「老い」を生きるー上野千鶴子『アンチ・アンチエイジング』を読みながら

 私は小学校1年の3学期から、家庭の都合で、母方の祖父母の家で暮らすことになった。弟は、父の姉夫婦に連れられて、田川の炭鉱地帯へ、まだ3歳少し前の妹は、母とともに山口県に移り住んだ。いわゆる「一家離散」である。父はその頃、どこで何をしていたのか・・・知らないままだ。

 また、まったく迂闊なことだが、私は母方の祖父母の生年も、それゆえに年齢をも知らないまま過ごしてきた。ただ、今から思うに、福岡県行橋市の役場の土木課で働いていた祖父は、その頃はすでに退職していたから55歳は確実に過ぎていたのだろう。祖父も祖母も、50歳の半ばか後半か、ひょっとすると祖父は60歳代に入っていたかもしれない・・・。毎晩、一枚の布団に祖母と一緒に寝ていた私は、長じた後、次のような短歌を詠んでいる。

 ぽてぽてと祖母の垂れ乳触るるやう熟柿両手で抱へつつ吸ふ

 私が祖父母の家で暮らしたのは2年足らずだったが、その後、祖父母の力添えがあったのだろう、私の「家族」の再結集、再出発となった。ただその後も、私たち姉弟妹は、夏休み、冬休み、春休みは、決まって祖父母宅へ追いやられたものだ。その祖父母宅での暮らしの中で、当たり前に「神経痛」だの「リウマチ」だのの病名が耳に入ってきたし、しょっちゅう祖母から、「さちこ、肩揉んでくれ」と頼まれ、「ちょっと、針に糸、通してくれ」も日常茶飯事だった。

 偶に近所の祖母の友達が立ち寄って、玄関先や台所の板の間でお喋りをしている時など、祖母は「足腰立たんようなったら、さちこはママ(お米)炊いてくれるかのう・・・」と口にすることもあった。

 その頃の私は、ただただ「外で友達と遊ぶこと」だけが楽しかったけれど、祖母に頼まれれば素直に従ったし、「役に立つ」ことは嬉しかった。しかも、祖父母との暮らしは、未だ30代初めの若い父母との暮らしからは想像もつかなかっただろう「人間の老い」という世界を、漠然とながら感じ取っていたような気がする。

ボヴォワールの『老い』(上下巻)の中の「老い」

 ボーヴォワールの有名な『第二の性』執筆は、彼女41歳の時。『老い』上下巻は62歳の時である。

 上野千鶴子は、次のように書いている。

「当時のフランスで女が老いることは、今のわたしたちが想像するよりも苛酷な経験だったはずだ。女性に年齢を聞くのは失礼、という「礼儀」がまかりとおっていた時代のことだ。婚姻上のステイタスが女性の敬称を分かつフランスでは、ジャン=ポール・サルトルと正式の結婚をしていないボーヴォワールは、歳をとっても「マドモワゼル」と慇懃無礼に呼びかけられもした。年齢と婚姻とが女を相応の「指定席」にふりわけた時代は、フランスでも近過去である。」(上野p.2)

 そして、ボーヴォワールの『老い』の書物に分け入って、次のように紹介している。

「老いは醜さ、無力さ、惨めさ、お荷物、厄介者・・・の代名詞であり、ボーヴォワールは「ケンブリッジの人類学者リーチ博士」の発言を紹介する。「55歳を過ぎた者はすべて廃品とされるべきである」(ボ・上12)(上野p.4)

「老女はどんなに努めても男をムラムラさせることができないので、無価値なだけでなく、醜悪だとされる。」(上野p.144)

 さらに、ボーヴォワールは苛烈に次のように記している。

「子供は未来の現役であるから、社会は彼に投資することによって自分自身の未来を保証するのに反し、老人は社会からみれば猶予期間中の死者にすぎない」(ボ上p.253)

アンチエイジングの世相―PPK(ピンピンコロリ)という思想

 上に見たような、「老い」に対する冷酷な蔑視ではない、尊敬される「長寿」イメージが日本や中国には確かに存在していたような気がするが、それも私の不確かな記憶でしかない。その「福々しい長寿イメージ」は、賢く健康な長寿者が極端に稀有な時代の産物だったのかもしれない。

