私たちは樺美智子さんを忘れない 安保闘争から65年、「声なき声の会」が6・15集会

 6月15日(日)、東京・水道橋の全水道会館で、参加者約30人の集会があった。反戦市民グループの「声なき声の会」主催の「6・15集会」。65年前の日米安保条約改定阻止運動(60年安保闘争)の中で亡くなった東大生・樺美智子さんを追悼する恒例の集会で、今年で63回目。世界各地で戦争が継続中とあって、「今こそ、市民1人ひとりが樺美智子さんの遺志を継いで反戦行動を起こさねば」といった趣旨の発言が相次いだ。

 1960年、岸信介・自民党内閣が日米安保条約改定案(新安保条約)の承認案件を国会に上程。社会党(社民党の前身)、総評(労組の全国組織)、平和団体などからなる安保改定阻止国民会議が「改定で日本が戦争に巻き込まれる恐れがある」と改定反対運動を展開した。これに対し、自民党は5月19日、衆院本会議で条約の承認案件を強行採決。これに抗議して多数のデモ隊が連日、国会議事堂を取り囲んだ。
 千葉県柏市の画家、小林トミさんと、その仲間の映画助監督の2人が6月4日、「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた幕を掲げ、新橋から国会に向けて行進を始めた。沿道にいた人たちが次々と加わり、その人たちによって無党派市民の集まり「声なき声の会」が結成された。
 6月15日には、全学連主流派の学生たちが国会議事堂南門から議事堂構内に突入して警官隊と衝突、その混乱の中で樺美智子さんが死亡。広範な抗議の声があがる中、新安保条約は6月19日に自然承認となった。新安保条約は、今もなお日米両国を結ぶ同盟の支えとなっている。

 その後、声なき声の会は「日米安保条約に反対する運動があったことと樺さんの死を決して忘れまい」と、翌61年から毎年、6月15日に都内で集会を開き、国会議事堂南門で樺さんへの献花を続けてきた。65年にわたり反戦平和のための活動を続けてきた市民グループは極めてまれだ。発足直後は著名の学者や活動家が参加していたが、今は皆、無名の市民である。

 この集会は、何かを決議するということはしない。その代わり、参加者全員が発言する。何を話してもかまわない。60年安保闘争との関わりや、自らの近況や、地域で最近起きていることを報告する人もおれば、世界や日本の政治情勢に対する感想を述べる人もいる。
 今年の集会は、この会としては珍しく昼間の集会となった。午前10時に始まり、同11時45分に閉じた。首都圏各地からやってきた中高年齢者が多かったが、仙台、金沢、大阪から来た人もいた。初めて参加した人もいた。

世界の現況に危機感
 参加者の発言の中身は多岐にわたっていたが、最も多かったのは世界と日本の現況への危機感、不安感だった。
 75歳と名乗った男性は「世界で民主主義が壊され続けている。正気でいられない。気分が暗くなる」と話した。
 ある男性は「ウクライナやパレスチナで命が失われている。人が殺されてゆくのは耐えがたい。日本でも1970年代に『殺すな』というスローガンを掲げた運動があった。今の世界状況に『殺すな』と表明したくて、この集会に参加した」と発言した。
 「パレスチナで大勢の人が殺されている。イスラエルとアメリカはテロリストと言ってよい」と発言したのは中年の男性だった。

日本は「戦争の出来る国」へ
 日本の現況に対する発言もあった。
 仙台からきた女性は「日本は『戦争の出来る』へ着々と進んでいる。そのために、政府は国民の生活など無視している。最近の政治は全くひどい」と語った。
 6月11日に参院本会議で可決された、日本学術会議を特殊法人化する法律について発言した男性が2人いた。「全くひどい。戦前の滝川事件の再来だ」「学術会議の特殊法人化に反対する運動を、マスメディアは一切報道しなかった」
 こんな発言をした男性もいた。「日本の戦後政治には、新安保条約を押し通した岸信介的なものが通底しているのではないか。それを最も体現しているのは安倍政治だ」

平和運動はまず「個」から出発して他に広げよう
 戦後日本で反戦平和運動が盛り上がったのは1960年と1970年をピークとする期間だ。だから、1960年をピークとする運動を「60年闘争」、1970年をピークとする運動を「70年闘争」という。
 70年闘争以後、平和運動は概して低調である。もっとも、1982年に原水爆禁止運動が全国的に高揚したことを例外としてだが。  集会では、なんで平和運動が低調になったかを指摘した発言があった。それは、ある男性の「日本人は歴史に学ばないから、すぐ忘れてしまう」という発言だった。
 この発言に対する反対の意見はなく、平和運動は結局、大きな組織に頼ることなく、まず個人から始め、めげないで頑張る。そして、地域で賛同者を増やしてゆくのが平和運動本来の行き方でないか、という考え方が会場を満たしたように感じられた。大阪から来た女性の発言が心にしみた。それは「私たちは、もっとやることがあったのではないか。地域で戦えるものをつくるべきだったのではないか」

献花のため議事堂南門に集まった人たち

 集会後、参加者たちの大半は国会議事堂南門に向かった。南門に着くと、声なき声の会世話人の細田伸昭さんが「私たちは、樺美智子さんを決して忘れない」とあいさつ、次いで全員で生花を南門に供えて樺美智子さんを偲び、「同志はたおれぬ」(スティークリッヒ作詞・作曲、小野宮吉訳詞)、「忘れまい6・15」(林光・作曲)を歌った。
 参加者の中には、南門の前でバイオリンを弾く女性もいて、参加者の間から「ウイシャルオーバーカム」の歌声がわき起こった。

初出:「リベラル21」2025.6.16より許可を得て転載                     http://lib21.blog96.fc2.com/blog-category-1.html

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