1. 「社会の総労働時間」
前回では、「売り」の困難が、資源・エネルギーの濫費、労働の社会的意義の喪失となって帰結することにふれた。後者について、もうすこしみておこう。
マルクスは、リンネルの生産条件が激変した場合、その生産についやされた労働の一部が、正当に評価されないことを指摘している。商品が廃棄されるケースも、これとなんらかわらない。
廃棄される商品の生産についやされた労働も、なされなかったのとおなじである。そのような「労働」も、「社会的」という規定を実現できずにきえていくことになる。
もっとも、場合によっては、微妙なちがいが生じるかもしれない。すでに指摘したように、リンネル生産で「余分に支出された労働」には、対価は支払われない。商品所有者が生産者でもある場合、かれは、ある時間ただ働きをしたことになる。
これにたいし、資本制では、直接生産者である労働者は、実質的なただ働きにもかかわらず、賃金を得ることがありうる。資本制のもとでは、生産者と生産された商品の所有者はちがう人格である。所有者である資本家は、事情によっては、廃棄によって価格を維持したほうが、かえって賃金が払いやすいかもしれない。
この場合、「社会的」という規定を実現できなかった「労働」が、にもかかわらず、対価をうけとるという奇妙な事態が出来することになる。(ややこしくなるが、生産条件の激変は、マルクスの時代なら、まっさきに労働者に犠牲をしいただろう。)
いまみたことは、しかし、「消費」の視点からすると、ちがった様相を呈する。廃棄される商品は、いうまでもなく、消費されることはない。廃棄された商品は、そもそも「消費」の視界には登場しないのである。
問題は、リンネルの生産条件が激変するケースである。リンネルの生産に必要な労働時間は短期間でおおきく変化する。しかし、リンネルの「消費」は、それの生産についやされた時間とは、まったくかかわりがない。リンネルはリンネルとして「消費」されるだけである。
このようにとらえるなら、リンネル生産についやされた「余分な労働」も、他者の生に貢献したのであり、「社会的労働」として機能したとみなされるかもしれない。しかし、結論をいそぐまえに、リンネルについてのマルクスの叙述をみておこう。
労働の余分な支出が問題になるのは、リンネルの生産条件が激変する場合だけではない。リンネルの生産条件の激変につづけて、マルクスは、つぎのような例をあげる。
「市場にあるリンネルは、どの一片も、ただ社会的に必要な労働時間だけをふくんでいるものとしよう。それにもかかわらず、これらのリンネル片の総計が、余分に支出された労働時間をふくんでいることがありうる。もし市場の胃袋が、リンネルの総量を1エレあたり2シリングという正常な価格で吸収できないならば、それは、社会の総労働時間のおおきすぎる一部分がリンネル織物業のかたちで支出されたということをしめしている。」(第1巻 121-122ページ)
これが意味しているのは、単純にリンネルの過剰生産である。目をひくのは、このことを説明するのに、マルクスが、「社会の総労働時間」という概念をつかっていることである。マルクスが、この概念をもちだした意図はどこにあるのか? 腰をすえて考えてみることにしよう。
2. 商品の価値と「費用価格」
第3巻に手がかりとなりそうな記述がある。マルクスの思考を追跡するのに格好でもあるので、たんねんに読んでいきたい。
叙述の順序を無視することになるが、まず基本の確認からはじめよう。ここでの議論の根底にあるのは、「商品の使用価値は、商品の交換価値の、したがってまた商品の価値の前提だという法則である。」(第3巻 649ページ)
それぞれの商品は、諸個人の欲求を充足しなくてはならない。それではじめて、価値をもつことができる。そして、「各個の商品にかんしてただ必要な労働時間がついやされている」なら、その商品は、価値通りに(ついやされた労働時間をそのまま反映するかたちで)売られることになる。
マルクスのここでの関心は、しかし、社会全体の規模での生産にある。このかたちでの生産のとらえかえしは、『資本論』全体にとって、かくだんの重要性をもつ。このことを念頭において、とりあえずさきにすすもう。
