前にも触れたことがあるが、今年の夏は長く続いた酷暑に悩まされ、その炎天下の期間を、何とか我慢しながら過ごそうと思いあぐねて手に取ったのが『金瓶梅』とこの『紅楼夢』だった。この種の艶笑小説など読み上げるのは簡単だろうと高をくくって、両書を併読し始めたのが大間違い。さすがに古典として名をとどめただけあって、私の甘い考えなどたちまちふっ飛ぶほど中身の濃いものであった。
多分に私自身の好みからする評価ではあるが、やはり『金瓶梅』の方が『紅楼夢』よりは数段上ではないかと思う。
もちろん、視座をどこに据えるかによって時代の描き方が異なってくるのは当然である。ましてやこれらは小説であって、哲学書ではない。小説の特徴は、時代の様相をvividに活写する点にあるだろうし、その点では両者に甲乙はない。あくまで読み手側の問題関心によるのだろう。
『紅楼夢』を読んでの第一印象は、かつての「少女小説」(ほとんど知らないままに言うのはおこがましいのだが、成長期にある兄弟姉妹をめぐる様々な試練・葛藤を描いたもの)を彷彿させたことだ。その点『金瓶梅』は、好色物の外観を装った一大スペクタクルである。腐敗堕落した北宋末期の徽宗時代の政治、それを体現する一地方の豪族の奔放な生活ぶり(その象徴が西門慶)をズバリと描き、そしてそれへの批判としてまず梁山泊の豪傑の一人武松を、そして金(満州)族の大々的な侵入を対置する。時代の大きな流れの中で、自堕落な日常生活を惰性的(無自覚)に過ごした挙句、いざ戦乱が現実のものとなって襲ってくる段になると、ただ怯えて逃げまどうだけ。こういう人々の惨めさ哀れさを作者は皮肉を込めて描き出す。そして「南柯の夢」に托して虚無思想の中にしかその救済はないと結論づける。しかし、それは裏返せば、戦乱を招いた挙句のこの世に、救いはないということになる。こういう読み方が、今日的な「深読み」であることは承知の上で、なおあえてこういう風に読みたい。今のわれわれの時代の風潮が、本質においてこの時代と一向に代わり映えしないと思うからだ。
話を元に戻す。『紅楼夢』のもう一つのイメージは、チエホフの『桜の園』に重なる。止めようのない時代の巨大な渦(転変)の中で、消滅しつつある旧来の格式と贅沢な生活習慣を何とか保持したいと藻搔く貴族層の滑稽な悲劇がこの作品の底流にある。『桜の園』を中国風にアレンジし、登場人物の行動を一々追いかけて細密に仕立て上げた作品と考えることもできる。もちろん両作品の書かれた年代は逆で、18世紀半ばの作である『紅楼夢』が先行する。
『紅楼夢』の概要
この書は実は未完の書である。第80回を書き終えたのち、著者の曹雪芹が亡くなったためだ。つまり、岩波文庫本では第8巻までがこの著者のものであり、それ以後の9~12巻までは別人の手になる。それ故、この感想文もひとまずここまででとどめたい。
まずご紹介したいのは、凡例に掲げられている「紅楼夢旨義」である。これによれば、この書には題名が極めて多いという。『紅楼夢』『風月宝鑑』『石頭記』『金陵十二釵』等々…。もちろんいちいちの典拠理由はあるが、ここでは省く。この書全体の基調は、『金瓶梅』同様に仏教の「無常観」(すべては空)、あるいは道教の「虚無思想」(胡蝶の夢の儚さ)を基に書かれたもののようだ。この書中の第五回に、賈宝玉が眠りのうちに「幻境に遊びて十二釵の図に迷い仙酒を飲みて紅楼夢の曲を聞く」(『金陵十二釵』という題名の由来)という小見出しのものがある。ここでは、宝玉自身の、またその親しい仲間たちの命運が予め詩文や図で啓示されることになる。つまり天命によってわれわれの定めが決められていることが暗示されている。これは宝玉にとっては、短時間の夢幻のうちに自分の生涯図を見せられるということである。期待と不安と、ある種の「虚しさ」を感じなかったろうか。しかし考えてみれば、彼自身はそれをまだ自分の予告された運命だとは必ずしも受け取っていないはずではないだろうか。というのは、もしもそれが100%彼の予告された運命であると彼自身が確信してしまうとすれば、彼のそれからの人生はただただ空しいものでしかなく、魂の抜け殻のような干からびたものでしかないだろうからだ。しかし、運命というものは、人生がまさに「桑楡」にさしかかったころになって初めてその必然性に気づくものである。その意味で、「ミネルヴァのふくろう黄昏とともに飛び立つ」のである。
