- 非物質的欲求の充足と社会的労働
前回は、社会的分業のうちでいとなまれながら、社会的労働の規定をみたしえない労働をとりあげた。かんたんにふりかえっておこう。
資本は、さまざまな手段によって、たえず人間のうちにあらたな欲求を喚起する。この欲求を充足するためのあらたな使用価値をつくりだし、消費に誘導することで、資本は自己増殖をなしとげる。(あたらしい欲求の喚起とあたらしい使用価値の提供は並行しておこなわれるというのが実相だろう。)
これは、ふるくから資本がもちいてきた手法であるが、現在、資本のこの動向がきわだっているのが、非物質的欲求の領域である。物質的欲求にたいしても、資本が、あいかわらずこのやりくちを行使しているのはいうまでもない。「むだなモノ」を買わせるというのは、資本の常套手段でありつづけている。
物質的欲求と非物質的欲求の区分は、それほど確然としているわけではない。しかしながら、この問題にはたちいらないでおこう。(手間がかかりすぎる。)ここでは、ごくおおざっぱに、衣食住の必要(これも社会のありかたと相関的に変化する)から相対的に区別される欲求を非物質的とよんでおくことにする。
日本社会にそくしてみても、こうした非物質的欲求の横溢が、現代のおおきな特徴のひとつであることに異論はないだろう。そうした欲求のうちには、日常的に経験することだが、一過性のものもきわめておおい。問題は、そういった欲求を充足する使用価値を生産する労働である。
そのような労働も、社会的分業の一端として、つまり社会的労働としていとなまれる。しかしながら、そういった労働が、社会的労働のもうひとつの規定をみたしているかといえば、端的に疑義を呈さざるをえない。つまり、そういった労働が、ことばの真の意味で、他者の生に貢献しているとはみなしがたいのである。(むろん、物質的欲求にかかわる労働についても、おなじことがいえる事例はすくなからずある。)
このような考えにたいしては、当然のことながら、異論がでてくる可能性がある。議論の錯綜をふせぐために、焦点を未来社会にしぼろう。かりに、一過性の非物質的欲求を充足するための使用価値の生産が、未来社会でもおこなわれるとしよう。その生産活動も、社会的分業の一端である以上、未来社会の「自然必然性の国」でのいとなみである。
「必然の国」では、生活の維持・再生産ための活動がなされる。それは、「自己目的としてみとめられる人間の力の発展」にとって、「基礎」をかたちづくる領域である。したがって、そこでの原則は、「力の最小の消費」である。この領域にさかれる労力や時間は、必要最小限におさえられるのがのぞましい。
このような原則に照らしてみれば、一過的でしかない欲求のために、「社会の総労働時間」の一部がさかれるというのは、およそ理にかなっていない。そうした欲求そのものを否定するつもりはない。しかし、それを充足するために、社会的分業の体系がつかわれるとしたら、それは、マルクス的視点では、あきらかにあやまりである。
未来社会においても、さまざまな非物質的欲求が存在するであろうし、そのなかには短期間に消滅していくものもあるだろう。そのこと自体は、問題とするに足りない。
しかし、そうした欲求の充足は、社会的分業の体系をとおしておこなわれるべきではない。くりかえしになるが、そのようなことのために、「社会の総労働時間」の一部があてられるなら、「真の自由の国」の実現という未来社会の原則は、根底からくつがえされることになる。
この場合、もとめられるのは、みずからの個人的な営為によって、そうした欲求の充足のための使用価値を製作・調達することである。そうであれば、未来社会において、個人のどのような欲求も、たいていは容認されることだろう。(きまり文句だが、他者に迷惑・危害をおよぼさないかぎり。)
2. 未来社会における非物質的欲求の充足
未来社会における非物質的欲求について、あらためて整理してみよう。
資本による欲求の操作がなくなれば、たとえば現在の日本社会にみられる非物質的欲求の相当数は、きえてなくなることだろう。しかし、資本の支配が終焉しても存続していく非物質的欲求は、当然のことながら存在する。それらのうちには、充足手段である使用価値の生産が、社会的分業の体系によるのが好都合なものもあるだろう。
マルクスの想定では、未来社会では、社会的分業が、「力の最小の消費」によって、物質的欲求を充足するための生産をおこなう。これにくわえて、非物質的欲求を充足する使用価値の一部も、社会的分業によって生産されるとするほうが妥当だろう。
このような使用価値の生産をになうのは、前回で「必然の国」のうちに追加的に設定した非物質的生産の領域である。現在の生産力をもってすれば、「社会の総労働時間」の一部をそのような使用価値の生産にふりむけることは、十分に可能なはずである。
とりあえずの基準をあげてみよう。おおくの人びとが、比較的ながい期間にわたってもちつづける欲求というのが、まず思いうかぶ。それを充足する使用価値は、個人的な調達がむずかしいのであれば、社会的分業のうちで生産されることになろう。
もっとも、ある程度は持続的であるとみなされた欲求が、短期間のうちに消滅することもあるだろう。こうした見こみちがい、あるいはそこから生じる試行錯誤は、未来社会にあっても、完全に避けることはできない。
永続的であることがほぼ確実であるような例にそくしてみていくのがいいだろう。たとえば、未来社会では、もっぱら画業だけに従事する職業画家はいないかもしれない。絵を描くための基底材であるキャンバスや和紙(日本画)も、絵を趣味とする個人が自分でつくることができるだろう。
しかし、油絵具、日本画の岩絵の具・膠は、そうはいかない。これらの生産は、いうまでもなく、現在とおなじように、社会的分業のうちで生産されることになろう。おなじような例は、あげればきりがない。
