解放軍の創設記念日、今年は大いに祝う
東チモール民族解放軍(FALINTIL=Forças Armadas para a Libertação Nacional de Timor-Leste、ファリンテル、以下、解放軍)が創設されたのは1975年8月20日、今年は創設50周年を迎えます。去年2024年は、住民投票が行われた「8月30日」(1999年)が節目の25周年を迎え、ローマ教皇フランシスコ訪問を9月に控えるという状況にあり、49周年という中途半端な数字であるせいか(たんなる十進法の数え方の問題だが)、ちょっと地味な取り扱いがされた解放軍の創設記念日でしたが、今年は「50周年」という節目にあたることで、政府は去年の分を取り返すように大々的に祝っています。
政府は8月20日だけを祝日とするのではなく、8月18日にはラウレン・バウカウ・ビケケ・マナトゥト・マヌファヒ・リキサの地方自治体を、19日もその他の地方自治体を祝日として、全国各地で分散型の祝賀行事を行っています。
また、創設50周年の記念行事として、国防軍(F-FDTL=FALINTIL- Forças de Defesa de Timor-Leste、東チモール防衛軍)の兵士と民間人が、8月20日の首都到着を目指して、インドネシアとの国境沿いの町・バリボから8月10日に行進をはじめたり、シャナナ=グズマン首相が解放軍の故・デビッド=アレックス=ダイトゥーラ司令官の隠れ場所だった土地を訪れたり、ジョゼ=ラモス=オルタ大統領は1970年代の英雄・ニコラウ=ロバトが1978年12月31日に戦死した場所を訪れ、英雄記念公園の建設の起工式に参加したりするなど、「8月20日」の前から様々な記念行事が各地でおこなわれ、解放軍創設50周年が盛り上げられています。
違和感を覚える看板
解放軍の創設50周年を記念するのはもちろんたいへん結構なことですが、ちょっと気になることがあります。解放軍創設50周年を記念する看板に解放軍の歴史的な人物たちの複数の肖像が載っているのですが、タウル=マタン=ルアクと故・ニノ=コニス=サンタナの顔がないことです。この二人はデビッド=アレックスとともに、当時の解放軍総指令官であったシャナナ=グズマンがジャカルタの刑務所につながれた1990年代に闘争の現場を指揮した重要人物だったのに、デビッド=アレックスを載せて、なぜタウル=マタン=ルアクとニノ=コニス=サンタナの二人が載せられていないのか、釈然としません。
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東チモール民族解放軍創設50周年を祝う看板。
「1975~2025年FALINTIL50周年」。
「世界に平和を広める」。
この看板の発行元は防衛省。丸く囲まれた人物は、左端がドナシアーノ=ゴメス防衛大臣、あとの三人は現役の国防軍の幹部である。さて大きな顔写真であるが、中心先頭にいるのがシャビエルド=アマラル(1975年独立宣言をした当時のフレテリン議長、その左側の二番目がニコラウ=ロバト、左三番目にシャナナ=グズマンがいる。中心先頭から右三番目がデビッドア=レックスである。タウル=マタン=ルアクとコニス=サンタナの二人がいない。
ベコラの警察署前の大看板、2025年8月16日。
ⒸAoyama Morito.