この書のあらすじを紹介するのは少なくとも私の手には負えない。そこで、ほとんど解説には程遠いが、大まかに表面をなでる程度でご勘弁願う。
当時の貴族の家の広大な「園」に同年輩の兄弟従妹など親戚関係にある美姫(少女)たち、またその女中たちが集合して共同生活をすることになる。その中に宝玉という病的に繊細な、しかも反権力志向の強い美男の子がただ一人混じっている。彼らのなんとも絢爛豪華な(しかし実際には絶えず涙で暮らしているのだが)生活記録が前半の物語である。そこでは相互間の摩擦は当然ながら起きる。また、周囲の大人社会(親や叔父、その他)との齟齬・軋轢あるいはまったくの対立も絶えず生ずる。背景には、当時の身分社会のエゲツナサ、淫靡で乱脈な私生活の内情(腐敗した社会道徳)、またすでに崩壊寸前まで追い込まれている家計状態(もはや旧来の贅沢な生活は継続困難になっている)、そしてついには時の権力に見放されての「家」の没落(実際には、80回までではそこまで書かれていない)。
ここでも作者の思いは「邯鄲の夢」、華やかさもつかの間のもので、若いころの「美」もやがては萎み枯れていく、という点にあると思われる。文庫本の8巻の終わりに付けられた訳者による「曹雪芹原作の八十回以後について」を読めば、これら貴族の美姫たちの悲惨で哀れな末路がわかる(これらの続編は、原作者の遺稿断片によるものらしい)。宝玉もついには「乞食坊主」となって放浪しながら死んでゆく。これらは時代の「死」を暗示しているとも考えられる。
もちろん『金瓶梅』と同様に、ここにはこの作者が考案した弾圧逃れの功名なトリックが何重にも用意されている。つまり、彼らが現世で送る栄枯盛衰とは太虚幻境を司る警幻仙女によって「仙石」が人間界に生まれ変わり、人間界の離合悲歓、数々の経験を味わった末、今や再びその本来の相に帰るという仮の姿に他ならないのだ。彼ら登場人物はその大部分が、警幻仙女の使者=仙女なのだ。舞台上で仮に踊っているに過ぎない。警幻仙女がその舞台回しであり、現実と思しきものは、あくまで「邯鄲の夢」「一炊の夢」「胡蝶の夢」なのである。
こういうvirtualな体裁をとりながら、巧みに時の権力の弾圧をかわして、「反権力思想」を打ち出してみせる手法は見事というほかない。「反権力思想」の一つの顕著な象徴が宝玉の「反科挙」思想であり、科挙試験のための勉強に対する徹底した侮蔑・憎悪である(「東大解体」に通じているのかも?)。
「華麗な貴族社会」をクローズアップすることで身分格差社会を暴く
当時の封建身分と貧富の格差のあまりな大きさに改めて驚かされる。身分制社会での上下関係、両者の間の深い「溝」を超える手段は、容姿端麗をもって身分の高いものの妾になり、あわよくばその正妻に成り上がる道か、世渡り上手に金をため富豪になるか、あるいは科挙試験に合格するかでしかない(今日でも、有名スポーツ選手やタレントになるか、起業家になって金を儲けるか、良い大学に入るか、という点では当時と同質である)。
おそらく、物語後半の富貴から貧困へのどんでん返しを強調せんがためであろうが、『金瓶梅』と同じく、非常に豪華な部屋飾り、衣装、また贅沢な食事などが詳細に描写されている。そして召使いの女性の主人への献身的な奉仕(多分に強要されたものかもしれないが)は今日では考えられないほどだ。だが、『金瓶梅』に比べると、この時代の女中たちは主従(身分)関係において少しだけルーズになってきているように感じる。それでも4巻目にある金釧児が解雇(この家から放逐)されたことを屈辱に感じて井戸に身を投げて死んだようなことも起きるのだ。格式そのものはまだ「死」んではいない。
