、あなたは1944年6月に連合軍がノルマンディーに上陸した夜に受胎したそうですね。いかにもいい話ですね。

コーンベンディット: いや、生物学的に説明するのは簡単です。私は1945年4月4日に生まれたので、その9カ月前に妊娠していたことになる。それは1944年6月の連合軍上陸直後のことだったわけだ。

taz: ご両親を不快にさせるつもりはありませんが、南仏に亡命したユダヤ系ドイツ人である彼らが子供を持とうと思った動機は何だったのでしょうか?

コーンベンディット: 言えることは、上陸のニュースは、彼らにとっての転機だったということです。戦争の恐怖、ナチスへの恐怖の苦しみは、自由への希望へと変わった。そして、この転機が新たな人生を可能にしていることを十分に理解した上で、2人目の子供を妊娠したのです。私の兄は1936年に生まれました。

taz: 未来は再び開かれました。

コーンベンディット:  だから、私は自由の子だという私の主張は、正しいのです。そして平和主義者が、軍事介入は歴史上何も良い結果をもたらさなかったと言うとき、私はこう言います。「(いや)確かに良い結果をもたらしたのだ」

taz: あなたは幼くして孤児になりました。

コーンベンディット:  戦争中のひどい年月は、私の両親に深い傷跡を残し、肉体的にも弱ってしまいました。私の父が56歳でフランクフルトに戻り、ガンで亡くなった理由のひとつは、おそらくそのせいでしょう。 両親は事実上別居していましたが、母も1958年に父の世話をするためにパリから戻ってきました。彼女は1963年に心不全のため、やはり56歳で亡くなりました。私自身はドイツには行きたくなかった。私にとってドイツはナチス・ドイツだったからです。

taz: 結局、あなたはオーデンヴァルト改革派学校に通った。後に、そこで性的虐待が行われていたことが知られるようになり、学校は閉鎖されました。どのような経験をされましたか?

コーンベンディット: そこでは良い経験しかありません。その後に起こったことは、すべて私のいたときのことではありません。エルンスト・ジュイという先生がいたから、そこにいたのです。本名はヤブロンスキー。ユダヤ系共産主義者でレジスタンスの闘士でした。彼は私の反ファシズムの保証人でした。私はオーデンヴァルト・スクールですべてを学びました。反権威主義的で、演劇もやったし、最初の選挙戦では最年少の学生議会議長になったのです。

taz: あなたは、1968年の解放運動によって西洋社会の大部分がリベラル化される以前、学生時代からすでにリベラルな解放主義者だったと言えるのでしょうか?

コーンベンディット: 学校とは別に、兄のギャビーも大きな役割を果たしてくれました。両親が亡くなると、彼は私の後見人となり、模範となりました。彼はとても政治的でした。彼はまず哲学を学び、共産主義者になり、共産党から追い出され、トロツキストになり、トロツキストから追い出され、そしてリバタリアン的マルクス主義者になりました。

taz: なぜお兄さんはあちこちから追い出されたのですか?

コーンベンディット: なぜなら、ある時点で彼は、スターリン主義、レーニン主義、マルクス主義、トロツキズムといったさまざまな教義に関わることを望まなくなったからです。私は彼を通してこの政治史を体験したのです。もう自分で脱皮する必要はなくなった。彼はフランスの地方で教師をしていたが、私はパリに留学していました。彼を通じて、私は理論家を含め、彼が会ったすべての人々とも知り合いになりました。ジャン=ポール・サルトル、エドガー・モーラン、アンドレ・ゴルツなど。そして68年になり、二重のアイデンティティと二重の政治的歴史を持つ私は、すでにパリの他の人々とは少し違っていました。

<ダニエル・コーン=ベンディット/その生涯

1945年4月4日、南仏モントーバン生まれ。23年後、コーン=ベンディットはパリのバリケードで1968年の社会解放運動の象徴となり、その髪の色と政治的主張から「赤いダニー」「赤毛のダニー」の異名を取った。その後フランスから追放された。1978年、ヨシュカ・フィッシャーや他の幻滅した左翼主義者とともに、彼は台頭してきた緑の党に志を定め、1989年にフランクフルト・アム・マインでドイツにおける多文化問題担当の初代部長に就任した。1994年から2014年まで、コーン=ベンディットはEU議会の議員を務め、2002年からは議会グループの共同議長を務めた。2018年、エマニュエル・マクロンからのフランス環境大臣就任の申し出を断った。>

taz: 1968年は西欧社会にとって大きな転換点でした。では、あなたにとっては?

コーンベンディット: そう、こう想像していただきたい、私はいい男だったと。私は好かれたかった。私は面白くて、感じがよくて、明瞭だった。大学ではアナーキストからリバタリアンまで、さまざまな友人がいた。そして3カ月も経たないうちに、私は世界的に有名なアイコン(偶像)になった。すべては、フランスのCRS警察官との写真に写った笑顔のせいだった。

(中略)

コーンベンディット: しかし、誰もが私を認めてくれた。女性たちの私を見る目が変わり、すべてが突然変わりました。それは信じられないほどの転機でした。誰もが私に何かを投影していたのです。そして私は気づきました。それは私ではない。

taz: あなたではなかったのは誰ですか?