キャンバス(和紙)や油絵具(岩絵の具・膠)は物資だが、それとは性格を異にする情報の生産も、その一部は、社会的分業のシステムがになうことになろう。この場合の基準としては、たとえば公共性がわかりやすい。だれしもが思いつくのが、報道に関連することがらである。
資本制では、ニュースも、まぎれもなく商品である。すくなくとも、ある程度おおきな媒体が提供するニュースは、商品以外ではありえない。(公共放送は、べつのあつかいが必要なので措いておく。)これは、ニュースに接するにあたって、こちらがわがつねに念頭においておくべきことである。
しかし、そのことは承知でも、最近の報道は、ニュースの商品性をつよく感じさせるものがおおすぎる。中立公平などというつもりはさらさらないが、それにしても、未来社会の報道のありかたは、現在のそれとはおおきく異なるだろう。
そういいながら、具体的なありようは、皆目わからない。完全に自主的な個人のチームで、必要な作業を遂行するシステムがつくられる可能性もあるかもしれない。そうであれば、報道は、社会的分業の一環ではなくなる。その場合でも、必要な機材等の生産は、社会的分業のうちでなされるだろう。
いずれにしても、未来社会でも、多種多様な非物質的欲求が存在することは疑いをいれない。そして、社会的分業の一角が、それに関連する使用価値の生産に従事し、「社会の総労働時間」の一部が、それにわりあてられることになる。
社会的分業をつうじての非物質的欲求の充足は、外面的には、現在とおなじである。くりかえしになるが、マルクスのいう「自然必然性の国」では、ある種の非物質的欲求にかかわる生産活動もいとなまれることになる。
3. 資本による人間の改造
あたためて確認しておけば、資本の操作は、諸個人のうちに、さまざまな非物質的欲求をうみだす。それらのうちには一過性のものもおおく、そうした欲求が、いれかわりたちかわり個人をとらえては消えていく。
この泡沫のような欲求をみたすために、「社会の総労働時間」の一部がわりあてられ、資源とエネルギーがついやされることは、資本制のもとであっても、(たとえば環境問題との関連で)問題視されてしかるべきである。しかし、それと同等かそれ以上に問題なのは、非物質的欲求のこのような転変が常態化していることである。
それにともなって、無数の瞬時的な欲求の転変に身をゆだねて、それらの欲求を渡り歩くようにして生きる人びとが出現している。あたかも、つぎつぎに到来する諸欲求の波にのって、サーフィンを楽しんでいるかのようである。
欲求サーフィンの先にまつのが、旧世代の想像をはるかにこえた充足感なのか、経済的逼迫なのか、はたまた、まったく未知のなにかであるのか、わかりようもない。ただ、確実なのは、こうした生きかた、そして、それにふける人間は、かつては存在しえなかったということである。
現代の資本制社会は、まったくあたらしいタイプの人間をうみだしたといえる。まさしく、資本による人間の改造である。
マルクスの視野のうちには、いうまでもなく、人間のこのような類型はなかった。当然のことながら、かれが構想する未来社会の住人としても、このような人間は想定されていない。
しかし、マルクスは、かりに知っていたとしても、こうした人間を未来社会の住人にかぞえいれたとは思えない。逆にいえば、この現代資本制の申し子が、マルクスのいう未来社会をうけいれることも、まずありえないだろう。かれらが、資本制から脱却することに頑強に抵抗するであろうことは、容易に想像がつく。資本がたえずおこなう操作は、かれらの生活の一部となっているのである。
資本がつくりだすのは、自己増殖に適合的であるだけでなく、資本制そのものの防衛隊ともなるような人間である。資本制が自己増殖をはかることが、そのまま、体制の強化につながっている。資本による人間の改造は、資本制に強靭さを付与する根源でもあるのである。
ひとつのシステムには、おそらく、耐用年数ともいうべきものがある。永続するシステムなどありえない。しかし、その一方で、システムの存続そのものが、そのシステムを強化する。
資本制の耐用年数は、とうに期限をすぎている。(19世紀なかばにマルクスはすでにそう考えている。)しかし、その一方で、資本制は、その本来的な活動をとおして、体制をより強固にすることに成功している。
このようなシステムのうちに生きることには、ある意味で息苦しさをおぼえざるをえない。あちこちにおおきな破綻がありながら、出口がみえないからである。人間の改造ということもふくめて、活動家の人たちが事態をどのようにとらえているのか、まったく見当もつかないが、部外者には、あまりいい光景は思いうかばない。
この2回は、『資本論』の叙述から少し距離のあることがらについて議論をつづけたため、正直なところ心細かった。かぞえてみれば、この書き物も13回になっている。一回の分量は、それほどでもないが、頭のきれも回転もすっかり低下し、文章作成力も崩壊しかかっている身としては、楽ではなかった。たよりない記憶にすがるなら、この連載を開始するまで、たぶん、十年近くまとまった文章を書いていない。
これまで回の文章をみなおすと、舌たらずなところが目につく。その一方で、蛇足も多々ある。連載というかたちは、これらのことについて、多少はすくいをあたえてくれる。それでも、この猛夏に掲載した回については、とくに気になるところがおおい。
さらにいえば、なにかあたらしいことを書こうなどという気は、はなからないが、それでも、あたりまえの議論しかしていない感はつよい。
このあたりで、一息いれて、『資本論』3巻をよみかえし、体勢をたてなおしたほうがいいという気もする。しかし、現在の劣化した読書能力では、『資本論』を通読しなおしたあら、もはや文章が書けない年齢になっているだろう。
このまま『資本論』を拾い読みしながら書き継ぐか、老醜をさらすのはもういいと思いきり、筆をおくか、体調とも相談しながら一週間ぐらい考えてみることにしよう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1369:251115〕