例えば、6巻の第52回でのこと、宝玉に仕える女中の襲人の母親が臨終の床に就き、彼女が帰宅する際に、彼女の衣装への様々な配慮が行われる。しかしそれとても彼女が仕えるこの貴族の家の恥にならないようにという主家の家柄の格式が第一に考えられてのことである。
華美な貴族社会と対照的に紹介されていて、非常に興味深いのは、4巻第39回の中の次の個所である。
これは農家の劉ばあさんが孫の板児を連れてご隠居のところに新物(穀物や野菜)を献上しに来た場面のやり取りである。私にとっては、まるでツルゲーネフの小説のシーンを読むようで、興味深かった。作者は先に触れた事柄と併せて、このシーンを詳細に描くことで、貴族と庶民の格差の大きさを描出し、ユーモアを交えながら両者を比較している。
例えば次のような会話がある。
「へへえ、そのような蟹は、今年は一斤五分からしますですよ。とすると、十斤で五銭として、五五の二両五銭、三五の十五、それに酒代や料理の代まで入れますちゅうと、しめて二十何両からの銀子になりましょう。はれまあ、たった一度分のかかりが、わたしども農家の者が一年らくに暮らせる分に当たりますわな」
更に、
ご隠居様のお部屋へ…つれてこられた劉ばあさんは、部屋じゅう真珠や翡翠で飾り立てられ、(居並ぶ女性たちは)花の枝がゆらゆら揺れているようで、どなたがどなたやらまるで見当もつかない。
…ばあさんは今年で75歳になるが、ご隠居様は「わしよりもずっとずっとお年上なのに、わしがそんな年になったら、動けなくなっているかもしれないね」「わたくしどもは苦労をするように生まれついておりますで、ご隠居様は福を受けるように生まれついておいででござります。もしもわたくしどもまでそのようでござりましたら、だあれも百姓仕事なんぞするものはなくなってしまいましょう」「目や歯もまだお丈夫ですか?」「へえ、どっちもまあまあでござりますが、今年になって左の奥歯がぐらつきだしました」「わしは老いぼれてしもうて、どっちも役に立ちませんよ。目は霞むわ、耳は遠くなるわ、物覚えもめっきり悪くなりましてね。…」…「年寄りの屑というほかはありませんよ」
先に身分制社会の中で、下層身分から抜け出すためには、主人に見初められてその妾になる事もありうると書いた。
第46回の鴛鴦にまつわる話はこれに関連する。彼女はご隠居様に仕える女中である。しかし、女中の中にも格式があったらしく、彼女はいわば奥女中である。この頃の女中はまだ金銭での売買によってこの家に買われてきた者であり、いわば奴隷である。奴隷の身分である限りは、所詮は下男との結婚(つまり、永久に下層民の身分からはい出せない)と、その後の貧困生活が待ち受ける運命である。ここで、主家の賈赦が彼女に目をつけて、自分の妾にしたいと申し出た。妾は奴隷からの解放(出世)である。もし子供でもできれば、正妻の地位に登れるかもしれない。それを彼女は断るのである。ここに封建的身分制度のほころびを感じる。
この点でのダメ押しは次の煕鳳のセリフだろう。
煕鳳が女中の平児にむかってこういう。「…妾腹だとて同じだとはいっても、女の子は男と違います。先々お嫁入りということになると、今時は軽薄な人間が多くて、何よりまずお嬢様は本妻の腹か妾腹かと聞き、妾腹ならごめんだと言って毛嫌いするのがこの頃は普通だからね。妾腹はおろか、ここの女中たちだって、よその家のお嬢様といわれている人々よりはずっとずっと立派だってことを、人はちっとも知っていないのだからね。…」(第55回pp.167-8)
この時代では、多くの女性は(身分の高い女性であっても)学問には無縁であり、文字も読めないのが普通であったようだ。しかし、この「園」に集う女性たちは、一様に文字が読め、それどころか達者に漢文を読み書きするだけの教養を備えている。宝釵や黛玉や探春などになると漢詩を作る腕前も相当なもので、古典なども平気でそらんじて見せている。