視野を拡大してみたとき、「いろいろな群の生産物が、それぞれの価値で(もっと発展がすすめばその生産価格で)売られる」(第3巻 648ページ)ためには、さらにべつの条件がみたされなくてはならない。
このべつの条件にすすむまえに、「生産価格」についてざっと整理しておこう。はじめに、マルクスの規定を確認しよう。「商品の生産価格」は、「商品の費用価格・プラス・平均利潤にひとしい。」(第3巻 167ページ)
確認しておくべき概念がつぎつぎでてくる。用語集ではないのだが、初心者は、おっくうがらずにおいかけよう。まず、「費用価格」である。これを理解するには、「価値」にまでさかのぼるのが好都合である。
「ある使用価値の価値量を規定するもの」は、マルクスによれば、「社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に必要な労働時間」である。(第1巻 54ページ)「社会的に必要な労働時間」という基本概念についても確認しておこう。それは「現存の社会的に正常な生産条件、労働の熟練および強度をもって、なんらかの使用価値を生産するのに必要な労働時間」である。(第1巻 53ページ)
資本制では、使用価値は商品として生産されるが、その「価値W」は、「c(不変資本)+v(可変資本)+m(剰余価値)であらわされる。」(第3巻 34ページ)ただし、これは、マルクスの視点からの把握である。資本家の目には、おなじことが、ちがった様相で映じる。
資本家にとっては、可変資本と不変資本を区別はないにひとしい。「費用」という概念が、そのことをよくしめしている。
商品の価値から剰余価値をのぞくと「生産要素に支出された資本価値c+v」がのこる。この部分は、「その商品が資本家自身についやさせたものを補填するだけ」の「費用」であり、したがって、「資本家にとって商品の費用価格をなす。(中略)費用価格をKとなづければ、定式W=c+v+mは、定式W=K+mに、すなわち商品価値=費用価格+剰余価値に転化するのである。」(第3巻 52ページ)
これにともなって、「剰余価値」は「利潤」になる。「資本家の利潤は、自分が代価を支払っていないものを売ることができるということから生じる。」それは、「商品価値が商品の費用価格をこえる超過分である。」(同上)
蛇足になるが、このような理解によって、搾取による剰余価値の取得は、あとかたもなくきえさる。
3. 剰余価値率・利潤率・平均的利潤率
「生産価格」という概念にいきつくには、まだいくつかの手順を踏む必要がある。
剰余価値をうみだすのは、現実には「労働力に転換された資本部分」、つまり「可変資本」なのだから、商品の価値の増加の割合は、m(剰余価値)÷v(可変資本)であらわされる。これによってもとめられるのが、剰余価値率である。
しかし、「剰余価値または利潤は、まさに商品価値が、商品の費用価格をこえる超過分である」という資本家の観点からは、価値の増加は、m(剰余価値)÷C(総資本)、もしくはm÷(c+v)ではかられる。これでえられる数字が利潤率である。(第3巻 53ページ)
ところで、資本家は、自分の生産部面で得られた剰余価値、すなわち利潤をそのまま手にすることはない。資本家たちは、それぞれの部面で生産された剰余価値の総量をわけあうのである。マルクスの説明をひろっておこう。
「それぞれ生産部面のちがう資本家たち」は、「かれら自身の部面で(中略)生産された剰余価値を、したがってまた利潤を手にいれるのではなく、ただ、すべての生産部面をひっくるめて一定の期間に生産される剰余価値または総利潤のうちから、均等な分配によって、総資本の各加除部分に割りあたるだけの剰余価値を、したがってまた利潤を手にいれる。」(第3巻 168ページ)
ていねいに整理しないといけない。社会全体で生産された剰余価値が、社会のすべての資本によって分配される。そのさい、分配の基準となるのは、商品を生産するのについやされた資本(「流動資本」プラス「固定資本の損耗分」)ではない。
