莫言(中国、1955~)の最新短編集『遅咲きの男』(中央公論新社:刊、吉田富夫佛教大名誉教授:訳)第五章「モーゼを待ちつつ」の続き
私(著者:莫言を指す)は柳衛東の家に会いに行くつもりをしていたのだが、父親に止められた。結婚してから両親に追い出された柳衛東は、村外れに小屋掛けして夫婦で暮らしていて、酷い暮らしぶりだという。軍に戻る日、村の後ろの道路端<中国の村は一つの区画に固まってある>でバスを待っていて、私は夫婦と出くわした。
二年会わないうちに、柳衛東の頭はなんと白髪だらけだった。左足を引きずって猫背になり、口は門歯が二本欠けていた。ボタンが全部飛んだボロ上着を着て、腰は赤いビニール電線で縛っていた。馬秀美は元は村一番の器量良しの娘だったのに、もはや見られたものではなかった。既に孕んでいて、じきに産まれそうだった。油のシミだらけの男物のジャンパーを着て腹を突き出し、顔は灰の擦れた筋や雀斑だらけで、目の隅には目ヤニを溜めていた。悲し気な目つきで、髪の毛を振り乱し、躰からは腐った野菜の葉っぱの臭いがした。どうやら、あの恋愛で、二人とも重い代価を払ったらしかった。
二度目に里帰りしたのは、もはや八〇年代の初めだった。改革開放になって、農村には天地も覆さんばかりの変化が生じて、農民の暮らしもすっかり改善されていた。その時分、柳衛東はもはやわが東北郷で一番の金持ちになり、なんでも県の指導者としょっちゅう酒を酌み交わす顔役の一人だった。
王超は村で店を開いている消息通で、私が耳にした柳衛東夫婦に関する伝聞のほとんどは彼の口から出たものだ。
その店に醤油を買いに行った私に、彼はこう教えてくれた。
「柳総<総は総経理の略。改革開放でやたらと会社が出来て、社長=総経理が生まれた>は昨日深圳<香港に近く、当時は改革開放の最前線>へ行きましてね――私には、王が柳衛東のことを柳総と呼ぶのに明らかな皮肉のニュアンスがあるのが感じられた――当てて御覧なさい、どうやって深圳に行ったか?飛行機ですぜ!?――八〇年代初期、農民が飛行機に乗るのはなお珍しいことに属した――ところが、柳総が飛行機に乗るのは初めてではないんでしてな。なんでも数日後には、柳総は日本にも行くってことですぜ!それも飛行機でね」
タバコを買いに行った時は、彼はこう教えてくれた。
「あんたは下っ端とはいえ一応将校じゃが、あんたの吸うこんげな安タバコ、柳総なら見向きもしませんぜ!柳総が吸うのはイギリスの555かアメリカのマルボロでね。吸うその格好がまた映画スター顔負けでしてな」――と。王超は右手の人指し指と中指でチョークを挟んで、柳総がタバコを吸う姿勢をして見せた。
酒を買いに行った時は、こっちから切り出した――「柳総はこんな安酒は飲まんに違いないが、何を飲むのかね?」
一瞬、ぽかんとなった王超が、ゲラゲラ笑い出した。次いで、秘密めかして言った――「なんでも、柳総は女房と離婚するちゅう噂ですぜ!」
わたしは言った――「そりゃないぞ。あれらは本物の自由恋愛の、本物の苦難を共にした夫婦だぞ!」
王超は言った――「時勢が違いまさぁ。いまや柳総は身分が違って、馬秀美を連れて外に出る訳にゃいきませんやな!」
郷<郷は鎮と並ぶ最末端の行政単位>役場の東の通りにある散髪屋に散髪に行って、柳衛東にばったり出会った。入って行くと、散髪屋の娘がちょうど奴にドライヤーをかけてやっているところだった。椅子は一つしかないので、娘は壁際の腰掛けに掛けて待つようにと言った。鏡の中の柳衛東の艶やかな顔が見えた。髪の毛は黒々と繁っていた。私が入って行った時は多分寝ていたのだろうが、私が腰掛けると、目を覚ました。
「柳総!」と、私は声をかけた。彼はさっと立ち上がったが、次いで座って、大声で言った。「お前か!」
「柳総!」「ぺっ!」と、ヤツが言った。
「皮肉か!お前という奴は、情が無さ過ぎはせんか!?戻ってから、会いにも来んじゃないか」
「お前は超ご多忙で、今日は深圳、明日は海南<海南島はこの頃、開発中>じゃ」と、私は言った。「どこへ訪ねていけ、と言うんじゃ」
「言い訳はよせ」と、奴は言った。
「一万元ほどもワシに貸しがあったら、鼠の穴に隠れておっても、見つけ出すくせして。何しに戻ったか、言え。おお、そうか。お前の女房がガキを産んだんじゃった。お産の後の手伝いに戻ったんじゃな?」「そうじゃ」と、私が言った。
奴が言った。「お前は軍人で、今は小隊長じゃが、二年もすりゃ中隊長で、更に数年で大隊長、連隊長、師団長と、次々と昇級して、生涯栄耀栄華じゃ。わしなんぞ、クソじゃ。物資を動かしての小銭稼ぎじゃ。今でこそ、企業家なんぞと持ち上げてくれるが、数日すれば、掌返して闇ブローカー呼ばわりじゃよ」
「二度とああした騒ぎ<文革を指す>にはなるまいから」と、私は言った。
二日後、私は柳衛東の新居に招かれ、十四インチのカラーテレビやフォー・スピーカーのステレオ・テープレコーダーを鑑賞した。
家に戻って、私は女房に言った。「柳衛東と馬秀美が離婚するなんぞと王超はぬかしたが、でたらめじゃぞ。あの夫婦、なかなか仲がいいじゃないか」。女房は言った。「じゃが、あの人、恩州にもう一つ家を持ってて、その女の人は馬秀美より、ずっと若いんじゃと。男はお金を持つと、必ず悪いことするでねえ」
初出:「リベラル21」2025.08.22より許可を得て転載
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