コーンベンディット: 私は革命の英雄ではなかった。チェ・ゲバラと同じ写真のアイコンにはなりたくなかったのです。

taz: でも何?

コーンベンディット: まあね。私はいつも、自分が68年の太陽だったと自慢したいんだね。

taz: どういう意味?

コーンベンディット: 1968年の全体的なポジティブな側面、この目覚め、「私たちは違う生き方をしたい」という思いが、その後に起こった他の運動–女性運動、同性愛者運動、解放運動–を可能にし、そのきっかけとなった。このポジティブなところ、それが私の笑いでした。

taz: あなたはブランドになりました。「ダニー・ル・ルージュ」、つまり赤いダニー。ドゴール大統領は大変恐れたので、あなたをライン川の向こうに連れて行かせました。

コーンベンディット: ええ、でもダニー・ル・ルージュにはなりたくなかったので、ドイツで新しいダニーを発明しなければなりませんでした。

taz: それは誰だったんですか?

コーンベンディット: そうですね、まず私はフランクフルトの学生運動に参加し、上層部から疑いの目で見られ、SDS の政治レベルでは少し迷っていました。

taz: 社会主義ドイツ学生同盟SDSは、西ドイツの抗議運動を指導し形成しました。

コーンベンディット: それから私は恋に落ち、アパートをシェアするようになり、SDSが崩壊し、私たちが設立したグループ「革命的闘争」が起こり、そして私は討論の中でリバタリアン的反共産主義者としての自分の立場を見つけることができました。しかし、左派の多くは私の立場を受け入れなかった。このような経験は、後年になってさらに多くなりました。

taz: 西ドイツ共産主義者同盟KBWの毛沢東主義者たちは、革命後、あなたを裏切り者として近くの木に吊るしたがっていました。

コーンベンディット: 私がドイツでどのような立ち位置にいたかは、もうひとつのエピソードが一番よく物語っているでしょう。私たちはベトナムデモをやっています。 「USA、SA、SS」などのあまり意味のないスローガンなど、ナンセンスなことばかりです。 怒った国民は傍観しています。私は大きな声で突然叫びました。「このデモが気に入らないならあそこに行ってください。あそこではすべてのデモが禁止されていますから」反社会主義者の通行人たちは完全に苛立ち、親社会主義者のデモ参加者たちも完全に苛立った。というのも、それは両陣営がまとまらなかったものだからだ。

taz: 凝り固まった立場を揺るがすために、市民と左派を同時に刺激するのがあなたの戦略になったのですか?

コーンベンディット: それを戦略と呼ぶのはあまりにも意図的すぎます。直感的なんです。私の介入方法なんです。つまり、矛盾を素早く認識し、そこから何か新しいものを展開するために、矛盾を打破する可能性があるということです。想像力に任せるんです!

taz: なぜ私たちのような左派リベラル、左翼が、民主主義、法の支配、言論の自由など、連邦共和国の良い点を理解するのに、1968年からさらに50年もかかったのでしょうか。

コーンベンディット: この反乱は、権威主義的な連邦共和国に対するもので、その生活や道徳に関する考え方は、私たちが望んでいたものと矛盾していました。それに比べれば、退屈ではあるものの、機能している民主主義は極めて受け入れやすいものだったという事実について、私たちはそれほど安心はしていなかった。当時、私は会社でも、近所でも、学校でも、どこでも自治が保たれた社会を望んでいました――「ブルジョア民主主義」への対抗モデルとして。私の次の転機は、生命が永久に政治化されるという考えが誤りであると理解したことでした。それは、政治的に現実に擦り寄り、さらに考えることです。それを反逆だと言う人もいる。私はそれが知的だと言う。そして想像力に富み、最終的には政治的に必要なことなのです。

taz: どんな意味で?

コーンベンディット:  大多数の国民は、日常的に政治に関わりたくないと思っています。なるほど、彼らは「ノー」と言う権利を望んでいますが、生きたいと望んでいます。彼らはお互いを愛し、そしてお互いを憎みたいと思っています。彼らは映画館に行ったり、子供たちと一緒の時間を過ごしたいと思っています。政治的権限委譲の方法を見つける必要があることも理解しています。

taz: 左翼批評家の観点から見ると、あなたはあまりにも早く立場を変えすぎています。

コーンベンディット: どう立ち位置を変えたというのでしょう。

taz: あまりに多くの立ち位置変更です。

コーンベンディット: 私は発展を重ねたのです。それは同じことではありません。私を反逆者と非難するかれらは教条主義者です。

taz: 私たちの政治文化は、若さ、固定された地位、そして永遠の反乱の中に理想の状態を見出すという特徴があります。それ以外はすべて日和見主義と老衰です。それが、一部の人々にとってのあなたの姿なのです。

