詩人の岡本勝人氏の近著、『岡本勝人書評集成』は2004年から2025年までに書かれた多数の書評がまとめ上げられた著作である。書評の対象となっているのは詩集、小説、批評、エッセイ、研究書など様々な文学ジャンルの作品である。取り上げられた各々のテクストへの書評は、それぞれに独立していると述べることも可能であるが、この書評集全体が以下の三つの主要解釈視点に基づき構築されているように私には思われた。その視点とはポエジー (poésie)、 クロノトポス (chronotopos)、横断性 (transversalité) である。ポエジーは一般的にはジャンルとしての詩を表す語でもあるが、詩的世界を表す語でもある。岡本氏の文学的創造性のすべての基盤には詩人としてのポエジーが常に存在しており、このことはまず強調しなければならない点である。クロノトポスはミハイル・バフチンの文学理論の中心概念の一つであり、文学ジャンルの形成と密接に関係する時空間を表す。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが提唱した横断性は、異なる時空間、概念領域を横切って動く様態であるが、岡本氏のこの書評はまさに横断的である。今述べた三つの視点は多様な文学ジャンルのテクストを分析していくための開かれた分析装置 (dispositif analytique) である。ここで用いる三つの視点は異なるレベルの、異なるジャンルのテクストの連関性を考察するために有効な分析装置である。それゆえ、ここではポエジー、クロノトポス、横断性という視点から岡本氏の書評集を間テクスト的な動き (mouvement intertextuel) という考察基準に注目しながら検討していこうと思う。
ポエジー空間と批評空間
ポエジー は先程も指摘しように詩人としての岡本氏にとって本源的と言うことができる探究視点である。岡本氏は『ノスタルジック・ポエジー――戦後の詩人たち』の中で、「詩の生成とは、詩の歴史そのものが詩を作る領域、時代そのものが詩を作る領域、詩人そのものの精神史によってうながされる領域など、重層した精神の営みによっている」と語っている。つまり、岡本氏にとっての詩的空間は詩の歴史的な連続性でもあり、特定の時代性でもあり、詩人個人の詩的空間でもあるのだ。それゆえ、多くの詩的世界を横断するものであると言える。もちろん、ある詩やある詩集に関して、その詩独自の世界やその詩集の内的世界だけに限定してテクスト・クリティックしていく方法も存在している。そうしたアプローチをここではミクロ連鎖的アプローチと呼ぶ。それに対して岡本氏のように詩における多元的世界を認め、それぞれのレベルの世界を横断するような探究方法をマクロ連鎖的アプローチと呼ぶ。注意しなければならないことは、ミクロ連鎖的アプローチがマクロ連鎖的アプローチの上位に位置するというものではなく、それぞれのアプローチは考察視点が異なり、相互補完的に機能するという点である。
しかし、詩集に対してポエジーを語ることは当然のことだとしても、小説や批評というジャンルの作品とポエジーの関係は如何なるものであろうか。例えば、岡本氏が詩人であるからその文学的創造行為の根底にはポエジーがあると考えたとしても、それによって小説とポエジー、批評とポエジーといったものの関係が明らかになったと言うことはできない。言葉を変えよう、ポエジーは小説や事情といったジャンルの作品を分析するための装置になり得るのだろうか。この問は容易に答えられるものではない。いや、アポリア (aporia) と言ってもいいかもしれない。しかしながら、この問に答えなければ、岡本氏が行っている書評空間を解明することは不可能になってしまう。それゆえ、私はここで己の能力以上の難問に挑もうと思う。
そのために先ず詩とは何かという問に答えなければならない。これも難問だが、この問と関連した発言をステファン・マラルメは「詩の危機」の中で行っている。彼は、「一般大衆にとっては、言語はまず、通貨のように物の価値を簡単にあらわすためのものである。しかし「詩人」のもとでは、それとは反対に、言語は何よりもまず人間の心の底からほとばしり出る夢と歌であり、虚構の世界を作るための芸術に材料として使われる必要上、その虚構性をとりもどす」(南條彰宏訳 in 『マラルメ ヴェルレーヌ ランボウ:世界文学大系43』) と書き、さらに、「詩句とは幾つかの単語から作った呪文のような、国語の中にそれまで存在していなかった新しい一つの語である」と書いている。マラルメは言語の機能を情報伝達の側面、いわば、コミュニケーション的と述べ得る機能と、創造性を担った詩的機能とに分けているが、詩の言葉はコミュニケーションのための言語である言葉の意味を解体し、新たな意味を生み出す。だが、新たな意味生成が起きるのは詩という文学ジャンルの作品に限られる訳ではない。そうであるならば、散文である小説にも、書評にも、ポエジーとしての創造性が孕まれていると考えることができる。そして、岡本氏はそうした創造性を小説の中にも、書評の中にも見出そうしていると私には思われる。この書評集の中にある「美と否定性が取りこぼすもの1」には、「沈黙を埋めるために、詩人は、言葉を使用する。言い表しえないものは何か。言語活動は、音声 (フォネー) のうちにある魂に触発される」という言葉を発見することができる。この言葉からは新たな意味を求めるポエジーの精神が聞こえてくる。そして、岡本氏の確信も聞こえてくる。それはポエジーが様々なジャンルを横断することができるという確信である。
