ローマ教皇フランシスコの死去
2025年4月21日(月)、ローマ教皇フランシスコが亡くなりました。死因は脳卒中と心不全であるとバチカンは発表しました。88歳でした。カトリック教徒が人口の90%以上を占めるといわれ、去年2024年9月に念願であったローマ教皇の来訪が実現した東チモールは、7日間喪に服することにし、ローマ教皇フランシスコの死を悼みました。
4月上旬、学校では学期末の試験がおこなわれ、子どもたちはその後すぐ4月27日までの復活祭休日に入りました。大人たちといえば、4月17日から官庁は復活祭の休暇に入りました。復活祭の祝日である4月20日にはローマ教皇フランシスコがバチカンの広場に集まった群衆に姿を見せ復活祭を祝福したことから健康が回復したと思われましたが、翌21日、ローマ教皇逝去の訃報が流れ、カトリック教会の催事が続くことになります。首都デリ(ディリ、Dili)の町ではあちらこちらで教皇フランシスコの死去にたいする哀悼の意を表す看板がたちはじめました。レシデレ地区にあるマリア像広場につながる道路が規制され、この広場に故フランシスコを偲ぶための礼拝の壇が設けられました。陽射しの強い日中でも大勢の信者がここを訪れ祈っていました。
4月26日(土)、バチカンでの葬儀にあわせるように東チモールでも、ローマ教皇フランシスコが去年9月ミサをおこなった同じ場所であるタシトルで、教皇フランシスコの死を悼むミサが午後6時からおこなわれ、大勢の信者が参列しました。
4月28日(月)、すでに喪が明けているはずでしたが、朝の時点で国会前に揚げられている国旗はまだ半旗となっていました。しかし午後に政府庁舎前を見ると国旗は天辺まで揚げられていました。レシデレ地区のマリア像広場に行ってみると、マリア像のふもとにまだ教皇フランシスコの写真がたてられていましたが、礼拝の壇は撤去され、連日焚かれていたローソクの蝋の匂いだけがたちこめ、祈る信者の姿はありませんでした。子どもたちの復活祭休日は終わり、この日、学校がまた始まり、東チモールの日常が戻りました。
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2025年4月23日、
首都のとある印刷屋さんのたてた看板。
ⒸAoyama Morito.
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2025年4月23日、
幹線道路沿いに政府がたてた看板。
ⒸAoyama Morito.
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2025年4月23日、ベコラ教会の飾った横断幕。
ⒸAoyama Morito.
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2025年4月25日、レシデレ地区のマリア像広場にて。
ここがローマ教皇フランシスコを偲び祈る場となり、強い陽射しをものともせず大勢の若者たちが押し寄せた。
ⒸAoyama Morito.
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2025年4月25日、
ポルトガル大使館が飾る「4月25日」の横断幕。
ⒸAoyama Morito.
ポルトガルの独裁体制を倒した「カーネーション革命」(1974年4月25日)の話題は、ローマ教皇フランシスコ死去のニュースのおかげで隅っこに追いやられたが、討論会などの行事が開かれた。「もう二度とゴメンだ!」(NUNCA MAIS!)とは、独裁政権時代の貧しさにたいする拒否の表明だと思われる(が、まだ確認はしていない)。
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2025年4月28日、マリア像広場。
教皇フランシスコの写真がたてられていたままだが、
喪が明け、〝祭りのあと〟のような静けさが漂う。
ⒸAoyama Morito.
ところで20年前の4月、当時のマリ=アルカテリ首相率いるフレテリン(東チモール独立革命戦線)政権に抗議するカトリック教会の信者たちが全国から首都に駆け付け、長期反政府デモのためにこの広場にキャンプをはって陣をはったことを、いまの若者たちは知っているだろうか。なお、抗議とは当時の政権が公立学校における宗教の授業を必須科目から選択科目にする計画を立てたことにたいするものであった。
青山森人の東チモールだより easttimordayori.seesaa.net
第534号(2025年4月30日)より
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14200250501〕