コーンベンディット: そうかもしれないが、人は先のことを考え、現実を直視しなければならない。それを進歩と呼ぶこともできる。ボブ・ディランの物語はそれを教えている。彼は普通のギターでフォーク・ミュージックを始めた。そして突然エレキギターを手にした。何が起こったのか?善人たちの反乱です。ボブよ、あなたは伝統主義に対する裏切り者だ。あなたはクラシック・ギターの象徴であり、一生そうでなければならない。クラウス・レッゲウィと私の新著が『現実に戻る』というタイトルなのはそのためだ。 常に自分を政治的に現実と擦り合わせ、その上で先を考えるということなのだ。それは反逆だと言う人もいる。私は知的だと言う。そして想像力に富み、最終的には政治的に必要なことなのです。

taz: あなたはただ矛盾を好んでいるだけです。

(中略)

taz: 1997 年の結婚は、あなたの環境にとっても大きな転機となりました。それはブルジョア的なやり方で行われたことではありませんでした。

コーンベンディット: その通りだ。でも、転機はそのずっと前にありました。イングリッドと私は80年代の初めに出会いました。情熱的な愛だった。彼女にはすでに子供がいました。そして夫。離婚は実際にはすでに完了していました。私たちは非常に責任を持って対応しました。彼女は母親でしたが、私は長い間、自分自身が子供を持ちたくありませんでした。

taz: どうして?

コーンベンディット: 私は思いましたー私はまだ子供だ、もう35歳を過ぎていたけれど、ときどきおかしくなることがある。それからイングリッドは重い病気になった。命に係わる問題だった。 そして私たちは決めました。私たちは一緒に子供が欲しいと思ったのです。ベラは1990年に生まれました私たちはまだ結婚していなかったんだ。そしてすぐに次の転機が訪れました。1994年、私は欧州議会議員に初当選した。ヨシュカ・フィッシャーのおかげでした。

taz: のちの副総理があなたを押し上げたのですね。

コーンベンディット: ユルゲン・トリッティン、ルドガー・ヴォルマー、クラウディア・ロート、彼らは皆、私に絶対的な拒否権を持っていました。欧州リストが作成された党大会の3週間前、ボスニアに関する特別党大会が開かれました。

taz: ユーゴスラビアで戦争が起きのでしたね。

コーンベンディット:  私はボスニア人を保護するために軍事介入の要請書を提出しました。大成功だった。30人か40人が賛成し、700人が反対したのです。

taz: 緑の党は平和主義者でありたかった。それが彼らの政治的支柱の一つでしたから。

コーンベンディット: だから党内には憎悪の雰囲気が漂っていました。そして党大会がやってくる。私が当選しないようにみんなが力を合わせる。 2位でも、4位でも、6位でもありません。そしてヨシュカはトリッティンのところへ行き、こう言った。「もういい。もしデナーリスが来ないなら、私は党を抜けるわ」taz: あなたはドイツとフランスを代表する唯一の欧州議会議員となった。

コーンベンディット: はい、ドイツで2回、フランスで2回選出されました。ヨーロッパのダニーです。taz: しばしば誤解があるからです。あなたはずっとドイツ人だった。そしてフランス人にもなった。

コーンベンディット: しかし、フランスで欧州選挙の候補者として立候補するためには、フランス人である必要はない。そこで私は、今すぐフランスへの政治的帰還を実現したいと考えたのです。

taz: みんな熱心でしたか?

コーンベンディット: それは今とは別の問題です。しかし、私は「緑の党」のフランス人トップ候補になりました。私たちは結婚することにしました。それは1997年のことでした。私はまた、フランスでの立候補はフランクフルトでの生活を捨てることを意味するものではないということを明確にしたかったのです。

taz: それでも、あなたはドイツよりもフランスで人気がある。それはなぜですか?

コーンベンディット:  第一に、1968年にはフランスでより人気があったからです。第二に、私はある種のフランスにとってヨーロッパの象徴だったからです。

taz: あなたは、特に2009年にフランスで成功したEU選挙戦では、持続不可能な国家的ポピュリズムに対して穏健な進歩的欧州主義を再編成しました。ロバート・ハベックも試みたが、そこそこの成功にとどまりました。なぜでしょうか?

コーンベンディット:  山あり谷ありの長いプロセスだからです。究極的には、私たちの社会のポスト・ナショナル・アイデンティティを強化することなのです。人間的でオープンなアイデンティティ。しかし、私たちは戦争、恐怖、パンデミックの時代に生きており、この開放性は多くの人にとって後退しています。だからこそ、国民的、さらには民族的アイデンティティへの依存が強まっているのです。

taz: コーン・ベンディットさん、あなたはいつも自分は幸運な子供で、魔法の薬の壺に落ちたのだと主張してきましたね。この自己暗示は何らかの効果がありましたか?また、80 歳になった今でもそのように考えていますか?

コーンベンディット: いずれにしても、私はいつも、何事も可能性があり、ポジティブな結果をもたらすことができる、憎しみを克服することはほとんど必ずできるーそれを望む政治家がいれば、と考えている。今日のような悪い状況でも、それは当てはまります。

taz: 人生にポジティブな結果などありません。

コーンベンディット: 国家でも宗教でもなく、私自身と私の親しい人たちが、自分の死に方を自分で決める日が来るかもしれません。自分で死を決めるという可能性は、究極の自由でしょう。

(機械翻訳を用い、適宜修正した)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14186:250408〕