文学テクストの時空間
バフチンは『小説の時空間』において、クロノトポスについて、文学的作品の作り上げてきたものは「(…) 現実のうちから自らのものとした時空間の局面を投射し芸術的に処理するのに適したジャンルや、各ジャンルに固有の方法である」(北岡誠司訳) と述べ、さらに、「文学がこのように芸術化して自らのものとしてきた、時間的関係と空間的関係との本質的な相互連関を、ここでは、クロノトポスと呼ぶ (…)」と述べている。クロノトポスとは文学テクストの各ジャンルを構築するための基盤として作動する本質的な位相(topologie) のことである。それゆえ、この用語は文学理論にとって根本的な概念となる。
だが、クロノトポスに基づき岡本氏のテクストを考察していく前に、古代ギリシア世界におけるクロノス (χρόνος) とトポス (τóπoς) という二つの語の概念性について簡単に見ておく必要がある。ギリシア語において時間を表す語は、クロノスとカイロス (καιρός) というものがある。クロノスは連続的で、過去から未来へと一直線に突き進む時間のことを指すが、カイロスは均質に分割されたものではない特別な時間としての主観的な時間を示す。クロノスが時間の量的測定可能な側面を示し、カイロスが時間の質的側面を示すとも言われている。空間を示すギリシア語も二つある。トポスとホドス (ὁδóς) だ。トポスは特定の場としての「場所」、「位置」、「家」などを示すが、ホドスは移動する場としての「道」、「道程」、「旅程」などを示す。主観的なものと客観的なもの、静態的なものと動態的なものによる二分割法は、われわれの世界認識にとって本質的とも言える視座を与えてくれる。もしも時間が均質なものに過ぎないならば、記憶や物語的展開は意義を失う。時間とは同価値の一つ一つの出来事が単に積み重なっていくことになってしまうからである。だが、時間が主観的でしかないものならば、われわれは時間の大海の中で彷徨することしかできなくなる。われわれは二つの時間を必要とするのである。空間にしても、そこに留まり、安息を得ることができる場所と、安息すべき場所と場所を繋ぐ移動するための道としての空間をわれわれは必要とする。何故なら、生きるとは能動的な行為であるからだ。それは言語がある理想空間を求めて動き続けることと同義である。
バフチンは詩というジャンルの作品には対話性がないと述べたが、それは詩に対話関係の基準となるクロノトポスを求めれば、それは詩ではなく散文作品となってしまうからである。バフチンは対話の基本図を、誰が誰に話すのか、どのような方法で話すのかが明確に示されたものであると語っている。しかし、詩の中の語り手をその詩の作者として、その語りが向けられるのが読者であると言っても、それはわれわれが一般的に認識している対話とは異なる。何故なら、対話関係を築くための基盤であるクロノトポスが詩の時空間では限りなく透明になっており、それを正確に知ることができないからである。詩の世界にある時空間は、こう言ってよければ、カイロスとホドスであり、ポエジーはクロノトポスを求め続けなければならない宿命を背負った文学ジャンルであるのだ。岡本氏はこの点について詳しい説明をしてはいない。ただ、先程述べた「美と否定性が取りこぼすもの1」には、「現実社会に身をおきながら、無彩色的な言語の魔法の円環を超脱するかが、詩の未来である」という言葉があることは注記しておこう。
テクストとテクストの間を超えること
同じ文学テクストであっても、作品のジャンルが異なれば、当然テクスト空間の開在性は異なる。だが、文学作品は動態的総体であり、作品が構築される過程で、多岐に亘るジャンルを横断する言説が語られる場合がある。横断性という語の特質が最もよく表現されるジャンルは、書評であろう。書評を書くためには豊穣は創作性といったもの、エクリチュール (écriture) としての表現力や構成力だけではなく、ウンベルト・エーコの言葉を使うならば、百科事典的知識 (connaissance encyclopédique) が必要となる。百科事典的知識は横断的である。何故なら、それは客観的なもの、つまりは、知識としての真であるものに依拠しているからである。知的横断をするためには二つの異なった分野を繋ぐ、基準となる道がなければならないのだ。