そして第48回で、香菱(宝釵の女中)が漢詩に夢中になる話が出てくるが、そういうところにも時代の顕著な変化が見て取れる。
「家」の経済的逼迫―貴族社会の危うさ
第53回で賈珍のところに荘園から年貢を納めに黒山村の庄屋の烏進孝が来る個所が興味深い。
ここでの領主と領民百姓との間の年貢の駆け引きはツルゲーネフ、チェーホフ、ゴンチャロフの小説を連想させる。賈珍のような貴族領主は、皇帝からもかなりの給金をもらっているようであり、それ以外に自分たちの所有地(荘園)からのあがりを年貢として受け取っている。しかし慣習になっている乱脈な生活ぶりはこれらのお金どころか、資産までも食いつぶしてしまう。ここではあくまで賈珍たち貴族の立場からこの駆け引きが述べられているが、農村からは、駆け引き上手な年寄りが出てきて、農作物の不作を言い立てて年貢を値切る。また貴族の家では、その一族郎党の等級順に年貢などを分け与えることになっている点も面白い。
また同じ53回で、豪華ではあるがいかにも儒教の国といったところのある年功序列、親族間の等級(序列)、それによって秩序付けられた儀礼、これらの形式によって縛り上げられた感のある一族の正月風景、なんとも窮屈としか言いようのない情景描写だ。
宝玉は、ここではひたすらご隠居や母親に猫かわいがりにかわいがられて育てられている、過保護で、ひ弱な世間知らずの坊ちゃん、行き過ぎる幼児教育の犠牲者(そのまま大人になっていく)、ドストエフスキーのムイシュキン(『白痴』の主人公)かゴンチャロフの『オブローモフ』のように純情ではあるが幼児性の抜けない若者(ある種の反権力意識は別として)として描かれている。後半の宝玉の変わりよう(乞食坊主への変身)は到底想像できない。
第55回では、経済的に切羽詰まった挙句に「家」の内部の大合理化を断行せざるを得なくなったこと。そしてそのことから引き起こされる矛盾、難題の出現が新たな次元において展開される。例えば果樹園や野菜畑、お花畑などをそれぞれ下男・下女の中から担当者を決めて管理させようとする。管理を行き届かせるためにはなにがしかの特別手当を支給せねばならないが、そうすればたちまち管理人たちにブルジョア社会の論理が入らざるを得なくなるのだ。収穫を向上させるために、他人の立ち入り、採集を厳重に監視して排除することになる。先に挙げたロシア文学以上にこの関係が見事に表現されている。
締めくくり(総括)
7巻に次の詩文が引用されている。
たとえ千年の鉄門檻ありとも
ついに一個の土饅頭なるべし (宋の范成大)(p.118)
流転の必然性とともに、形あるもの(有)はすべて無に帰らざるを得ない、というある種の無常(死生)観を述べていると思う。
そして物語は急転直下、悲劇性を帯びたものへと転出する。
マイホーム主義(プチ・ブル)的な意見―封建制の当時ではかなり急進的考え方であろう―が美姫の一人の口から公然と述べられる。
「でも、物のわからぬ人は多いものです。そんなのを一々相手にしてはいられないわ。あたしはつくづくと思うのよ。普通の家で、少人数のほうが、いっそましじゃないかとね。どんなに暮らしは貧しくても、親子水入らずでしたら、さぞかしその日その日が楽しいことでしょうね。あたしたちのようなこういう家は、外から見れば、あたしたちはそれこそ千金万金のお姫さまで、どんなに楽しいか知らんと思うでしょうけれど、それはあたしたちの口では言えない。一段と辛い悩みを知らないからなのね」と探春がいうと、宝玉がいった。「探ちゃんみたいに苦労性の人って、どこにもいやしないね。ぼくが何かにつけていつもあなたに忠告しているじゃないの。ああいうばかばかしい話に耳を貸したり、つまらぬことを考えたりしちゃいけない。ただ富貴栄華に安んじていさえすればいいってさ。奴らはわれわれと違って、こういう清福に恵まれず、めくらめっぽうに騒がねばならぬようにできてるだけなんだだから」
