

映画サークルの上映会、今月は『二十四の瞳』(木下恵介監督 1954年)だった。たしかに一度はすでに見ている70年以上前の作品だ。私が覚えているシーンといえば、しばらく学校を休んでいた高峰秀子の大石先生を家まで訪ねることになる、一年生の子どもたち、はじめは元気だったが、歩いても歩いてもなかなかたどり着かず、やがて心細さで泣きながら、それでも歩き続ける場面、六年生の修学旅行で小豆島から琴平に向かう船と大石先生の夫が機関士を務める観光船とすれ違う場面くらいだった。1928年(昭和3年)から敗戦の翌年1946年まで、戦争の時代に翻弄されながら生き抜いてきた大石先生と教え子の物語である。
まず、2時間半以上の大作であることに驚き、通して流れる数々の童謡やそのメロディー、それだけでも懐かしさに目が潤んできそうになることだった。たしかに、今から思うと、やや過剰な、冗長に思える場面もあったのだが。
18年間に及ぶ物語だから、1年生、6年生の子役は、3000組の兄弟、姉妹の中から選ばれた12組だったという。そして、成人してからは、小林とし子、井川邦子、月丘夢路、田村高広・・・の顔を思い出す。そして何より懐かしかったのが、笠智衆、浦辺粂子、夏川静江、清川虹子、浪花千恵子、小林十九二等のわき役陣だった。大石先生の旦那さんの天本英世のホントに若いころ、デビュー作?だったか、端正な顔立ちの青年だったのだ。「平成教育委員会」当時の天本の姿は、チラ見ながら不思議な役回りだったことも思い出す。
いったい私は、この映画をいつ見たのか。かつての映画手帳のメモをもとに、表にしたものを、このブログでも掲載したことがある。
・忘れてはいけない、覚えているうちに(8)1950年代の映画日記が
(2023年1月5日)
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最上段1955年の1月4日、エビス本庄で3本、「青い麦」「恐怖の報酬」「二十四の瞳」を見ていることになっている。3本立にしては妙な組み合わせである。中学3年のお正月、まさに高校入試の直前である。渋谷までよく出かけたものである。下記の「消えた映画館の記憶」によれば、池袋には30館以上の映画館があったのに。私が足を踏み入れた映画館にはマーカーをしてみた。
【豊島区】34館
テアトル池袋(池袋1-721)、テアトルダイヤ(池袋1-721)、日勝映画劇場(池袋1-743)、池袋新東宝(池袋1-743)、池袋松竹劇場(池袋1-743)、池袋地下劇場(池袋1-743)、池袋東急劇場(池袋1-750)、池袋大映劇場(池袋1-773)、池袋大映名画座(池袋1-773)、池袋東映(池袋1-780)、池袋名画座(池袋1-780)、池袋劇場(池袋1-781)、池袋東宝劇場(池袋1-781)、池袋ピース座(池袋2-871)、池袋日本館(池袋2-914)、池袋世界館(池袋2-914)、シネマ・ロサ(池袋2-1165)、シネマ・セレサ(池袋2-1165)、シネマ・リリオ(池袋2-1165)、池袋エトアール(池袋2-1166)、池袋地球座(雑司ヶ谷5-700)、池袋山手映画劇場(雑司ヶ谷5-703)、北池袋北映座(堀之内182)、駒込ロマン座(駒込3-3)、スガモ・シネマ(巣鴨2-4)、巣鴨映画劇場(巣鴨2-41)、巣鴨オリンピア劇場(巣鴨3-22)、シネマ庚申塚(巣鴨5-1008)、大塚鈴本キネマ(西巣鴨2-2022)、大塚ヒロキ映画劇場(西巣鴨2-2080)、白鳥座(目白町1-1116)、目白映画劇場(椎名町3-2031)、長崎映画劇場(椎名町7-3858)、平和シネマ(椎名町7-3864)
初出:「内野光子のブログ」2025.9.22より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14441:250923〕