分配は、投入されている資本の総額を基準にしておこなわれる。すなわち、「固定資本」は、その損耗分だけでなく、生産過程で使用される「固定資本全体の価値」が基準に算入される。つまり、「流動資本」プラス「固定資本の全額」が、「総資本」に剰余価値が分配されるさいの基準なのである。
これによって、社会のすべての資本について、利潤の率は同一になる。このことは、生産部面にも、資本の規模にもかかわりがない。この率が「平均利潤率」もしくは「一般的利潤率」である。
なんとか、「生産価格」を理解できるところまでたどりついたようである。マルクスの記述を引用しておこう。
「商品の生産価格は、商品の費用価格・プラス・一般利潤率にしたがって百分比的に費用価格につけくわえられる利潤」にひとしい。「一般利潤率にしたがって百分比的に費用価格につけくわえられる利潤」は、「平均利潤」とよべるから、商品の価格は、「商品の費用価格・プラス・平均利潤」とあらわすこともできる。(第3巻 167ページ)
一般的利潤率もしくは平均利潤率の設定は、乱暴ないいかたをすれば、資本家による操作である。資本家の世界では、なぜそのような操作が必要になるのか? これもざっとみておこう。
4. 利潤率の平均化
平均利潤率もしくは平均利潤がみちびきだされる手順は、『資本論』第3巻第9章「一般利潤率(平均利潤率)の形成と商品価値の生産価格への転化」の最初の四ページで説明されている。しかし、その叙述を逐一たどっても、理解がより明確になるような解説ができるとは思えない。焦点をマルクスの議論の眼目と思われる一点にしぼろう。
それぞれの資本家が獲得するのが、自分が生産した剰余価値だけだとすれば、資本のありかたにおうじて、おおきな有利不利が生じる。不利をこうむるのは、巨額で償却期間がながい固定資本を必要とする生産部門である。
固定資本は、不変資本の一部をなすから、このような生産部門では、不変資本の部分はおおきい。そのぶん、可変資本が全体にしめる比率はひくいものとなる。剰余価値をうみだすのは可変資本である。資本全体のうち、可変資本がしめる割合がひくければ、それだけ利潤率も低下する。
投資額がおおきく、利潤率はひくいとなれば、そのような生産部面へ投資する利点はない。くわえて、巨額の固定資本の償却期間がながければ、さまざまなリスクを負うことになる(機械を例にとれば、故障、メンテナンスの費用、あるいは高性能で廉価な代替品の登場など)。利潤率の平均化がおこなわれる主要な目的のひとつは、この不利益をなくすことである。
利潤率の平均化によって、ある資本は、みずからが生産したよりもおおきな剰余価値を取得する。しかし、それは他の資本が、労働者たちに生産させたにもかかわらず、実際には手にしなかった剰余価値である。社会全体でみれば、利潤率の平均化がおこなわれても、生産された剰余価値の量は、なんら変化することはない。「すべての生産部門の総体」としての「社会そのもの」のうちでは、「生産された商品の生産価格の総計は、商品の価値の総計にひとしいのである。」(第3巻 169ページ)
「資本制的生産全体」では、「一般的な法則は支配的な傾向としてつらぬかれる」(第3巻 171ページ)が、利潤率の平均化もそのような「支配的傾向」のひとつである。いずれにしても、資本制では、使用価値としての商品は、価値どおりに売られるのではなく、「生産価格」で売られるのである。もっとも、「支配的傾向」という表現にあくまでも忠実であろうとするなら、“おおくの場合、「生産価格」に近似の価格で売られる”というのが正確かもしれない。
あらかじめわかってはいたが、基本概念の確認におわれ、本来の課題は手つかずでおわってしまった。しろうとの不手際を反省するしかない。次回あらためて、生産物が、それぞれの価値で(もっと発展がすすめばその生産価格で)売られる」ための条件を検討することにしたい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1353:250605〕