横断性と深く関係するものとして、解体構築 (déconstruction) の問題が存在している。解体構築あるいは脱構築はジャック・デリダの用語であるが、この語は哲学的な語としてだけではなく、文学におけるテクスト構築とも深く関連する語であり、特に、批評というジャンルのテクストにとっての根本的な作業を示す語である。ある作品に対する批評を行う時、テクストの流れをただ追いかけたり、それを要約しただけでは、批評という作業が行われたとは言えない。批評を行うためには、対象となるテクストを解体構築しなければならないからである。クリストファー・ノリスは『ディコンストラクション』の中で解体構築について (翻訳では脱構築と訳されているが)、「脱構築とは、ほうっておけば区別されて影響を蒙らない状態であり続けるカテゴリーを、単に戦略的に転覆することではないのである。それは優劣関係の所与の秩序、及び、まさにその秩序を可能ならしめている概念的対立の体系を解きほぐそうとするのである」と語っている。こうした試みを岡本氏も行っており、解体構築を通して横断性という行為が明白化しているのである。
この書評集にある岡本氏の言葉を聞こう。「(…) どのような経験則の反復可能性をもってしても、現代詩の突端は、世界の突端の不可測性のように、私たちの主観の内側に確たる確信を生じさせる言葉にいたることをはばんでいる」(「野村ワールドの多層言語」)という発言、この発言は野村喜和夫と吉増剛造の詩について述べられたものであるが、こうしたわれわれの日常的コミュニケーションを超えた理解不能性は現代詩だけではなく、ポエジーの世界全体に広がっているものである。いや、もっと正確に言うならば、詩的なものを抱えた作品すべてに存在している。それが、小説であろうが、戯曲であろうが、書評であろうが。それゆえに、語一つ一つが持つ堅固な意味、語の連続によって伝達される一義的意味を一度解体し、再構築する必要性が生じるのだ。この作業は言葉と言葉との関係に新たな道を通す行為であるゆえに横断的なものとなるのだ。
作者の存在性と対話について
ここでは『岡本勝人書評集成』において展開された批評のアプローチの方法についてポエジー、 クロノトポス、横断性という三つの視点から考察してきたが、このテクストを終えるにあたって、「作者のアイデンティと自己の多重性はどのような関係にあるのか?」と「詩的な対話というものは可能であるか?」という二つの問題に関する検討を行いたい。何故なら、この二つの問題は詩という存在に対する根本的な問であるだけではなく、岡本氏の文学に対する探究姿勢とも深く係わっているからである。
最初の問いに関しては自己 の多重性という事柄について語る必要がある。バフチンはテクスト空間内での対話性に関する詳細な探究を行ったが、対話空間はテクスト内の言表連鎖によってのみ実現されるものではない。言語学者のオズワルド・デュクロは一つの言表の中にも様々な主体の声が響き合っていることを示すポリフォニー理論を展開した。デュクロのこの理論に言及する前に、強調しなければならない点がある。それはデュクロの理論はバフチンのポリフォニー理論とは異なり、言表連鎖によって成り立つテクスト空間を対象としたものではないという点である。デュクロの理論は上記したように一言表内に存在する複数の声の問題を解明するためのものである点を注記する必要があるのだ。フランス語を例にしてこの理論を説明しよう。
« Jean a dit que Pierre était gentil. (ジャンはピエールが優しいと言った)» という言表を「私」が誰かに言った場合、この言表の話し手 (locuteur) は「私」であり、que以下の節の発信者 (émetteur) はジャンである。この言表には二つの異なった主体の声が混じっている。だが、« Jean a dit que la terre tourne autour du soleil. (ジャンは、地球は太陽の周りを回っていると言った)» と「私」が誰かに言ったとすれば、この言表の話し手は「私」であり、発信者はジャンであるが、que以下の事象が真であることの責任を担う主体、すなわち、発話者 (énonciateur) はon (人間全体) である。この言表には三つの主体の声が混じり合っているのだ。このように一言表内でも様々な声が響いているのを聞くことができるということは、対話というものの地平を大きく開く可能性を提示するものであり、一つの言表の中に様々な声が存在することは自己の多重性の一つの証明になり得る。もしそうでないならば、一言表もテクストもその語り手や作者の声だけしか聞こえないはずだからである。しかしながら、事実はそうはなっていないのだ。
ここで、マラルメが「詩の危機」において語った「純粋な著作の中では語り手としての詩人は消え失せて、語に主導権を渡さなければならない」という言葉について考察しよう。これが「作者の死」と呼ばれるマラルメの有名な主張である。それでは誰が語るのか。言葉が語るとマラルメは答えるが、その言葉に主体はないのだろうか。問題はバフチンが言うように詩というジャンルのテクストの持つ非対話性という点である。バフチンの考えは、どのような言葉であって、言葉は誰かによって話されたものであるというものだ。その語り手が誰かということが、それが誰に向かって話されたかがもう判らなくなったとしても、その言葉にはそれを語った主体の声の響きが、その主体の残り香が漂っている。作者は死ぬが言葉は残る。そうであるならば、作者のアイデンティティは言葉の中での様々な声の交差の中で復活するものではないだろうか。それがテクスト空間上で構築される対話関係である。これがこのセクションの初めで語った第二の問いへの私の答えである。
