3度目の高揚を実現させることが出来るだろうか
今年は米国によって広島・長崎に原爆が投下され、両市に莫大な損害もたらしてから80年になる。いわば「被爆80年」である。これに対し日本で核兵器禁止を求める国民的な原水爆禁止運動が起きたのは被爆から9年後の1954年だから、原水禁運動は今夏で72年目を迎えることになる。この間、運動は全国的な高揚を見せ、世界的な反響を呼び起こしたものの、2回にわたる分裂によって、運動は1980年代後半からずっと低調を続けている。「被爆80年」という節目の年を迎えて、原水禁運動は果たして3度目の高揚を見せることが出来るかどうか。
原水禁運動をもたらしたビキニ被災事件
原水禁運動が1954年に始まったきっかけは、「ビキニ被災事件」だった。
1954年3月1日、太平洋のマーシャル群島ビキニ環礁で米国による水爆実験が行われた。広島原爆の1000倍の威力をもつ水爆であった。この時、周辺の島々の島民が被ばくしたが、実験地から東北東150キロ、航行禁止区域から35キロの海域で操業中だった静岡県焼津港所属のマグロ漁船・第五福竜丸の組員23人も「死の灰」(放射性降下物)を浴び、帰港後、急性放射能症と診断され、1年余の入院生活を余儀なくされた。
この間、無線長の久保山愛吉さんが死亡し、水爆による世界最初の犠牲者となった
この事件は、国民に衝撃を与えた。同年5月には、東京都杉並区の主婦たちが「水爆禁止署名」を始めた。この署名運動は燎原の火のように全国に波及し、同年8月には「原水爆禁止署名全国協議会」が東京で結成された。翌1955年1月には、署名が2200万筆を超え、同協議会は同年夏に原水爆禁止世界大会を開催することを決めた。
原水爆禁止世界大会は8月6日から3日間、広島市で開かれた。この時、原水爆禁止署名は3200万筆余に達していた。世界大会の参加者は海外代表が3国際組織、14カ国の52人、国内からは46都道府県や全国組織の代表2575人。沢山の人たちが会場に入りきれず、場外でスピーカーに耳をそばだてた。大会参加者は結局、約5000人に上った。大会には鳩山一郎首相が祝辞を寄せた。これらのことからも分かるように、世界大会は国民的な盛り上がりの中で開かれた、と言ってよかった。
大会直後、大会参加団体によって、原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成された。運動を継続するための恒常的な組織だった。これにより、世界大会は原水協の主催で毎年夏に広島か長崎で開かれるようになった。年を経るごとに海外代表も増え、文字通り、世界的な行事となった。このため、被爆の実相が次第に世界に知られるようになったほか、各国に原水禁運動組織が作られていった。
「いかなる国の核実験」問題で運動分裂
ところが、1963年の第9回世界大会で、運動が分裂する。「いかなる国の核実験にも反対する」をめぐって、社会党(社民党の前身)・総評(連合の前身)と共産党が対立したからである。
社会党・総評は「いかなる国の核実験にも反対する」を世界大会の基調にすべしと主張した。「世界で唯一の原水爆被災者としての日本国民の切実な要求であるから」というのが、その理由であった。共産党はそれに反対で、「『いかなる……』には賛成する立場も反対する立場もあるという表現を基調とすべきだ」と主張した。共産党が「いかなる…」に反対したのは、このころ、同党と友好的な関係にあった中国の初の核実験が迫っていたため、共産党としては、中国の手を縛りたくなかったのでは、との見方が強い。
結局、社会党・総評は世界大会をボイコット、原水協からも脱退して、日本原水爆禁止国民会議(原水禁)を結成する。全国地域婦人団体連絡協議会(地婦連)、日本青年団協議会(日青協)などの市民団体の大半も原水協から離れた。その結果、原水協は共産党が主導権をにぎった。
これを機に、毎年夏には、原水協と原水禁が別々に主催する二つの世界大会が開かれるようになった。とくに原水協は二つの世界大会に参加することを認めなかったから、海外代表はどちらかの世界大会を選ばざるをえず、戸惑う海外代表もあった。原水協と原水禁の対立も一層深まった。
奇蹟の77統一
