資本論を非経済学的に読む 6

著者: 山本耕一 やまもとこういち : 駿河台大学名誉教授
タグ: ,
  1. 「売り」の困難

資本家によるコントロールという観点からすれば、流通過程は、生産過程とは対照的である。前者は、基本的には、資本家の支配のもとにある。これにたいし、流通過程は、資本家の力がまったくおよばない領域である。

資本家が組織した生産過程が順調に作動していけば、その成果として、生産物がえられる。資本家は、流通過程で、この生産物を貨幣に変換しなければならない。

ここに、資本家にとっての困難がある。マルクスは、そのことをつぎのようにいいあらわしている。

「商品は貨幣を恋いしたう。だが、『まことの恋がなめらかにすすんだためしはない』(シェークスピア『夏の夜の夢』)。」(第1巻 122ページ)

美文といっていい。古典を存分につかいこなした絶妙な表現に、おもわずうなってしまう。マルクスの遺稿をエンゲルスが編集した第2巻・第3巻では、このような思いをすることはあまりない。マルクスは、印刷原稿を完成させる最後の段階で、こうした遊びをやったのだろう。これだけとっても、第2巻・第3巻のマルクスの完成原稿を読みたかったと思わずにいられない。『資本論』全3巻を読み通す楽しみが倍増したはずである。

またしてもわき道にそれた。まことの恋がなめらかにすすまないのは、商品としての生産物の売却に困難がつきまとうからである。資本家が流通過程を支配できるなら、このようなことは起こりえない。

ものを売るのがむずかしいというのは、めずらしいことではない。『資本論』を離れても、日常生活のなかで頻繁にその実例に遭遇する。スーパーの広告がお買い得であふれているのは当然としても、TVのCMも値引き・割引のオンパレードである。

初回限定、期間限定、数量限定、早期割引、セット割引と考えられるかぎりの理由をつけて、食料品から保険まで、あらゆる商品がディスカウントされる。これもひとえに、売るのがむずかしいからにほかならない。

2つで1つ分の価格というのもある。その商品が有用なら、やがてつぎが必要という事態になるだろうから、消費者にはありがたい。しかし、売るほうからすれば、これは問題である。つぎが必要になっても、それがあらたな需要をうみださないのである。1つ分の価格で2つというのは、こうしてみれば、現在の販売のために、将来の消費を犠牲にすることでしかない。(まともな商売であればという条件がつくが。)

一般に、現在のために将来を犠牲にするというのは、資本制の特徴といっていい。このことは、現代の資本制にあっては、いっそう濃厚になっている。これについては、機会があれば、あらためてふれることにしたい。

2. 商品の売却と資本の還流

「売り」の困難は、流通過程が、資本家のコントロールがまったくきかない領域であることの端的なあらわれである。マルクスは、商品の貨幣への変換を「商品の命がけの飛躍[Salto mortale]」(第1巻 120ページ)と表現する。

資本家は、このため、流通過程につよい関心をよせる。そのように強制されているといったほうが正確だろう。流通過程での「売り」の困難にくらべれば、生産過程での剰余価値の創出は、容易とさえいえるかもしれない。

剰余価値の取得という観点からすれば、重要なのは、あたらしい価値が生産される生産過程である。しかし、資本家にとっては、おなじくらい流通過程が重要である。資本家は、商品としての生産物をなんとしても売却しなければならない。

商品の売却によって、資本家は貨幣を手にする。その貨幣の一部は、実現された剰余価値であり、他の部分は、回収された投下資本をあらわしている。

剰余価値の実現とおなじように、投下した資本の回収も、資本家にとっては、最重要の関心事である。資本の確実な回収は、生産過程の維持・継続のための必須の条件なのである。「売り」の困難は、剰余価値の実現と資本の回収が、つねに不確実性にさらされていることを意味している。

剰余価値と資本の回収は、ともに重要とはいえ、両者のあいだには相違もある。剰余価値は、資本家の裁量で、たとえば値引きによって圧縮することができる。もっとも剰余価値がゼロということになれば、投下された資本は資本ではなくなる。

このゼロが一回限りの偶然と確信できる根拠があれば、生産活動の継続は可能である。(資本家の生活手段の購入という問題があるが、これは措いておく。)また、値引き分を埋めあわせるために、たいていは労働の強化という手段がとられる。これは、銘記しておかなくてはならない。

これにたいし、投下された資本は、かならず全額が回収される必要がある。これが不首尾におわるなら、資本家は重大な危機に直面する。生産過程の進行は頓挫し、資本家は資本家であることをやめざるをえない。

回収されるはずの資本は、あらためて確認しておけば、ふたつの部分に厳格に区別される。ひとつは、原料などのように、それのすべての価値が生産物に移行する部分である。これにたいし、機械などが生産物に移行させるのは、その価値のうちの一部でしかない。

第3回でみておいたように、前者が「流動資本」であり、後者は「固定資本」である。「流動資本」は、生産物である商品の売却によって、そのすべてが資本家の手もとに還流する。これにたいし、「固定資本」は、商品の生産で損耗した分しかかえってこない。機械の全価値は、長期にわたる稼働ののち、ようやく回収されることになる。

これに、つぎのような事情がつけくわわる。「機械や工場設備」などには、「不断の改良」がほどこされる。これによって、稼働中の機械や設備は、「その価値を減殺される。」(第3巻 123ページ)

「改良」によって、単純に、おなじ機械や設備が安価に生産されるようになったとする。ある商品の価値は、その商品の再生産に必要な価値である。したがって、ふるい機械や設備は、あたらしい機械・設備が市場にでまわった時点で、自動的にその価値の一部をうしなう。

