「女性解放」を目指す、いわゆる学問あるいは理論として広まって行った「フェミニズム」とは位相を異にして、田中美津が、「ウーマン・リブ」あるいはより過激に「とり乱しウーマン・リブ」として、最初の書籍を世に放ったのは、1972年4月のことだった。(『いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論―』田畑書店)
今回、書評対象として取り上げる本書も、元々は1983年に出版されていることはすでに述べた。前書からほぼ10年の時間が流れている。その意味では、「情念」が迸(ほとばし)っているような最初の書物からすれば、かなり読みやすくなっているのは事実である。
しかし、それでも、私には難解な「1節」がある。―永田洋子はあたしだ-である。田中美津が亡くなって早くも1周忌が過ぎた(2024年8月7日)。生前中に、やはり会うべきだった、会って、直接、質問すべきであった、と今にして残念がっている私である。(生年=永田洋子:1945.2.8、森恒夫:1944.12.6、田中美津:1943.5.24、池田祥子:1943.3.21)
田中美津と永田洋子との1日の会合
永田洋子の『十六の墓標(上)』(彩流社、1982年)によると、田中美津が、永田・坂口弘らの「革命左派」の丹沢ベースを訪ね、そこで1泊したことが記されている。
それは、三里塚闘争に参加していたリブ関係者の逮捕を心配していた田中美津に、偶々関係者らの会合の席で、永田洋子が「非合法の活動も考えて見たら・・・?」と、丹沢ベースの見学を誘ったことから実現したそうだ。
しかし、赤軍派に「婦人解放の視点」が足りないことを(感覚的に)承知していた永田洋子は、道中繰り返していた田中美津の赤軍派(極左路線)批判には、「婦人解放の視点」を補充すればいい・・・と内心で思っていたという。したがって、坂口弘、寺岡恒一、瀬木政児(その後脱走・逮捕)らを交えての談論も、結局は「雑談の域を出なかった」と書かれている(p.49)
歴史に「もし if」はないけれど、この、田中美津と永田洋子との出会いの1日、両者の間で、より踏み込んだ、「革命とは?」「婦人解放・ウーマン・リブとは?」の議論がなされていたら、そして、永田洋子が、いま少し田中美津の言説を理解していたら、その後の連合赤軍内部での「総括」という名での「リンチ・殺人」は、スルーできていたかもしれない・・・とつい夢想してしまう「歴史の一齣」である。
「永田洋子はあたしだ」への疑問(1)
田中美津は、何ゆえに「永田洋子と田中美津」を「同じだ!」と捉えるのだろうか。
本書では、次のように書き出されている。
― 周知のように永田洋子はバセドウ氏病を患っていた。そして田中美津という名の永田洋子のその血液は微弱な陽性反応を示す。・・・幼時いたずらされたことが原因なのか、それ以外のことが災いしたのかは本人でさえもわからぬことながら、しかし、とにかく長い間放置した果ての治療であれば、やけどの跡に残るひきつれと同じく、微弱な陽性反応を残すという。(p.52)
「病を抱えている者同士」として括られる田中美津と永田洋子。しかし、その病の内実は、片や性病(梅毒)、片やバセドウ氏病。この二つは、当人にとってはいずれも禍々(まがまが)しい病であるだろうが、それぞれの病の持つ意味は明らかに異なるだろう。
女性の性病(梅毒)とは、親からの胎内感染を除けば、常に男性からの感染である。田中美津の場合は、8歳の時の店の若い衆からのいたずら(性行為)のせいだと推測されている。
敗戦直後から、1950年代前半は、家族内での父親―娘、兄―妹、叔父―姪などでの性行為・性的なイタズラも珍しくはなく、私の育った小倉(北九州)では、娘が産んでしまった子どもを、あえてその娘の「妹」として、娘の親が育てているケースも身近に目にしていた。それ程に、男たちの性モラルは皆無に近く、性衝動は野放図だった。
一方の、バセドウ氏病は、とりわけ20~30代の女性に多い甲状腺ホルモンの過剰分泌によるもの。原因は未だよくは分かっていないようだ。症状としては、動悸・息切れ・手足の震え、などが見られ、時に眼球突出の症状も多い。
この病は、「見た目差別」のなくならない社会では、やはり女にとって酷であろう。かつてのハンセン氏病を思い出させる。獄中で、バセドウ氏病を悪化させた永田洋子の写真を私は見たことがあるが、それはあまりに痛々しくて、見ていられない程辛かった。
田中美津は、この「性病(梅毒)」と「バセドウ氏病」をそれぞれに抱えている者同士として、「永田洋子はあたしです!」の一つの根拠として持ち出している。しかし、「美形(あるいは普通?)」ではない女に対する男(世間)の蔑視や悪態は、やはり見逃すべきではないだろうと思う。
1982年6月18日、坂口弘、永田洋子、植垣康弘ら、いわゆる「統一組」への判決が下された。坂口・永田は「死刑」。その時の中野武男裁判長の判決文には、永田洋子に関わる箇所で、とりわけ次のように記されている。
「被告人永田は、自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた」。(太字は池田)