 ボーヴォワールが『老い』を書いた1970年代には直面せずにすんだ今日の「超高齢社会」では、一つは、女性への「エイジズム」(年齢差別)が進む。

 上野千鶴子は次のように述べている。

「わたしたちは「若い(あるいは年齢より若く見える)ことが価値であるような社会に住んでいる。若い者ももはや若くない者も、その価値を内面化している。だからこそ「お若いですね」が高齢者に対する「ほめ言葉」になり、高齢者もそれをうれしがる。・・・若さを維持するためのアンチエイジングは、健康食品やサプリメント、スポーツジム、ファッション、コスメなどさまざまな業界で一大市場を形成しており、高齢者たちはそれに虚しい投資を続けている。いわば自己否定のための投資というようなものだ。」(p.13)

 そのためなのだろう、女優はほとんど「年齢」を公にしないし、研究者も著書に生年や年齢を記さないことが多い。しかも「女性に年齢を聞くのは失礼!」という不思議な「ルール」も未だに生き続けている。

 いま一つ、この「超高齢社会」で問題にされるのが「認知症700万人」と言われる大量現象である。

 ここでも上野千鶴子の文章を挙げておこう。

「その昔、認知症は老年性痴呆と言った。それ以前は耄碌(もうろく)とかボケと呼ばれた。2004年に「痴呆」が「認知症」と改称されたことで、病名の1種になったが、それがよかったか悪かったか。認知症専門のなかには、認知症は病気ではなくただの加齢現象の一種だという見解もある。なぜなら今でも認知症は、原因も予防法も治療法も分からない加齢に伴う現象だからだ。それより「ばあちゃん、この頃耄碌した」「うちのじいちゃん、ボケてきた」と言われる社会の方が、認知症高齢者に対する許容度が高かったかもしれない。」(p.190-191)

 しかし、かつての社会が老人の「ボケ」に対して、いささか寛容であったとしても、現代に生きる人間にとっては、親の「認知症」はまだしも、自分自身の「認知症」の発症を考えることは恐怖である。

 しかも、「認知症」の発症は、どうしても生活する以上は「他人の助けを得なければならない。」この「他人の助け」を必要とする時期のことを、「フレイル期」と呼ぶそうだが、一般的には、男性には9年程度、女性には12年程度続くと言われる。(p.215)

 かつて、「戦後の大ベストセラー」になった有吉佐和子の『恍惚の人』(1972年)は有名だが、それを読んだ平野謙は、当時64歳。有吉との対談で「ボケたら「安楽死」ということにしてもらいたいなぁ、こうまでして生きていたいと思いませんね」と放言したという。(p.197)

 同じような発想が、アメリカの「ウーマン・リヴの母」と呼ばれるベティ・フリーダン(1921-2006)にも見て取れる。フリーダンも『老いの泉』の中で、アメリカ社会の「老いの否認」に前向きに立ち向かっている。にもかかわらず、最後の最後で、フリーダンは次のように書いている。

「幸運であれば、移動中の飛行機の中か路上で死ぬことだろう。」(下84、上野p.216)

 以上のような、「若さ」への執拗な固執、「健康」への維持願望は、結局は「エイジング=加齢=老い」への抗い、すなわち「アンチ・エイジング」である。そして、この「アンチ・エイジング」の行きつく先は、「ピンピン生きて、コロリと死ぬ」=PPK思想に他ならない。結局は人間の「老い」そのものからの逃避なのである。

課題としての「アンチ・アンチエイジング」

 上野千鶴子は、今回の著作で、歴史的な遺産とも言えるボーヴォワールの『老い』(上下)を中心に置きながら、現代社会にはびこる「アンチエイジング」(老いの否認)に対して、さらなる「アンチ」をかました『アンチ・アンチエイジング』の思想と生き方を提示しようと試みている。つまり、当事者も、その周りで関わる家族や介護者もすべて、「老い」をそのまま受け入れられる社会を切望している。

 ここまでの長寿社会を作り上げた人間の歴史的な功績を認めつつ、なおかつ未だ十分に血肉化しえていない「老い」の思想とその関係性を支える制度の構築。・・・まだまだ続く課題である。

「ケアされることには哀しさがある。ケアすることにはつらさがある。年寄りは赤ん坊と違って、自意識がある。」(p.275)

「人は老いる。老いて衰える。やがて依存的な存在になる。人は人の手を借りて生まれ、人の手を借りて死んでゆく。そういうものだ。そのどこが悪いのか。」(p.301)

                               とりあえず了。              
                                2025.11.7

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