オルガ・トカルチュク(ポーランド、1962~)の『逃亡派』(白水社:刊、小椋彩:訳)の続き
何もしようのないことが、クニツキ自身を不安にした。何かを見落とすことがないように、一切の変化を書き留める必要があるのではないか。彼はそっと起き上がると、ベッドを抜け出し、食卓に向かう。そして一枚の紙に、半分に線を引いて書き込んだ。前と今。彼が何を書いたか。机は前よりざらざらしていた。単に年齢を重ねたせいかもしれないし、日焼けのせいかもしれなかった。パジャマじゃなくて、スリップを着ていることは? もしかしたら、部屋の空調のせいかもしれない。匂いは? クリームを変えたのか。
彼は、妻が島で使っていた口紅を思い出した。今は別のを付けている! あれは明るい、ベージュの、優しい、素の唇の色だった。今付けているのは、赤い、鮮紅色の、なんと説明したらいいか判らない色、彼には理解できない色、彼は赤と鮮紅色の違いが判ったためしがない。赤紫は言うに及ばず。
クニツキはそろそろとベッドから出て、暗い中、裸足で床に触れると、妻を起こさないように浴室に向かう。そこで初めて、明るい光に目が眩む。洗面台の鏡の棚に、彼女の化粧品が雑然と置かれている。自分の仮定を確かめるため、蓋の一つをそっと開けてみた。口紅は別のものだ。
朝、クニツキは完璧に演技することができる。実際、彼はこう思う。完璧に、と。それから、彼は何か忘れて、家に五分ほど長く留まる振りをする。
「もう先に行って。僕を待っていなくていいから」
急いでいて、書類か何かを探している振りをした。妻は鏡の前でジャケットを着て、赤いスカーフを巻き、子供の手を取る。ドアがバタンと閉まる。二人が急いで階段を降りる音が聞こえる。彼は書類の上にかがみながら、じっと固まっている。ドアを閉じる音が、彼の頭の中で何回か、ボールのように跳ね返る。ずんずんずん。それから、ぱたりと静かになった。彼は大きく息をつき、真っ直ぐに背を起こす。静けさ。彼は、静けさが彼にぴたりと貼り付いて、そのために、自分の動きがゆっくりと、正確でなくなっていくのを感じていた。彼はクローゼットに近づくと、鏡の付いた扉を開けて、妻の衣服の正面に立った。手を伸ばして、明るい色のブラウスを取る。彼女はそれを着たことがない。かなりエレガントな感じの服。彼はそれを指でつまみ、それから掌で絹をなで、そして拳に握ってみた。でもブラウスは、彼には何も言わなかった。それで彼は次に移った。カシミヤのスーツ、これもあまり着ていない。夏のワンピース、シャツが何枚か、ハンガーに重ねて掛けてある。冬のセーター、未だクリーニング店の袋が掛かったまま。裾の長い、黒のコート。これも着ているところを余り見ない。その時、彼は閃いた。これらの服の一切は、彼を欺き、惑わし、困惑の野に連れていくために、ここに掛けてあるのではないか、と。
二人は並んで、キッチンに立っている。クニツキはパセリを刻んでいる。彼は、初めからやり直すのは嫌だ。でも、抑えることが出来ない。彼は感じる。言葉は喉で膨らんで、呑み下すことはとても出来ない。だから、もう一度だ。
「それで、いったい何があったの」
彼女は疲れた声で答える。彼女の口調は、こう言っていた。もうそれは何回も話したでしょ。つまらないし、しつこいわ。
「ええいいわ、もう一度。気分が悪くなったのよ。多分、何かに当たったんだわ。言ったでしょ」
でも、そう簡単には引けなかった。
「車を降りた時は、なんともなかったじゃないか」
「そうね、でも後から悪くなったのよ。悪く」。彼女は満足そうに繰り返した。「多分一瞬、気を失ったわ。あの子が泣き出したから、気がついたの。ひどく脅えてて、それで私もすごく怖くなったわ。車に戻ろうとしたけど、そういうことがあったから、方向をすっかり間違えちゃったのよ」(中略)
クニツキは一度も、一日一日を憶えていないことについて、考えたり、心配したりしたことはなかった。月曜日に何をしたか覚えていない。先週の月曜さえも、先々週の月曜も。一昨日、何をしたか覚えていない。ヴィスを発つ直前の木曜を思い出そうとしたけれど、やっぱり何も思い出せなかった。ところが、一旦集中すると、彼には記憶が戻ってくる。二人があの小径を歩いていたところ、繁みが足元でかさかさ音を立てていたこと、乾いた草が靴の下で粉々に砕けたこと。(中略)でも、それからどうやって帰り、その夜がどんなだったかは、もはや彼には言えなかった。そして、別のどの夜のことも憶えていなかった。何も憶えていない。みんな脇を通り過ぎていった。憶えていないということは、存在しなかったということだ。
ディテール、ディテールの意義。以前はそんなものについて、真面目に考えたこともなかった。でも今、彼は確信していた。もしそれらを論理の細かい鎖で繋げられたら。理由、プラス、結果。一切が明らかになるだろう。落ち着いて机に向かい、紙を取り出す。大きめの判型の方がいい。できる限り、大きいのが。丁度ぴったりなのがある。本を包んでいる紙だ。その紙に、一切を、順を追って書き出すのだ。なぜなら、そこに表れるものこそ、真実だから。
よし、了解。彼は包みを開き始めた。ビニールの紐を切ると、よく見もしないで本を抜き出し、積み上げた。どれもベストセラー。くだらない本ばかりだ。そうやって、大きな灰色の紙を引っ張り出すと、机に広げた。(中略)そうだ。小さなガソリンスタンドで給油した。確かアイスクリームを買ったと思う。それから天気も憶えている。蒸し暑かった。雲がミルクのようだった。(中略)
クニツキは安堵の溜め息をつき、タバコを取り出す。仕事は終わった。彼はこの瞬間を朝から待っていた。落ち着いて写真を見るために、彼はカメラをコンピュータにつないだ。
「リベラル21」2025.12.03より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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