見られる通り、ここには、「連合赤軍」の革命理論の空疎な抽象性、およびリーダーだった森恒夫の観念性などの基本的問題ではなく、永田洋子の「悪質さ」にスポットが当てられ、殊更に強調されている。その意味では、田中美津における性病(梅毒)と、永田洋子のバセドウ氏病とは、「同じ病」と括るには、やはりそれぞれの意味合いが異なるのではないのだろうか。
「永田洋子はあたしだ」への疑問(2)
田中美津の最初の著書が『いのちの女たちへ』であり、そのサブタイトルが「とり乱しウーマン・リブ論」であるのは有名である。しかも、その「とり乱し」とは、「あぐらをかいていた自分が、好きな男が現れた途端に正座に変えてしまった」という、自らの「みっともなくも事実である」事態を称している。
いわゆる「学」としての女性解放理論の場合は、「女性は、男の視線など気にすることなく、自分の自由なポーズを取るべきである」と「理想論」をしれっと述べるだけで終わるのかもしれない。しかし、現実には、「男の視線」は気になるし、無視する訳にはいかない。ただ、それだけではあまりに「男に媚びる」ことになってしまう。・・・この理想と現実との間でのジタバタ=取り乱しこそ、自分自身の「ありのままの姿」である。だからこそ、この「現実=矛盾=とり乱し」から逃げることなく、「あるべき姿」を手探りする以外に手はない!・・・と田中美津は言う。
この「取り乱しウーマン・リブ論」に行き着いたきっかけは、・・・「偶然がもたらした」と田中美津。つまり「女から女たちへ」と己を求めていった田中美津は次のように言う。
「女への抑圧は日常と同意語であり、それを見据えようとしたら、その身を日常空間に置くは当然のなりゆきというものなのだ。」「あたしの革命的非日常信仰は破れるべくして破れていった。」(p.54)
しかし、一方の永田洋子は、「非日常」のしかも「超観念的」かつ「利用主義的・権威主義的」野合の結果としての「連合赤軍」に身を置いた。
しかも、指導者の大量逮捕の結果として、一度は「逃走」した森恒夫をトップとする「赤軍派」と、これまた指導者の逮捕によって、止む無く指導の位置につかざるを得なかった「革命左派」の永田洋子と坂口弘。銀行を襲って資金を集めた「赤軍派」と仲間を殺害されながらも銃を集めた「革命左派」。
抽象的な理論展開にかけては誰も口を挟めなかった森恒夫。しかし、合流する前に、すでに同志二人を殺害していた「革命左派」。(森恒夫はこの一点で「革命左派」にビビっていた。)
警察権力の目から逃れるための山から山へ、ベースキャンプからベースキャンプへの移動・・・信じられないほどのエネルギーとタフさ。
しかし、一面での「革命」の理念・理論の空疎さ。
それでも、田中美津は永田洋子にやさしい!
「彼女の犯した誤りは<ここにいる女>以外の存在ではないのに、<どこにもいない女>としての革命家を演じてしまったことにこそある。しかし、あたしは直感する。生身の<ここにいる女>としての己(おのれ)を肯定した上で、彼女は願望としての革命家像を現実化しようとした女であると――。」(p.55‐56)
「そしてまた権力との期日迫った対決に備えて、<どこにもいない女>として、すなわち完全に政治的で革命的であろうとはやまったが故に、彼女はいまだ己れ以上に<ここにいる女>の影を色濃く宿す女たちを粛清せねばならなかったのだ。八カ月の身重を、アクセサリーに執着する女を殺さねばならなかったのだ。最後のその際まで、<どこにもいない女>と<ここにいる女>の、その間で激しく切り裂かれる我が身を予感するからこそ、殺さねばならなかった――。殺したのは彼女であり、殺されたのも彼女である。/あたしはリンチを肯定する者では決してない。ただ、彼女が<ここにいる女>としての己を大切に思う女であるが故に、この悲劇が起きたというそのことを指摘したいだけだ。」(p.56)
どうして、田中美津は、ここまで永田洋子に優しいのだろうか。
私から見ると、永田洋子は、自分たちの丹沢ベースに田中美津を招いた日、自分も自分たちも「婦人解放の視点」が欠落していたことに気づいている。しかし、田中美津の「赤軍派の革命理論」の空疎さ批判を素通りさせながら、同時に、「婦人解放の視点」とは何か?・・・を本気で考えることを止めてしまっている。
その上で、自らは、どこにも居ないはずの「革命戦士」を目指しながら、想像以上の負荷を自ら背負いながら、それゆえに逆に、目の前の女性同志の「女っぽさ」が目ざとく目に入り、余計に許せなかったのであろう。そして、そのことが、森恒夫の、したがって「連合赤軍」全体の「男性主導主義」を支えることになってしまった。
ここまで追ってみると、やはり「永田洋子はあたしです」という田中美津の言葉が空々しく宙に舞う。ここに至ってもなお、「連合赤軍」の空疎な「革命」理論と実践、それを無批判に受け入れ主体的に担ってしまった「永田洋子の無惨」こそを凝視すべきではないのかと、私は今も思う。(了)
2025.9.7
(インパクト出版会 2025.1.20発行)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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