<はじめに>
また同じ原爆の写真を、と言われそうであるが、かつて区内のあるまちで反核平和展を催したとき、強く強く印象に残った被爆直後の写真にこの夏ふたたび出会ったので、紹介したい衝動に駆られた。1980年ころ、8月初旬に地域で反核の機運を高めようと、ご婦人方や青年を中心に平和展を催し、被爆の惨状を写した写真を展示し、町内に住む私の知人であるOさんに被爆体験を語っていただいた。彼女はお嬢さんが広島病院に入院していたので、見舞いのため病院を訪れた。たまたま用を足すためにトイレに入っていた時に、原爆に見舞われたそうである。運がいいといえば運がよかったのであるが、それでも全身にガラスの破片を浴びた。その後数十年たってから、ある日腕の皮膚から溶けたガラスの破片が出てきたので驚いたそうである。
で、以下の写真は、Oさんから提供いただいて初めて見たのだが、ショックであった。それは平穏な広島市民の日常生活が一瞬のうちに地獄へと変ずるその様がよくわかる写真だったからである。
私は平和展が終わって、協力していただいた地域の青年たちに、こう言ったことを覚えている。「青少年館のこの前の大通りをいつかはみなで反核平和デモができるようになれば、いいと考えています」と。それから20年ほどたって、私がミャンマーから一時帰国した際、たまたま夕方のローカル・ニュースを見ていると、あの見慣れた青少年館前の大通りをご婦人方が、なかには乳母車を引きつつ、かなりの人数が平和デモをしている様子が紹介されていた。嘘だろう、そんな、すごいな、だれが組織したのか、感動で胸がいっぱいになったのを覚えている。そしていま、「許すまじ原爆を」と、怠惰な我に鞭打つようにつぶやいてみた。
出典(youtube):Hiroshima: The Day the Sky Fell | Multilingual documentary
https://www.youtube.com/watch?v=fjed1u7A9Wm

被爆前の一見平和な街並み。しかし広島は西日本最大の日本軍の拠点地域であるだけに、大戦下にあっては偽りの平和に近かった。

被爆後、Miyuki橋に避難してきた人々。多くの人が欄干に寄りかかっている。このなかに写っている幾人かは生き延びて、特定された。一番右端の女学生が、Kouchi Mitsukoさん。

軍帽をかぶった背中の男の人は、食用油をやけどに塗ってみなに応急手当をしているのだという。髪の毛がぼうぼうと逆立っているのは、熱線に一瞬で焼かれてチリチリになっているためだそうである。

カラー復元された同一の写真。背中の坊主頭の少年も特定されている。

撮影者の松重氏は、撮影した写真のネガを厳重に秘匿していた。

上の二枚は同じ写真。一番左の女性は、黒焦げになった赤ん坊を抱いて、生き返らそうと半狂乱で大声で名前を呼んでいたという。詩や証言を通じて似たような事実は知っていたが、目の当たりにするのは初めてだった。

地獄を生き延びたKouchiさんの被爆前の写真。

Mitsuko Kouchiさんの後ろ姿、左腕の上腕部から出血している。ハンカチを肩にあてているので自分とすぐわかったという。

みな重度の全身やけどを負っていた。

当時の状況を語るKouchiさん。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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