早めに摘み取るべき議論
トランプ政権の登場など国際環境の不安定化を反映するかのように、日本でも核武装を唱える政党が相当数の票を集めるなど、かつては見られなかった動きが表面化している。先日の参院選の結果からも明らかなように、既成政党から民心が離れ、民心はあてどなく漂い始めている。このような状況のなかでは、しばしば扇動的な議論をする者が蠢動するようになる。
「ジャーナリスト」の深川孝之氏が、ウエブサイト“JPpress”に「プーチンが狙う“領土割譲ドミノ”に加担するトランプ、日本も対岸の火事ではない『北海道侵攻計画』の悪夢再び」と題する論考を寄せ(8月29日掲載)、ロシアが北海道に侵攻してくる可能性を論じている。このサイトは「経営者層やマネジメント層など、日本の未来を創るビジネスリーダーのための総合メディア」をうたっているのだが、深川氏の論はあまりにもお粗末な内容であった。トランプ政権が続き、ウクライナ戦争の終結が見えないなか今後も、このような歴史にも現在の軍事事情にも半可通の議論をする者が出てくるであろう。以下、この論考の問題点を指摘し、いま、外交・防衛問題に日本人として考えるべき点について考察を加えたい。
深川氏は、「ウクライナで味をしめたロシアは、今度は日本に侵略の矛先を向け(る)」可能性があり、「旧ソ連時代に北海道占領を試みた過去」もあるとして、最新技術を利用すればロシアが「北海道のある一部分を占拠することは可能だと懸念され始めている」という。深川氏の論考のなかの初歩的で基本的な間違いを指摘しよう。
第一に、最初から議論は破綻している。ウクライナ政権が敗北して領土割譲に応じれば、との前提はつけているが、ソ連は陸続きの隣国であるウクライナさえも、膨大な人的・物的損失を蒙りながら3年かけても領土の一部しか占領できていない。ウクライナがロシアの軍門に下ったとして、その後にロシアが日本列島への軍事侵攻を企図する可能性があるだろうか。ロシアにその動機と能力があるか、またどのようなメリットがあるか。深川氏は最新技術とか、ロシア伝統のバッファーゾーン(緩衝地帯)確保とかを持ち出しているが、氏の議論は前提から成り立たない。
第二に歴史認識である。深川氏は、1945年4月ソ連は「日ソ中立条約を一方的に破棄」したとしているが、実際には残り一年で期限が来る条約の「不延長の通告」であった。実際の破棄は対日参戦を宣告した8月8日である。日本政府・軍は、ヤルタ会談においてソ連の対日参戦が規定方針になっていた情報を把握できず、通告を受けた後もソ連に和平の仲介を依頼しようとしていたのはよく知られている。
そもそも日ソ中立条約は、ソ連(シベリア)への侵攻の機会を常に窺っていた日本陸軍が、対英米関係の緊張が高まる中、ヒトラーとスターリンが突然に不可侵条約を結び、39年9月に東西からポーランドに侵攻し分割するという意外な展開に意表を突かれ、慌てて結んだものである。
しかし41年6月にナチスドイツ軍がソ連に大規模侵攻を始めると、日本陸軍内部では中立条約を破棄して、ソ連を東側から攻撃する絶好の機会であるとする議論が沸き起こる。7月には関東特殊大演習と称して対ソ開戦の構えをとったのはよく知られていることである。つまり日本も事情次第では「一方的に破棄」しようとした条約であった。
第三はソ連による実際の軍事行動についてである。深川氏は、ソ連は「南樺太や得撫(ウルップ)島以北の千島列島、日本固有の領土である北方領土」に侵攻したとしている。日本外務省の文書であれば、これは問題ないであろうが、ジャーナリストとしては失格である。
南樺太は日露戦争の日本側の「戦利品」であり、「固有の領土」という言葉は馴染まない。
千島列島も明治初期の国境策定の過程で、千島と樺太が交換されたことによって日本領になったことは高校の教科書にも掲載されていることだ。
45年8月のソ連軍の実際の軍事行動としては中国東北地方(満州)での軍事作戦が最優先であり、サハリン(択捉島)と千島列島への軍事侵攻は二次的なものであった。とくに千島列島での軍事行動には兵員の海上輸送や上陸作戦に必要な艦艇と技術を持った兵員が不足しており、アメリカが艦船の提供とアラスカでの兵員訓練まで提供しているのである。この辺りの事情については、昨年出版された麻田雅文氏の労作『日ソ戦争』に詳しいところだが、深川氏は読んでいないのだろう。
確かにスターリンは対日参戦後、アメリカ側に北海道の北半分の占領を担当させるように要求している。スターリンの習性として、能力的にも技術的にも不可能であることが分かっていてもなお過大な要求をし、少しでも多くの戦果を得ようとした。ソ連にとってはアメリカの支援を受けながら、千島列島を占領するのが精一杯であり、北海道の北半分の占領など不可能であった。スターリンは、それでなくとも東欧での米英との駆け引きに忙殺されていた時期である。
深川氏は、この他にもトランプ政権の対ウクライナ政策を引き合いに出して、日露間に軍事紛争が生じた場合、アメリカが日米安保条約に基づいて行動してくれるか怪しいとか、プーチンの余命が短いとか(つまり、成果を急いで日本を攻撃する可能性がある、と言いたいのか?)、いろいろな話題を並べ、危機感を煽るのだが、全体として議論は粗雑で説得力はない。
早いうちに摘むべき芽
団塊の世代のとくに男性の間では、勤務先や卒業した大学名など、世間的なアイデンティティは持ちやすく、また社会にある程度の流動性があったから、実現するかはともかく、多くの国民には、より良い将来像を描く余地があった。しかし今や、非正規雇用が拡大し、努力して進学した大学は少子化のなかでの無名化が進む、誇れるような資格や家柄でもなければ最後のアイデンティティは日本人であることしかない。
しかも周囲を見回してみれば、アジア系の旅行者たちが高級ホテルに泊まり散財している。白人には最初から引け目を感じていても、アジア系の人々が自分よりはるかに豊かであることには納得いかない。そんな気分が団塊ジュニア世代以降の、とくに男性の間に瀰漫している。そのため参政党という新興政党でも、排外主義的言辞を弄べば、驚くほど多く集票した。既成政党も浮足立って外国人の扱いの厳格化を主張するなどの動きもある。このような雰囲気のなか、「あの国が侵略を計画している」などと、特定の国を危険視するような議論が一部の国民の間に刺さる可能性はあるだろう。
もし将来的に排外主義や特定の国を敵視する議論をする政党を取り込んだ連立政権が成立したら、本人たちも本気にしてはいなかったような外国人排斥や特定の国との緊張関係を高める政策を進める流れになる可能性がある。現在進行形のトランプのアメリカで起きつつある混乱をみればわかるように、そのような事態は日本の混乱と衰退を招く愚かな選択である。国際環境の不安定化による周辺諸国への不適切な言説の流布、外国人差別・排除を掲げる政治勢力の芽を早めに摘むことは日本社会の安全・安定を確保するうえで喫緊の課題である。
初出:「リベラル21」2025.09.18より許可を得て転載
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