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1975年、避難民としての苦難が始まる
いまから半世紀前の1975年、当時のフレテリン(FRETILIN=Frente Revolucionária de Timor-Leste Independente、東チモール独立革命戦線)の軍事部門として東チモール民族解放軍が創設されたのは、フレテリンと同盟を組んで独立を目指していたにもかかわらず、同年の8月11日、武装反乱を起こしたUDT(チモール民主同盟、União Democrática Timorense)を鎮圧するためでした。
50年前の8月、フレテリンとUDTの軍事衝突でポルトガル植民地支配下の東チモールは内戦に陥ったのですが、この戦火から逃れるために大勢の東チモール人が、船でオーストラリオのダーウィンへ、あるいは陸路でインドネシアの西チモールへ避難しました。当時の新聞はこう報じています。
「首都で市街戦 豪に到着の難民語る【シドニー二十五日=小林特派員】内戦状態になったポルトガル領チモールからの避難民千百七十人が二十五日、ノルウェーのコンテナ船ロイドバックでオーストラリアのダーウィン港に到着したが、このなかには六百人の混血のチモール人、日本人一人、ポルトガル人二百四十七人、中国人九十人が含まれている。また九人の負傷者がいるが、いずれも乗船前、飛んできた砲弾の破片でけがをしたものである/同船のホイベルグ船長が難民から聞いた話として語ったところによると、首都ジリでは、市街戦が起きており、道路には死体が転がり、その何人かは難民の親類だったが、銃撃を恐れて死体を埋めることもできなかった」(『朝日新聞』、1975年8月26日)。
このノルウェーのコンテナ船ロイドバック(Lyyod Bakke)で難を逃れた日本人はこう語っています。なお、「ジリ」とはもちろん首都Dili(ディリ、デリ)のことです。
「ジリ市内ではポルトガル政府は全く行政を行っておらず、外国人に対しては逃げるなら勝手に逃げてください、という調子だった。といってFRETILINが行政を行っているわけでもなく、完全な無政府状態にある」(『朝日新聞』、1975年8月27日)。
また、東チモールで無料配布される広告新聞『ガイドポスト』(2025年7月、第224号)にこのような記事が載りました。
「家族とともに内戦を逃れ、1975年8月25日、オーストラリアに着いたとき、ジョゼ=カシミロは8歳であった。『わたしたちは一週間近くデリ埠頭に居て、乗せてくれる船を待ちました。ノルウェーの貨物船がSOSに応じ、わたしたちを乗せてくれました』とかれ(ジョゼ=カシミロ)はいった。かれの家族は安全なダーウィンに着くまで三日間の旅に耐えた」。
船が三日間かけてダーウィンに到着したということは、デリ埠頭を出たのが8月22日ということになり、このときに首都では市街戦が起こり、死体が転がっているという悲惨な状態となっていたことになります。つまりこれが立ち上がったばかりの東チモール民族解放軍がやったこと、あるいはやられたことなのです。しかも戦った相手は(たとえ背後にインドネシアがいたとしても)同じ東チモール人なのですから、東チモールの民族解放闘争がややっこしくなったわけです。その後1988年、解放軍はフレテリンという一政党から切り離されて民衆全体の軍事組織となりました。これはシャナナ=グズマンによる民族解放闘争の指導者としての大きな実績です。以来、解放軍のゲリラ兵士は人民という海を泳ぐ魚となり、解放闘争を率いていくことになります。
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解放軍の知将・デビッド=アレックス=ダイトゥーラ司令官の隠れ家。
ゲリラは要所にこのような隠れ場所を確保しながら、民衆とともに侵略軍と闘った。
バウバウ地方のバウカウビラにて、2025年6月22日。
ⒸAoyama Morito.
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さて、ノルウェーの貨物船に話を戻しますが、この船に乗った当時14歳のセウ=ブリテスさんは、1994年来日したさいに語ってくれたことによれば、同船は2000人は運んだといいます。セウさんたちは四日間ダーウィンに滞在したあと軍用機でシドニーに移されたのは、ダーウィンは1974年12月、サイクロン「トレーシー」に襲われ壊滅的な被害を受けたので、難民を受け入れる状態ではなかったからかもしれません(拙著『東チモール 抵抗するは勝利なり』、社会評論社、1999年、42~43頁)。1~2ヶ月もすれば内戦も収まり東チモールに帰れるものとセウさんは楽観していましたが、その後インドネシアによる東チモールの全面侵略、そして軍事占領が20年以上も続いたのは周知のとおりです。またセウさんたちはオーストラリア南部の寒い気候に精神的にショックをうけて、ダーウィンに移してほしいとオーストラリア当局に懇願したとセウさんは1994年わたしに話してくれました。なおセウ=ブリテスさんは現在、第九次立憲政府の社会連帯包括省の副大臣を務めています。
50年前の8月20日、解放軍が創設されたのはインドネシアが全面侵略する約三ヶ月と二週間前のこと、まず初めに戦火を交えたのは同胞であり、それが難民・流民としての東チモール人の苦難の始まりになったのです。解放軍の創設50周年を祝うとき、わたしたちは避難民としての東チモール人の苦難にも思いを馳せなければなりません。
青山森人の東チモールだより easttimordayori.seesaa.net
第542号(2025年8月20日)より
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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