ところが、1977年5月、原水協と原水禁の両トップが電撃的に会談し、合意書(77合意という)を発表した。そこには「今年の大会は統一世界大会として開催する」「年内をめどに、国民的大統一の組織を実現する」とあった。77合意は、全国各層の人々に衝撃を与え、そして歓迎された。「歴史が作られた日」と飛び上がった人もいた。
同年8月には、広島で統一世界大会が開かれた。これには、原水協、原水禁のほか、77合意で運動に復帰した地婦連、日青協、日本生活協同組合連合会(日本生協連)などの市民団体が加わった。1963年の運動分裂以来、14年ぶりの統一行動であった。
これを契機に、その後の原水禁運動は、原水協、原水禁、市民団体という3つのブロックの共同行動という形で進んだ(組織統一は遅々として進まなかった)。
共同行動で目立ったのは、国連が始めた軍縮特別総会への取り組みである。
第1回国連軍縮特別総会が開かれたのは1978年だが、これに先立って原水協、原水禁、市民団体は「国連に核兵器完全禁止を要請する署名運動」を行い、1869万4225筆を集めた。これをもった502人の代表団がニューヨークへ渡り、国連事務次長に署名簿を届けた。
第2回国連軍縮特別総会が開かれたのは1982年だが、この時も、原水協、原水禁、市民団体は「国連に核兵器完全禁止と軍縮を要請する署名運動」を展開、2886万2935筆の署名を集めた。1212人の代表団がこれをもってニューヨークの国連本部を訪ねた。
この時、原水協・原水禁・市民団体以外の広範な団体も同様の署名に取り組み、日本から国連に届けられた署名の総計は8000万筆であった。日本の有権者数を上回る数だった。きっと猫も署名したのではないか、と思ったものだ。電車の中で署名集めをする女性もいた。
日本中が原水爆禁止を願ってわいていた。それは、世界の注目を集めた。
第2の分裂へ
だが、こうした運動統一の流れは、9年しかもたなかった。1986年に運動が分裂したからである。第2の分裂であった。
分裂をもたらしたのは、いわゆる「84年問題」である。
原水協、原水禁、市民団体の共闘が進んでいた最中の1984年、原水協が、原水禁や市民団体との共闘に熱心だった一部役員を解任した。原水協に影響力をもつ共産党が、その役員を「独断専行があり、そのうえ、原水禁・総評に屈服、追従した」と非難したためだった。そればかりでない。原水協は、これら役員が世界大会に参加することにも反対。これに対し、原水禁と市民団体が反発し、ついに1986年の世界大会を統一して開くことができず、運動は再び分裂してしまった。
その背景には、社会党が、それまでの「社共共闘」から「社公共闘」に軸を移したことや、労働戦線の再編で、総評主流派が、共産党と友好関係にある反主流派の統一労組懇と対立を深めつつあったことがあった。
ともあれ、それから39年。原水禁運動は依然分裂したままだ。運動は営々と続けられているが、今や、かつて運動が持っていた熱気、吸引力、影響力は感じられない。多くの人たちが運動から去って行ったことも影響しているが、その背景には、「2度も分裂した運動は国民の期待を裏切るもので、もう興味がない」という市民の思いがあるのではないか、と思う。大手の新聞・テレビも今や、夏の世界大会を報じない。
やっと希望の灯がともる
今夏の原水禁運動はどうなるのかな、と思いを巡らせていたら、驚くべきニュースが飛び込んできた。原水協、原水禁、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の3団体が共同声明を発したというのだ。7月23日のことである。
声明は「核使用の危機が高まる今日、日本の運動の役割はますます大きくなっています」と述べ、「その責任を果たすためにも、思想、信条、あらゆる立場の違いをこえて、被爆の実相を受け継ぎ、核兵器の非人道性を、日本と世界で訴えていくことが、なによりも重要です」と訴えていた。昨年、ノーベル平和賞を受賞した被団協が原水協、原水禁に呼びかけて実現したという。
原水協と原水禁の共同行動は39年ぶりである。果たして、今後、本格的な共同行動に発展するのかどうか、注視したい
初出:「リベラル21」2025.08.04より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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