莫言(中国)の人となり――莫言文学の素地、故郷・高密東北部を愛憎半ばで語る
莫言の本名は管謨業、1955年に山東省高密県大欄郷平安荘に生まれた。四人きょうだい(長男・長女・次男・三男)の末っ子。両親の間には八人の子供がいたが、四人は早い時期に亡くなっている。曾祖父は漢方医で、祖父は農民。父親は互助組や合作社、生産大隊などで会計の仕事をしていた。
莫言は小学校五年、十一歳の時に中途で退学し、一時期放牧などの農作業に従事する。ちょうど中国では文化大革命が起こり、出身階級が問題にされ、地主や富農などの子供は学校で勉強することが許されなくなった。莫言の家は中農に分類され、富農の扱いを受け、中学校への進学は許されなかった。
学校での勉強が閉ざされ、少年・莫言は人民公社の小さな社員として草地で牛や羊を放牧。行き交う雲を眺め、鳥の声に耳を傾け、家の周りの樹々に語りかけ、祖父の語る不思議な物語を耳にして育つ。これが後年の莫言文学の素地をつくる。十二歳年上の長兄は文化大革命勃発前だったので大学進学が可能だった。この兄の使用していた中学校・高校の国語教科書や村人の家にあった古典小説などを借りて読みあさり、文学の素養を高めていった。作家になるのを夢見たのは、村に来ていた右派分子の青年から、「作家になれば、日に三度、餃子が食べられる」と聞いたからだった、と後に語っている。飢餓と貧困と孤独が作家への夢を育んでいった。
十七歳の時、親戚の叔父の紹介で綿加工工場の臨時雇いの職に就く。綿の目方を量る帳簿係や工場の広報宣伝担当に、工員への教育係など。この時の給料は二十元で、うち五元は人民公社所属の生産隊に渡さなければならなかった。
二十一歳の時に解放軍に入隊する。当時は村を離れて都会に出るには大学進学か、工場の労働者になるか、解放軍に入隊するしか道はなかった。大学進学の道は閉ざされていたので、四年越しの解放軍入隊の夢がかなった。入隊を前にトラックに乗って故郷を離れる時、一滴の涙も見せず、故郷の方を振り返らず、もう二度と故郷には帰らないつもりで入隊したと語っている。
以後、軍歴二十二年。最初は渤海湾に面した黄県の唐家泊村にあった後方勤務の部隊に入隊する。部隊は民家に隣接する処にあり、仕事の内容は歩哨や農作業など。高い志をもって入隊したのに、かなり失望感を抱いたようだ。その後、河北省保定に移動となり、部隊で政治の授業を担当する教官を務める。ここで仕事の合間に小説を書き始める。
何回も何回も投稿してようやく雑誌に作品が掲載された。保定文連発行の雑誌『蓮池』に掲載されたのが入隊した夫を想う妻の切ない気持ちを描いた『春の夜の雨』という短編。その後、1984年に発表した『透明な紅いダイコン』が高く評価される。高密東北郷を最初に使ったのは『白い犬とブランコ』(1984年)。この作品に犬を登場させたのは川端康成の『雪国』に影響されているという。『紅高粱』(1986年、邦訳は『赤い高粱』)で高密東北部を「地球上で最も美しくて醜く、最も超俗的で俗っぽく、最も清らかで汚らわしく・・・・・」と故郷を愛憎半ばで語っている。その後、解放軍芸術学院に学び、北京師範大学大学院で修士の学位を取得する。現在は中国作家協会副主席に就いたり、国内外で数々の賞を受賞している。
長編には高密東北部を舞台にして祖父祖母、父母の生きた時代を描いた『赤い高粱』のほかに邦訳されている作品には『酒国』(1996年)、『豊乳肥臀』(1995年)、『檀香刑』(2001年)、『四十一抱『』(2003年)、『生死疲労』(2006年)、『蛙』(2009年)がある。アメリカの作家フォークナーやコロンビアの作家ガルシア・マルケスの影響を受けているという。映画化されている作品に『紅いコーリャン』『暖』『幸福な時』などがあり、ドラマの脚本や話劇の脚本も手掛けている。
莫言がノーベル文学賞を受賞する前は、山東省高密は全国的な知名度はそれほど高くなかった。最近にわかに脚光を浴び始めたのが「高密三宝」「高密三賢」という言い方である。「三宝」とは「切り絵」、「泥人形」、「年画」の三つ。「泥人形」は『蛙』に登場する。素朴なものでは押すと音を出す「トラ」の人形がある。年画は「撲灰年画」といって木版画によるものではない独特の年画で、莫言の作品『掛像』にも登場する。
莫言が生れる前後から、幼少年、青少年時代の社会的な背景を大まかに言えば、次のような政治の嵐が吹きまくった時代だった。1956年の「百家斉放」、1957年の「反右派闘争」、1958年の「人民公社」の成立、「大躍進政策」「土法高炉」による鉄鋼の増産政策、1959年からの三年の自然災害、1963年の四清運動があり、1966年には文化大革命が勃発している。大学入試が復活するのが1977年末である。
莫言は農村生まれ・農村育ちなので、当然ながら「下放」体験は持ち合わせていない。講演や対談、散文の中の記述から幼少期のエピソードを幾つか拾って記してみよう。
▽私が誕生した時、祖母は通りの土をすくってきて、赤子の私をその上に置いた。将に「万物は土から生ずる」ということだ。
▽人民公社の生産隊の畑のダイコンを盗んで食べ、毛沢東の像の前で謝罪させられた。これが『透明な紅いダイコン』の素になっている。
▽小学校の時、同級生の勧めで、石炭を食べた。自然災害の起こった時期で、学校の先生も石炭をガリガリかじった。
▽虫や野草や樹皮を食べて飢えをしのいだ。コオロギやバッタ、コガネムシの幼虫、木ではニレ、柳、ハリエンジュの樹皮を煮て食べた。サツマイモの蔓で作った粥や、茅の根で作ったお焼きなどを食べた。
▽小学校の時、紅衛兵の真似事をした。お金を出して腕章を買って腕に付け、鼻高々だった。
▽都市から農村へ来ていた青年に影響を受けた。特に「右派分子」と言われた人に優れた人がいた。
▽祖父は、人民公社は「兎の尻尾」と言っていた。その心は「長くなりっこない。長続きはしない。いずれは無くなる」。祖父の言葉通りになった。
初出:「リベラル21」2025.08.26より許可を得て転載
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