莫言(中国、1955~)の最新短編集『遅咲きの男』(中央公論新社:刊、吉田富夫仏教大名誉教授:訳)は半分私小説の、いささか泥臭い味わいの作品集だ
莫言は2012年、ノーベル文学賞を受けた。授賞理由は「幻覚的なリアリズムによって民話、歴史、現代を融合させた」。著書『遅咲きの男』の第五章「モーゼを待ちつつ」の一部を私なりに紹介しよう。
柳ペトロはわが東北郷で経歴の一番古いキリスト教徒で、その孫の柳衛東は私(著者:莫言を指す)の小学校の同級生だった。同級生どころか、机も同じで、何度か喧嘩もしたが、大まかなところ、まあ仲良しだった。
柳衛東の元々の名は柳モーゼで、<文革>初期(恐らく1966年夏頃。若者たちは革命的名前に、なかんずく毛沢東を敬愛する名に変名した。衛東=毛沢東を衛る)に今の名に変えたのだ。その時分、己が変名したに止まらず、祖父さまにまで柳愛東(毛沢東を愛する)と改名するよう提案したものだ。彼の提案の代価は、祖父さまのビンタ二発だった。
学校の紅衛兵の幹部たちも反対した。なぜなら、祖父さまは吊し上げの対象だったから。ニセ衛東の柳ペトロを吊し上げるとなればそれいけとなるが、柳愛東なる名前の人間を吊し上げるのでは気分的にノリが悪いというわけだった。
柳ペトロを吊し上げる際には、柳衛東はひときわ力瘤が入り、真っ先にスローガンを叫んだ――<毛唐の手先柳ペトロを打倒しよう! 帝国主義の犬柳ペトロを打倒しよう!>
おまけに土で築いた台に飛び乗るや、柳ペトロにびんたを食らわせ、髪の毛を引っ張り、顔に唾を吐きかけた。柳衛東にびんたを食らわせられた時、柳ペトロは神の教えに従って危うく紅衛兵に殴り殺されかけ、柳衛東も信頼を獲得して、大義親を滅する英雄となった。
一九七五年、私は軍隊に入って故郷を離れたが、出発前に柳衛東に会いに行った。当時の農村青年にとって、軍隊に入ることは光明への出路だったから、彼はとても羨ましがった。彼も応募したのだったが、最終的には祖父さま=柳ペトロのキリスト教徒の身分が足かせとなったのだった。あの時、彼が憤慨して言ったのを覚えている。
――わしの一生は柳ペトロちゅうクソ野郎の手で滅茶滅茶にされたんじゃ!
私は<農村は広々とした天地で、そこでは大いに発展の余地がある>(農山村への下放を勧める毛沢東の言葉として当時盛んに喧伝された)などという嘘っぽい言葉で彼を慰めた。彼は苦笑いして言った。「その通りじゃ、たっぷり広々してらァ。村を出たら、真っ白なアルカリ土壌の土地で、果ても見えやせんわい」
軍へ入ってまもなく、柳衛東から手紙が来て、馬徳宝の娘の馬秀美と結婚するので、結婚式で被って恰好よくしたいから、軍帽を一つ送って欲しいとあった。新兵の帽子は一つきりなので、どうしても無理だと、私は返事した。その返信はなく、それ以後は連絡が途絶えた。
彼が馬秀美と結婚すると知らされて、私は意外だった。というのも、馬秀美は柳衛東より五つも年上で、馬秀美の祖父さまの妹は柳衛東の父親の祖父さまの弟の妻で、一族の序列から言えば柳衛東は彼女を叔母さんと呼ぶべき間柄だった。だから、その恋愛には幾分かは倫理を乱すような要素があったのだ。馬秀美が東北の林業労働者と婚約しているということも耳にしていた。その彼女がなんと婚約を解消して柳衛東に嫁ぐという。その背後の物語が私の空想を様々に刺激した。
入隊二年目に、私は出張で寄り道して帰郷するチャンスに恵まれた。わざわざ訊くまでもなく、柳衛東と馬秀美の恋愛物語は山ほど飛び込んできた。みんなは言った――柳衛東は男前もぱっとせず、家柄もどうということもないくせして、女を引っ掛ける腕はなかなかのものじゃ、と。よくよく訊いてみると、さしたる華々しさもありはしなかった。
が、事実として、例の林業労働者と結婚するため東北行きの汽車の切符まで買っていた馬秀美が突然気持ちを変え、縁談を取り持った大口の干が脅したりすかしたりしようが、両親が死ぬの生きるのと騒ごうが、いっかな翻意しなかったのである。食べ頃の鴨に飛んで行かれたとあって、頭にきたのは林業労働者の方で、詳細な明細付きで馬家に賠償を請求して来たが、何年何月に馬秀美にアイスキャンディーを買ってやったカネまで計上してあった。この賠償で、馬家はほとんどすっからかんになってしまった。
馬秀美の三人の兄は、ろくでなしで知られた奴どもだった。長男は嫁をもらって、まあまあ収まっていた。が、次男と三男はどっちも独り者で、元々がそこいら中で喧嘩を売って歩くような連中だった。これこそ正々堂々と人をぶん殴るチャンス到来とばかりに、村の古い墓場に柳衛東を連れ出し、妹との関係を切れと迫って、殴る蹴るした。柳衛東は男一匹がんばり抜いて、殺されかけてもうんと言わなかった。
なんでも馬家の兄弟が柳衛東をぶん殴る場面を、村の若い者らは取り巻いて見物していたらしい。初めのうち、みんなは柳衛東は殴られて当然と思い、かなりの者がお土砂をかけて煽り立て、馬家の兄弟は大きな面をして、民の害をやっつける正義の化身となっていたらしい。ところが、殴られた柳衛東が血だらけになって地べたに倒れると、みんなが同情心をかき立てられた。
馬兄弟のやり方が残酷過ぎると言う者もおり、柳衛東が恋愛したのは法に違反した訳ではなく、殺したら命で償わねばならん、と言う者もいた。とりわけ、大声で泣きながら駆け付けた馬秀美が虫の息の柳衛東を胸に抱きしめた時には、涙もろい者の多くは、なんと同情ないし感動の涙を流した。
初出:「リベラル21」2025.08.21より許可を得て転載
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