小林秀雄の戦争責任について

 わが68世代を主要メンバーとする「社会批評研究会」9月例会の報告テーマは、小林秀雄論であった。O氏による詳細な小林秀雄の伝記と著作の説明を聞いていると、わが思春期から青年期の一時期、熱心に著書を読んだときの記憶がよみがえってきた。しかし、その後大学に入ってマルクス主義に触れ、あるいは丸山眞男「日本の思想」における「実感信仰」の旗頭としての小林評価を知るにつけて、急速に関心を失い、本居宣長論を読もうという気もいつか雲散霧消してしまった。
 そういう私であるから、小林秀雄の評論について語る資格はない。ただ、当日の研究会でコメントした小林秀雄の戦争責任について、以下、説明不足を補いたいと思う。(小林秀雄のアジア太平洋戦争時期の発言については、「戦争について」(中公文庫 2022年)にまとめられており、一読の価値がある)
 それで、戦後(昭和21年2月)有名になったのは、「近代文学」同人※が小林秀雄を囲んで行なった座談会「コメディ・リテレール」での氏の発言である。※荒正人、小田切秀雄、佐々木基一、埴谷雄高、平野謙、本田秋五。
「僕は無智だから反省なぞしない。利口な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と、堂々と開き直ったのである。私ももちろんけしからんと思うが、しかし戦時中の発言を知った今、道徳的に糾弾しただけでは済まないほど問題の根は深いと感じた。そこには京都学派の哲学者たちの時局便乗の軽薄さがないだけに(「近代の超克」)、日本の文学的知性の影の部分が浮き彫りになっているように感じた。小林は文学者だけに、西欧からの借り物の概念で戦争を権力者のお気に召すよう着色して見せる哲学的芸当からは遠い。文学者は良くも悪くも伝統に根差した自国の言葉で、自己を語り、芸術的形象を創るしかないからである。しかしそれだけに知性の偏りは目立つのである。小林は自分を無知だとしたが、これはいいわけでもなく韜晦でもない、本当に無知なのだ。上海や南京、ハルピンなど日中戦争の戦場のただなかにありながら、その戦争の原因やら性格やら、今後の見通しなどについて考察した形跡がまったくない。文芸批評の大家でありながら、戦場にいての感想は、そこいらのおじさんおばさんのレベルでしかない。南京大虐殺まもない現場らしく、隠ぺいのためかぶされた土から突き出た白骨のさまを見ても、想像力はきわめて貧困で何があった現場なのか、思いは広がらない。作家でありながら、虐げられた中国人への想像力は働かず、汚らしいという印象批評でおしまいである。小林が憤りの表情を見せるのは、唯一満蒙開拓団の少年訓練所の待遇のひどさを目の当たりにしたときだけである。
 では、小林秀雄における知性の偏りとは何か。端的に言えば、歴史観の貧困に由来する戦争観にそれはおのずと表れている。戦争は自力ではどうにもならぬ時代の勢いであり運命であり必然であるので、心を虚しくしてそれを受け入れ、それに従って生きるほかない。まして現代の戦争は総力戦である以上、文学者が文芸銃後運動に協力するのは当たり前である。それは本居宣長に通底する歴史観、現実観であろう。儒教的朱子学的な規範や束縛から解放されて、日本人のもつ古来からの自然的性情(例えば、「もののあはれ」)に帰すること。作為を排除して、自然(みずから然らしむる)に素直に従うこと。あるがままの既成の自然な流れこそ、本流なのだ。したがって宣長的な国学からは、既成性に埋没するだけで、新しい秩序形成の論理は生じてこない。平田篤胤以下、その後国学が力を失ったのは当然であろう。
 いずれにせよ、小林の歴史観からは戦争責任引き受けのモチベーションは生じない。反省しないというのはしたがって、小林の本懐なのである。しかし小林をめぐる現実は、戦争責任の回避を許さないものであった。以下の記述は、「小林秀雄の戦争と平和【6】―「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(上)」――文・平山周吉 「文藝春秋」による
1.1943~44年、南京における「第3回東亜文学会」の開催に小林は奔走したが、この際の資金と身辺警護はすべて児玉機関が担った。児玉機関の資金源は、金銀宝石の略奪のほか、アヘン取引であった。満州におけるアヘン取引による利益は30兆円にものぼると言われている。満州の植民地経営の資金は、アヘンによるところが大きかったのである。なお「第3回東亜文学会」は、1943年11月に行われた「大東亜会議」を模して、東条英機の肝いりでなされたものであろう。
2.戦後すぐに小林は、新聞「新夕刊」の創刊に尽力。巣鴨プリズンに囚われの児玉誉士夫に代わって、子分の高源重吉が黒幕となり、資金の面倒はすべてみたという。小林のおかげで、戦後食えなくなっていた文藝春秋などに集う作家たちは糊口をしのぐことができた。満州経営のためのアヘン取引という戦争犯罪によって生み出された資金を使っての活動である以上、小林秀雄も連座責任まではともかく、作家としての責任を厳しく問われてもおかしくはない。
 最後に小林秀雄と近代的自我の問題について触れておこう。私が小林秀雄と比較したいのは、ドイツのノーベル賞作家トーマス・マンである。マンは、ドイツの無条件降伏のすぐあと、「ドイツとドイツ人」という記念碑的評論を発表した。そこでマンが自らに問うたのは、最高の芸術を生み出してきたドイツ人が、なぜホロコーストという最悪の犯罪を犯しえたのか、という問題であった。マンは、その原因を――近代的な自我の問題に重なるのであるが――ドイツ市民社会の奇形性、ひいては市民としての未成熟に求めた。総じてドイツ人は、芸術活動の原動力となる「内面性」、「精神性」に秀でている一方、市民社会を発達させる開かれたコミュニケーション(相互交通)の能力に劣るという二面性を有している。総括的に言えば、非政治的文化性に国民的特徴があるというのである。成熟した市民社会では、利害や意見の違いがあっても相互に意見交換し調整することによって、だれでもがそこそこ納得しうる結論を得て、日常の暮らしがスムーズに営まれていく。ところがドイツのような社会では、利害や意見の市民的調整装置が働かず、そのため意見が割れて、お互いに極端な結論に傾きやすい。しかもなまじ理論的な能力に長けているために、優性思想やユダヤ人排斥思想など現実から遊離した理由づけに熱中し、蛮行すら蛮行と感じないファナティズムに陥りかねない。通俗的な言い方をすると、市民的常識(良識)が十分育っていないのである。それもこれも1848年の革命が、市民革命としては挫折したところに歴史的な根を持つ。したがってナチズムの心底からの克服のためには、この非政治的文化性から蝉脱して開かれた文化性へ、民主主義と共生する政治的文化性へと変わらなければならないのである。
 小林秀雄的知性は、まさに非政治的文化性の日本的バージョンである。マンはナチズムの体験を経てこれを克服しようとし、小林秀雄はこれに胡坐をかいて開き直ったのである。小林的自我は、強くはあっても到底近代的自我たり得ず、社会的広がりに欠け、閉ざされた東洋的自我の境地に自足したようにみえる。

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