だが、この答えだけでは十分ではないだろう。パウル・ツェランの発言を聞こう。ツェランは「詩はたしかに永遠性を必要とします、しかし、詩はその永遠性に時間を通り抜けて達しようとします。時間を通り抜けて であって、時をとびこえてではありません」(飯吉光夫訳 in 『パウル・ツェラン詩文集』) と述べている。バフチンは詩というジャンルのテクストには対話性が存在しないと言った。だが、その対話性はクロノトポスという時空間上での対話関係であって、カイロホドスという時空間における対話関係ではない。小説的なテクストは客観的な時間と登場人物の存在する具体的な場所としての空間がなければ、あるいは、批評的テクストにおいても、歴史的な時間や社会的な場といった基準点がなければ、テクスト空間が破壊されてしまう。だが、詩というジャンルのテクストはカイロホドスという特異な時空間をベースとするため、その対話性は通常のものとは大きく異なる。ツェランの「詩は時間を通り抜ける」が、「時間をとびこえるのではない」という発言はこのことを意味すると私には思われる。そうであるならば、空間においても、「空間を通り抜けるのであって、空間をとびこえるのではない」と言うことができる。永遠を目指すための対話とは何か。それはイマージュ空間内で様々な主体の声が戯れる特別な対話であるのではないだろうか。
しかし、岡本氏はこの書評集の中でしばしば詩集や小説の作者の故郷やある特定の地名について言及している。例えば、岡本氏は「大切なものをトポスとする甲府から、「山本育夫&雨宮慶子」の風が吹いてくる」と述べ、野村喜和夫について「時代は、矛盾も対立も併存する転換期である。三・一ー以降の緊張状態のつづき危機のなかで、詩によるトランジッション (変化への対応) は、可能であろうか。詩人としての身体性の場所に生き、隣接町域へと志向する」と述べている。こうした言及とテクストとの対話という問題との関係性は何であろうか。故郷といったものや同時代性といったものは作者の個別性あるいは個体としてのアイデンティティに関連するものであり、マラルメが言っている「作者の死」によって実現するイマージュ空間の開示という視点からは逸脱したものではないか。この問題については以下のように答えることができるのではないだろうか。詩句の中の言葉は日常言語としての語句ではない。それぞれの語や詩句は作者によって語られたものである一方で、それらの後や詩句は、日常言語の、あるいは、ラングの軛を壊され、かつて誰かによって誰かに向けて話されたが、もはやそれが誰なのかが知ることのできない原初的な対話空間を取り戻す。
それは失われた対話空間を求める旅となるのだ。もう一つ重要な問題がある。それは岡本氏がテクス内の動きを中心的に見るミクロ連鎖的アプローチよりも、テクスト以外の要素も考慮に入れたマクロ連鎖的アプローチを解釈視点として尊ぶのにはカイロホドスからクロノトポスへの回帰を望む批評的傾向があるからではないだろうか。それはテクスト内部のイマージュ空間の広がりだけではなく、社会的、歴史的な時空間も導入することで、テクストのマクロレベルでの大きな対話性を求めるからであると私には思われる。
ハンス=ゲオルク・ガダマーは「詩と対話――エルンスト・マイスターの死についての考察」において、「われわれが理解したいと思うのはつねに、詩の響きがわれわれに語るような全体である。この全体は、しかし、思考するものとしては、われわれはけっして完全に言い表わすことができないものなのである。詩はこのような仕方でそれ自身と絶えず対話しているのだから、つねに自身、対話なのである」(巻田悦郎訳 in 『詩と対話』) という言葉を語っている。詩というジャンルの作品にも対話性は存在するが、その対話性は一般の対話性ではないが、絶えざるポリフォニーの源泉となるものであるのだ。それゆえ、最後に私はパウル・クレーの次の詩句を引用してこのテクストを終わりにしたい。この詩句が岡本氏の解釈視点とぴったりと交わってはいないが、ポエジーに基づく書評の向かう水平線がはっきりと示しているからである。
ジンテーゼとは、結び目。
アナリシスとは、その糸。
ゴルディウス王の結び目は
あまりに複雑なジンテーゼの
シンボル。
燗熟文化。
その要素は
もう見分けもつかない。
新しい人 は
この結び目を破滅的に片付けて
初めからやりなおす。
『クレーの詩』、高橋文子訳
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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