中古品であっても、使用による減価ではない減価が、一瞬のうちに生じる。この場合、資本家は、機械の損耗分をそのまま商品の価格に転嫁することができない。これまでは、その機械のもとの価値を基準に損耗分を計算できたが、これ以降、商品に転嫁できるのは、あたらしい機械の価値をもとにしたよりすくない価値でしかない。(この事態にも資本家は、たとえば「労働時間の無際限な延長」によって対処しようとするが、それにも当然のことながら限界がある。)

「改良」によって機械の生産性がおおきく向上するようなケースでは、ふるい機械の使用が、競争での敗北に直結する。「固定資本」の回収は、資本家にとって、けっして平坦な道ではない。

  1.  「流動資本」と「固定資本」の区別への関心

流通過程からの資本の確実な還流は、生産過程の維持・継続という観点から、資本家の重大な関心事である。しかも、その還流のしかたには、すでにみたような差異があり、このことは資本家にとってきわめて重要な案件であらざるをえない。これの正確な掌握が、資本の管理運営にとっての必須条件であることは、あらためて指摘するまでもないだろう。「流動資本」と「固定資本」の区別が資本家にとって重要であるのは、このためである。

議論の展開がきわめて不手際であるため、間延びがあまりにひどくなってしまった。これで、第3回で提出した課題について、ようやく結論めいたものにまでたどりついたことになる。

「ブルジョア経済学」ひいてはブルジョア・資本家が、「流動資本と固定資本」の組み合わせに固執するのは、たしかに搾取という事実を隠蔽するためである。しかし、それとおなじくらいに、資本の管理という実際的な関心が、この組み合わせを重要なものとしている。流通過程が、資本のコントロールできない領域であること、すなわち「売り」の困難が、この関心をいっそうおおきくするのである。

ところで、『資本論』の叙述の順番にしたがうという手法からすれば、ここでの議論の進行のしかたには、あきらかにいくつもの“反則”がふくまれている。また、もののいいように不正確な個所が多々あることも自覚せざるをえない。

しかし、『資本論』を最初から順によんでいくことは、はなから放棄しているのだし、第3巻まで読んでから、第1巻を読み直していると想定すれば、ここでの議論のくみたてにおおきな不都合はないとおもう。

不正確な叙述については、やっているほうでも素人まるだしと思わずにはいられないが、このさきの展開のなかでおいおい補正していくつもりである。(あくまでも「つもり」としかいえないが。)

4. 「商品生産者」たちによる「全面的に発達した社会的分業」?

自分がおかした “反則”を確認するのも妙なものだが、じつは、マルクスが「商品の命がけの飛躍[Salto mortale]」について述べている個所には、資本家はでてこない。資本家が登場するのは、原著のページでいえば、「命がけの飛躍」から70ページ先の191ページである。

とんでもない“反則”といわれれば、かえすことばもない。議論の大枠にはひびかないだろうとの判断から、「資本家」に登場ねがったのである。「資本家」にとっても、「売り」の困難という事態は、つねについてまわる。そのことは、すでにみたように、現代の日常生活をみれば一目瞭然である。われわれの毎日は、資本の「なんとしても売りたい」の攻勢にさらされつづけている。

それでは、第1巻の120ページで「商品の命がけの飛躍」をはらはらしながら見まもっているのはだれか? それは「商品保持者」である。この「商品保持者」は、自分の商品をみずからの手で生産する。くわえて、この「商品生産者」でもある「商品保持者」は、全面的に発達した社会的分業という条件のもとで、生産物交換をおこなうのである。

これは、いかにも奇妙な光景といえる。社会的分業は全面的に発達している。にもかかわらず、その分業を担っているのは、ただの「商品生産者」でしかない。この設定にもとづいて、具体的な社会のイメージをつくるのは、そうとうに困難である。

われわれの常識からすれば、社会的分業が全面的な展開をみるのは資本制社会においてである。そこでは、「保持者」としての資本家が市場にもちこむ商品は、資本家が自分で生産したものではない。

歴史を丹念にしらべていけば、「商品生産者」たちが「社会的分業」を全面的に発達させた社会をみつけだすことができるかもしれない。しかし、かりにみつかったとしても、その社会の規模はごく小さいにちがいない。そうした特殊な例外的ともいえる実例が、理論的にどれほどの意義があるのかは、見解がわかれるところだろう。

こうしてみれば、ただの「商品生産者」たちがつくりだす「全面的に発達した社会的分業」は、あるいは、専門家のあいだでは論争をひきおこしうるのかもしれない。しかし、初心者は、もっと単純に考えていいだろう。

第1回での『資本論』の端緒をめぐる議論から、すこし視野をひろげておきたい。『資本論』の記述は、「商品」という単純なものからはじまる。そこからの議論の進行については、ごくおおざっぱに、つぎのようにいえるだろう。

マルクスは、分析をすすめながら、資本制社会の骨組みを呈示していく。そして、さらには、その骨組みに肉づけをほどこし、資本制の全体像を具体的にえがきだそうとする。

そう考えてみれば、「商品生産者」たちによる「全面的に発達した社会的分業」は、資本制社会の骨組みを叙述していくステップの一段階といえるだろう。歴史のなかに、これに対応する現実をさがしもとめて苦労する必要はない。

また、マルクスの資本制社会の骨組みを呈示する順序、あるいは肉づけのしかたについても、いろいろな意見がありうるのかもしれない。しかし、それにも、初心者はかかわる必要はあるまい。それよりも、マルクスの叙述の進行のこの局面にも、資本制について考えるための重要なてがかりが提出されている。次回は、それをとりあげることにしよう。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1351:250410〕