韓国通信 No774
毎日新聞
前回号(2025年7月16日)で新谷のり子のコンサートの新聞記事を紹介した。写真入りで「平和を歌う」歌手の思いが伝わる素晴らしい記事だった。実はコンサートを多くの人に知ってもらいたい一心で地元の下野新聞のほか朝日、東京、NHKに取材の要請をした。結果、取材は毎日新聞のみだったが、今回の取材から毎日新聞との因縁めいた昔話を思い出した。
<毎日新聞の危機>
1970年代後半、毎日新聞は倒産しそうになったことがある。朝日、読売と並ぶ三大新聞のひとつが経営危機に陥ったという衝撃的なニュースに世間は耳目を疑った。
高度経済成長が終わりを告げ、ロッキード事件で田中角栄が逮捕され、多くの企業が「減量経営」を余儀なくされた時期である。記憶ではメインバンクの三菱銀行、三和銀行(当時)が不良債権化した同社の債権回収の動きを見せたため資金繰りが困難に陥った。当時、国鉄・私鉄の争議に加え、民間でも解雇事件が相次ぎ、毎日新聞労組も争議体制に入った。
当時、職場が銀座だったこともあり、早朝、昼休みに地域の争議支援に駆けつけることがしばしばだった。細川活版の解雇、名古屋放送の女子30歳定年闘争、RKB毎日放送の争議、「銀座たち吉」の一人争議に加え、毎日新聞の早朝ビラまきがくわわり何回か応援にでかけた。ビラまきに参加した人たちの共通する思いは世間に誇れる新聞社としての再建だった。社内外の努力が実り、社員の給料は大幅カットされたが新会社として再スタート。個人としても、購読紙を朝日から毎日に変えて新会社を応援した。
2010年に亡くなった国際医療福祉大学学長の私の追悼文を毎日新聞の「人」の欄で取り上げたのはハンセン病の取材に取り組んでいた記者だった。彼とは栃木県の精神障害者の施設で働く私が取材されて以来の付き合いだった。
当時としては珍しく大人たちにビアノを教えていた妻を「女の新聞」で取り上げたのは増田れい子さんという記者だった。
今回のコンサート取材で益子まで駆けつけた記者は初めから終りまで、私の見た限りでは一番熱心な聴衆の一人だった。記者を見ながら半世紀前、銀座四丁目の厳冬のビラ撒きを思い出していた。
<新聞・テレビは初心に帰れ>
新聞の購読者が激減している。2000年の発行部数54百万が2024年には27百万部へ(新聞協会調べ)、一般紙だけでも2千2百部の減少である。新聞を読む人たちが地滑り的に減って情報源をテレビ、SNSに移行したことになる。さらにテレビを見ない若者が増えているのも特徴的だ。最近は電車の中で新聞を読む人はほとんど見かけなくなった。代わりにスマホを見る人ばかり。情報の多様化を否定するつもりないが、画一化され、細切れの情報から生まれる世論に危うさを感じる。ジャーナリズム精神にあふれた記事が新聞から消えて、自業自得と言えなくもない。加えて「AIやデータセンターには原発が必要」(朝日新聞社長)といった驚きの発言まで飛び出した。虚偽報道は新聞の自殺行為に等しい。新聞とテレビは初心に帰って一からやり直す必要があるのかも知れない。
初出:「リベラル21」2025.7.26より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6823.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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