〝ドゥドゥ〟と〝マウベレ〟が永眠
東チモール解放闘争の二人の高名な戦士がこの5月、たて続けに亡くなりました。7日にエルネスト=フェルナンデス =〝ドゥドゥ〟(1945年6月18日~2025年5月7日、享年79歳)が入院先の国立病院で、そして16日にはドミンゴス=ダ=シルバ=ソアレス=〝マウベレ〟神父(1952年5月12日~2025年5月16日、享年73歳)がやはり国立病院で亡くなりました。二人ともインドネシアによる軍事占領時代に東チモール内外で影響力のある人物として名を馳せた存在でした。
〝ドゥドゥ〟は解放軍の司令官そして国会議員
エルネスト=〝ドゥドゥ〟は、エルメラ地方のFALINTIL(東チモール民族解放軍)司令官として侵略軍と戦ってきました。エルメラ地方の解放軍といえば闘争の現場指揮官であったニノ=コニス=サンタナ司令官がいたところでした。1990年代、東チモールのゲリラ兵士たちの写真が海外に漏れ伝わるとき、〝ドゥドゥ〟司令官の雄姿はよく被写体となって伝えられたことから、〝ドゥドゥ〟司令官の雄姿が東チモール抵抗運動を象徴するひとつの存在だったと感じたのはわたしだけではなかったことでしょう。
「独立回復」後しばらくのあいだ、エルネスト=〝ドゥドゥ〟は民主党の国会議員として活動しました。
〝マウベレ〟の異名をとった神父
インドネシア軍占領中、エルネスト=〝ドゥドゥ〟司令官とはわたしは直接の面識はありませんでしたが、ドミンゴス=〝マウベレ〟神父とは面識がありました。1990年代半ばのことです。わたしとビデオカメラマンは神父に会って話をきく必要があるため面会の調整を地下活動家に依頼すると、マコタホテル(現在のホテルチモール)のロビーで待つように指示をうけました。わたしたちはしばらく神父を待っていたのですがなかなか姿が現れず、そのうちホテルの従業員から電話ですよといわれ――この従業員は地下活動家だった――わたしは電話に出ると、「きょうは都合が悪くなったので、会えない」といわれました。わたしたちは仕方なくマコタホテルを出ると、神父の運転する車が目の前に止まり、「乗れっ!」といわれ、わたしたちは慌てて乗りました。するとその車はデリ市内をしばらく走り、着いた先が、結局マコタホテルのすぐ横隣りにある建物でした。そこは教会関係者・聖職者たちが利用する建物でした(この建物はいまでも1999年9月に破壊された姿をそのままにしている)。わたしたちはその二階に案内され、神父から話をきくことができたのでした。外国人を乗り物に乗せてさんざん走りまわったあげく到着するのが出発地点からすぐ近くの場所というのは地下組織の常套手段だったようです。いうまでもなく侵略軍の監視の目(外国人も)をごまかすためです。
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無残な破壊跡を20年以上もさらしているが、わたしにとっては〝マウベレ〟神父との思い出の場所だ。
2025年5月17日。
ⒸAoyama Morito.
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この体験から、ドミンゴス=〝マウベレ〟神父は手だれの地下活動家であるという印象をわたしは強く抱きました。東チモール・カトリック教会の神父たちは弾圧に苦しむ人びとを守るために献身したことから人びとから尊敬されていますが、ドミンゴス=〝マウベレ〟神父はひときわ解放闘争に深く関わった聖職者でした。「マウベレ」とは、初めは東チモール人男性にたいする蔑みの呼称でしたが、民族解放運動のなかで闘う東チモール人(の男性)という意味に転化されました。ドミンゴス=ソアレス神父が〝マウベレ〟神父と異名をとるにはそれなりの理由があるからです。
ドミンゴス=〝マウベレ〟神父はまた、1994年8月、日本から5人の国会議員が東チモールを公式訪問したとき、秘密裏に日本側と接触し、東チモールの窮状を訴えました。危険なこの行為について、誰かがやらねばならない、と神父は述べたとわたしは記憶しています(この模様はビデオに収められ、当時のNHK教育番組で放映された)。
「独立回復」後の2002年、ドミンゴス=〝マウベレ〟神父は来日し、上智大学で講演しています。そのなかで神父は、東チモールの90%はカトリック信者だが首相はイスラム教徒であることから東チモールには宗教対立はない、と話していました。その「首相」つまり当時のマリ=アルカテリ首相が率いる政府にたいして、20年前の2005年4月、カトリック教会が大規模なデモ活動をしかけたとき、デモ隊の先頭に立って「規律、規律、規律を守るように」とデモ参加者にマイクで呼びかけていたのがドミンゴス=〝マウベレ〟神父でした(拙著『東チモール 未完の肖像』、2010年、社会評論社、144頁)。
その後はもちろんカトリック教会とマリ=アルカテリの関係は修復されています。ドミンゴス=〝マウベレ〟神父が亡くなると、マリ=アルカテリ元首相は、〝マウベレ〟神父は困難な時代の自由の戦士であり、われわれの解放のために自らを捧げた聖職者であった、と追悼の辞を述べました(『タトリ』、2025年5月16日)。
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ローマ教皇フランシスコの死を悼む横断幕(東チモールだより第534号)が〝マウベレ〟神父の死を悼む横断幕に変わった。
2025年5月17日、〝マウベレ〟神父の〝務め先〟だったベコラ教会にて。
ⒸAoyama Morito.
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〝マウベレ〟神父は16日朝7時ごろ入院先の国立病院で亡くなり、同病院の礼拝堂で大勢の人が祈りを捧げた。それから遺体はヘリコプターで神父の故郷であるエルメラ地方のレテフォホに運ばれ、地元の人びとは涙で迎え、祈りの集会がもたれた。翌17日、遺体は首都に空輸で戻され、ベコラ教会で別れの時間がもたれたのち、19日、首都にある聖職者用の墓地に埋葬される。
2025年5月17日、〝マウベレ〟神父の遺体を待つベコラ教会にて。
ⒸAoyama Morito.
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解放闘争の英雄たち・指導者たちは年齢を重ね高齢化を迎えています。英雄たち・指導者たちの死去に東チモールはこれからますます直面することになるでしょう。東チモールはそれに耐えるために備えなければなりません。
青山森人の東チモールだより easttimordayori.seesaa.net
第536号(2025年5月19日)より
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14230250520〕