- 「社会の総労働時間」の「比例配分」
前回からもちこした課題は、「生産物が、それぞれの価値で(もっと発展がすすめばその生産価格で)売られる」ための条件を解明し、さらに、それをとおして、「社会の総労働時間」の意義を確定することであった。あわせて、考察を中断している「社会的労働」についても、検討をつづけなくてはならない。
くりかえしになるが、マルクスの議論をたどりなおすところからはじめよう。商品についやされているのが、社会的に必要な労働時間だというだけでは、その商品が「価値(もしくは生産価格)」どおりに売られるための条件としては不十分である。
出発点は、再確認するなら、「使用価値」である。(第3巻649ページ)ある商品の使用価値は、特定の欲求を充足する。したがって、個人のさまざまな欲求の充足には、もろもろの「使用価値」をもつさまざまな商品が必要になる。このことが、根底にあって、すべてを規定している。
視野を社会全体に拡大して、「使用価値」による欲求の充足をみてみよう。いうまでもなく、その社会では、社会的分業が全面的に発達していることが前提されている。
社会の成員である諸個人は、おおくの欲求をもつが、これをみたすには、それにみあう「社会的生産物」が必要になる。個人は、プールされた「社会的生産物」から、それぞれの欲求をみたすのに必要な量を取得(資本制社会では商品として購入)する。
このことが、社会の全成員に可能になるには、あることが必要である。それは、それぞれの欲求の社会的規模におうじて、必要な量の生産物(マルクスの表現では「社会的規模での使用価値」)が確保されていることである。いいかえるなら、ある欲求について、社会全体の需要をみたすだけの供給がなされなければならない。
資本制の観点からすれば、それぞれの「社会的生産物」について、それなりの需要があれば十分ということになろう。全成員が取得できなければ、その生産物の価格が上昇するだけであり、そのほうがむしろ、生産者(企業)にとっては好都合といえる。逆の場合は、価格が下落し、生産するがわは、場合によっては、おおきな打撃をこうむることもありうるだろう。
資本家の目には、価格の変動は、自然界の現象とおなじように映じる。しかし、「社会の総労働時間」の配分という視点からとらえるなら、この事態はべつの相貌を呈することになる。マルクスのいうところをみてみよう。
全面的に発展した社会的分業のもとでは、「社会の総労働時間」は、「独立した特殊な社会的諸生産部面」に「分割」される。この分割が「均衡のとれたものであれば、いろいろな群の生産物はそれぞれの価値で(もっと発展がすすめばその生産価格で)売られる」ことになるのである。(第3巻 648ページ)
「総労働時間」の「均衡」がとれた「分割」こそが、生産物がそれぞれの価値(生産価格)で売られるためのもうひとつの条件である。こうして、前回からもちこした課題にたいする解答がえられたことになる。
「均衡」がとれた「分割」について確認しておこう。ある「社会的生産物」を生産するには、「社会の総労働時間」の一部が充当されなくてはならない。その労働時間が、その生産物の全社会的な必要量を生産するのに過不足がなく、このことが、「社会的生産物」のそれぞれについてあてはまる。これが、「社会の総労働時間」の「分割」の「均衡」がとれた状態である。
このことは、労働者の配置という側面からとらえなおすこともできる。かりに、労働時間が社会全体で同一であるとする。この条件のもとで、各部面に配置される労働者数が、それぞれの部面の必要にみあっている。これが、「均衡のとれた分割」にほかならない。この「分割」によって、それぞれの欲求について、どの生産部面も、需要をみたすのに必要な「社会的生産物」を提供できることになる。
この場合、社会に存在するあらゆる欲求の充足手段が、「社会的生産物」に算入されるわけではない。たとえば奢侈品にたいする欲求は、もともときわめて不安定であり、その価格の上下は、社会のおおくの成員にはかかわりがない。
基本的には、いわゆる生活必需品が、ここでいう「社会的生産物」にあたるとかんがえていいだろう。生活必需品についても、相当の幅を勘案する必要がある。社会・文化の差異によって、おおきなちがいがあり、時代がくだれば、生活必需品のリストも長大になっていく。
ここでは、とりあえず、そういった相違はおいておき、おおまかなくくりで生活必需品をかんがえておこう。「社会の総労働時間」の「均衡のとれた分割」が意味をもつのは、そうした生活必需品を生産する「特殊な社会的諸生産部面」にかんしてである。
あらためて、マルクスのいうところをみておこう。