何度も触れたように、宝玉は「科挙制度」に見られるような旧弊な考え方を極度に嫌う。(科挙のような)こういう制度はやみくもに暗記させるだけであり、そこには自由な感情、思考が欠落しているからだ。彼が好むのは、もっと自由な形式をもった詩文の世界である。
「…前人の旧套を踏襲し、ただ文字を並べて人の耳目をふさぐだけの文であってはならぬ。必ず一字一句ごとにむせび啼き、血の涙の出るような、むしろ文はたらぬところがあっても、悲しみ余りあるものでなければならぬ。…ところが今日の人々は、『功名』(科挙に及第して立身出世すること)の二字に惑わされているため、尚古の気風は全く地を掃ってしまった。時宜に合わぬと、功名を挙げるのに邪魔になりはすまいかと恐れるがためなんだ。ぼくはああいう功名なんか欲しくもなんともない。また世人に褒められようという考えも持ってはいない。…」宝玉は元来まともな本は読まない人間である。その上にこういうひねくれた考えを持っているのであるから、むろん立派な文章が作れようはずはない。(第78回p.302)
このような「落ちこぼれ」の宝玉を創作することによって、作者は暗に既成の体制に対してアンチ・テーゼを投げかけている。
そして、宝玉はその日常の生活態度においても、身分社会を否定する態度をとり続けている。例えば、宝玉の住む棟(イ紅院)では、身分の隔たりはほとんどなくしていたと書かれている。
ある日のこと、かかる日頃の不勉強は、学者である父親・賈政からの質問攻めを翌日に控えてのにわか勉強(一夜漬け)を彼に強いることとなる。彼は次のように反省する。
…いま大体見積もったところ、暗誦できるのは、せいぜい『学庸』と『二論』だけで、これなら注も一緒に空で言える。しかし上冊の『孟子』となると、半分ほどもあちこちうろ覚えの個所があって、いきなりその中の一句を取り出して質問されたら、とてもその後を続けて暗誦はできない。特に『下孟』ともなれば、ほとんど大半は忘れてしまっている。『五経』はどうかと言うと、この頃詩を作っているため、ふだん『詩経』だけは多少とも読んでいるから、大して深くやったわけではないが、まずなんとかその場はふさげよう。その他のものは覚えていないが、幸い父親(賈政)も特に読めとは言わなかったので、たとえ知らなくてもかまわない。さてまた古文ということになると、これまで幾年かの間に読んだものは、『左伝』『戦国策』『公羊伝』『穀梁伝』、それに漢・唐などの文章などまで合わせて、ほんの幾十篇かに過ぎず、この幾年来、まるで半篇片語もさらえなかった。暇の時にざっと目を通したことはあるが、それもほんの一時の気紛れにしたまでのことで、読む片端から忘れて行って、ついぞ根をつめて勉強したことはなかったから、覚えられようはずはない。これは絶対にごまかしは利くまい。それからもう一つ時文八股という奴がある。平素から憎んでも憎んでも飽き足らぬものだと思っている。大体あれは断じて聖賢のおつくりになったものじゃない。…(8巻pp.78-9)
以上みてきたように、作者は何重にも防御のバリケードを張り巡らしながら権力の弾圧をかわしている。そして後半部の遺稿断片の中でも、勧善懲悪の結末とは程遠く、むしろ彼らの多くが零落した姿をさらすことになるようである。作者の真意は明らかに、封建的身分社会の崩壊と、貴族層の没落を物語ることにある。これを架空の出来事、一場の夢の中で味わう人生の喜怒哀楽というシェイクスピア張りの問題小説に仕立て上げた、というのが私の感想である。序に、もうひとつそれに関連して面白いことは、この物語の中で「真」と「偽」は絶えず逆に使われているという点への訳者からの次の指摘である。
「真真国」というのは仮想上の西洋の国の名である。この小説では、常に真は仮であり、仮は即ち真である(6巻p.242の注)。
参考文献:『紅楼夢』(1)~(8) 曹雪芹作 松枝茂夫訳(岩波文庫1972/91)
2025.10.8 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14469:251012〕