「もろもろの商品が、ただ各個の商品にかんして、ただ必要な労働時間がついやされているというだけでなく、社会の総労働時間のうちから、ただ必要な比例配分量だけが、いろいろな群のなかでついやされている」ことが、「価値(生産価格)」どおりに商品が売られるための必要条件である。(第3巻 648ページ)
- 「社会の総労働時間」の損失と「社会的労働」の貶下
出発点として、社会全体で、もろもろの欲求を充足する諸商品への需要が、供給と均衡している状態を想定してみる。この状態で、標準的な生産条件と労働時間で生産されたなら、商品は、それにふさわしい価格で評価されることになる。
第8回で引用したリンネル生産の例にたちかえろう。マルクスの前提によれば、リンネル生産には、あたえられた条件のもとで、必要な労働時間だけがついやされている。にもかかわらず、リンネルが、その労働時間を反映した価格で評価されない(低価格で売ることをよぎなくされる)とすれば、リンネルが過剰生産されたからである。
このことは、「社会の総労働時間」の配分という視点にたつことで、はじめてただしく理解できるというのが、マルクスの考えである。社会全体で、「社会的生産物」の需要と供給が均衡している状態では、それぞれの財の生産に必要な労働時間はおのずときまる。
そうなれば、その労働時間が、「社会の総労働時間」のうちで、どれだけの割合をしめるかもきまる。蛇足を承知でいえば、リンネルの過剰生産は、「社会の総労働時間」の一部が、「均衡」をくずすかたちで支出されたことを意味する。
むろん、「社会の総労働時間」は変動しうる。マルクスがつかいそうな例としては、労働時間の延長が適当だろう。資本家が、搾取の強化のために労働時間を延長すれば、そのぶん、「社会の総労働時間」は増大する。過剰生産が可能になる一因は、「総労働時間」がこのように可変的だからである。
しかし、いまは、この問題にはこれ以上たちいらないで、議論をすすめよう。全面的に発達した商品交換では(むろん資本制でも)、不必要な労働には、不払いという結果がついてくる。というよりも、マルクスの記述にしたがうなら、不払い(労働時間に対応する価格で売却できないこと)という結果が、リンネル生産労働全体について、その一部が不必要だったことを証明するのである。
リンネル生産への不必要な労働の投入は、「社会の総労働時間」の損失(浪費)であるというのが、マルクスの理解である。しかし、社会的分業の編制が自然発生的である資本制では、欲求を基盤とする需要と供給の均衡は、だれによっても意図されてはいない。「総労働時間」の損失が生じるのも当然といえよう。
需要と供給は、むしろ均衡しないのが資本制の常態である。かりに、均衡が出現したとしても、それは偶然的な結果でしかない。したがって、生産物がそれぞれの価値もしくは生産価格で売られることも、資本制のもとでは、偶然にゆだねられているのである。
さらに、「社会的労働」についても、ふれておく必要がある。「社会の総労働時間」の一部の浪費は、つぎのことを意味する。つまり、その時間におこなわれた労働は、他の諸個人の生に十全に寄与できなかったのである。
生産物が廃棄処分されたなら、それについやされた労働は、「社会的労働」になりそこねたのである。低価格での売却をよぎなくされた場合には、その商品を生産した労働は、他の労働にくらべて、低い社会的評価しか得られなかったことになる。
さらにいえば、低い評価しか得られなかった労働、もしくは評価の対象とならなった労働は、本来であれば、他の生産部面に配置されるべきだった可能性もあるだろう。
資本制は、こうしてみれば、そもそも、「社会の総労働時間」の浪費を前提としたシステムである。そして、そこでの労働は、つねに、「社会的労働」であることを剝奪される危険にさらされているのである。
- 「未来社会」と「社会の総労働時間」
「社会の総労働時間」が浪費され、労働の社会的性格が十全なかたちで実現されずにおわることが、なぜ問題なのか? それは、マルクスが、資本制のさきをみていたからである。すなわち、「未来社会」(「共産主義社会」)では、こうしたことはおこらない(おきたとしても最小限度ですむ)というのが、マルクスの見通しなのである。
未来社会では、以前の引用をくりかえすなら、「物質代謝」のための「力の消費」が「最小」でなければならない。これによって、「労働時間の短縮」が可能になり、「人間の力の発展」のための時間が、それだけ増大するからである。(第3巻 828ページ)
とりあえず、視界を物質的生産の場面に限定しよう。そこで、諸個人の欲求を最小限の労働で充足するには、なにが必要なのか?
もとめられるのは、「社会の総労働時間」の合理的な配分である。まず、それぞれの欲求にむけた財の生産について、必要な労働時間が決定される必要がある。そのうえで、「社会の総労働時間」が、それぞれの生産現場に過不足ないよう配分されなければならない。これに成功すれば、社会は、「力の最小限の消費」で「物質代謝」をおこなうことができる。
したがって、未来社会では、「社会の総労働時間」は、原則として、むだに支出されてはならない。かりに、むだになったとしても、それは「最小限」でなくてはならないのである。(実際には、むだを「最小限」に抑制するというのが現実的な目標ということになるだろう。)
そして、「社会の総労働時間」の合理的配分は、労働のありかたにも影響をあたえずにはおかない。それは、労働がもつ「社会的労働」という性格をより明確にする。すべての労働が、他の諸個人の欲求の充足に十全なかたちで貢献する可能性が、かぎりなくたかめられるからである。
4. ふたたび「社会の総労働時間」の損失について
最後にあらためて、「社会の総労働時間」の損失が、未来社会(共産主義社会)と資本制社会ではどのようにちがうのかをざっとみておこう。
未来社会では、「社会の総労働時間」の損失を最小にすることは、意図された目標である。そのためには、まず、必要とされる財について、需要と供給が均衡した状態が想定されなくてはならない。そのうえで、それぞれの財の供給が過不足ないように、「総労働時間」の配分をおこなうのである。
これによって、しつこいとは思うが、「力の最小限の消費」での物質代謝が可能になる。「真の自由の国」という未来社会を実現するための必須の条件が、こうして、はじめてととのうのである。
これにたいし、資本制では、「総労働時間」の損失が抑制されたとしても、それは、あくまでも結果にすぎない。資本制では、これもくりかえしになるが、社会的分業の編制は自然発生的であり、各資本家(生産者)は、それぞれ独立した存在である。かれらの関心は、みずからの利益であり、それを可能なかぎりおおきくすることである。
むろん、個々の資本家は、みずからの経営では、労働時間の管理に万全を期している。しかし、それは、あくまでも個別資本の利害にもとづく営為である。そうした個別資本のふるまいすべてを集積してみても、「社会の総労働時間」の合理的な配分がでてくるわけではない。
「社会の総労働時間」という考えかたが、資本家の脳裏にうかぶことはありえない。しろうと考えでは、需要と供給が均衡した状態で、安定的に利益をあげるほうが、長期的にみれば資本家にとってもよさそうにおもえる。しかし、そんな考えにとらわれていては、資本家はつとまらない。
よりおおきな利益、よりはやい速度での自己増殖、これこそが資本の人格化としての資本家がめざすべきものである。そのために、あらゆる手段が駆使される。需要が供給をうわまわるなら、それは自分のもうけを増大させる絶好の機会であり、需要にたいする供給の過多は、他の資本をつぶすチャンスである。共存共栄などというのは、相争う資本のまえでは、あまりに現実から遊離したことばである。
経営は、現在では、資本から分離されるのが一般的である。経営者がスポットライトをあびるのも目にするが、その理由として、“攻めの姿勢”があげられたりする。“攻めの姿勢”は、いうまでもなく、安定的な利益や共存共栄とは正反対である。(“攻めの姿勢”の内容が、極端な経費削減や強引なリストラでしかないこともすくなくないが。)
あたりまえのことを確認するのにスペースをついやしすぎた感がしなくもない。このあたりで回をあらためることにしよう。