韓国通信NO781
私より七歳年長だが、親しみを込めて武智さんとお呼びする。
『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた…』を読んだ。いただいてから10年、そして亡くなられて4年たっていた。
初めてお見受けしたのは東京駒込の東京琉球館だった。朝露館(関谷興仁陶板彫刻美術館/益子)の会報の発送作業に集まる常連の一人だった。
封筒に2千枚近い会報を入れる作業は、ばかばかしいほど単純で人手が必要だった。武智さんは毎回欠かさず来ては黙々と楽しそうに流れ作業に加わっていた。
朝露館には武智さんが翻訳した『ショア』という文学作品から生まれた巨大な陶板作品が展示されている。2018年にはクロード・ランズマン監督のドキュメンタリー映画『ショア』(ホロコースト)鑑賞会のゲストにお呼びしてから親しくしていただいた。
本を読まなければ高橋武智さんとはそれまでだった。
実は折角いただいた336ページの大著をもてあましていた。退屈な内容だったら途中で止めるつもりで読み始めたが、目が離せなくなり精読。生前、本の内容についてお話しできなかったのが悔やまれる。

小田実さんらが始めた「べ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」の略)の運動と基軸を一にして、武智さんたちはジャテク(Japan
Technical Committee to Aid Anti War
GIs)という市民組織を作った。脱走したアメリカ兵の逃亡支援活動をした。不戦の決意をした兵士を支援して日本国外へ脱出させるのが目的だった。政府にベトナム戦争に加担するなと求める一方、米兵に不戦の活動を訴え続けたべ平連の活動とは不可分の関係にあった。詳しく説明することができないのが残念だが、以下感想のみを記しておきたい。
高橋武智さんはフランスへ国費留学(1965~67)の後、仏文学者として嘱望されていた大学の教員の職を辞して、ジャテクの活動に専念、ヨーロッパ各地で5か月間、米兵脱出の意義を語り、脱走兵士の援助を求めた。成果として何人もの兵士を海外に脱出させることに成功したが、何よりの成果はわが国の反戦運動の国際化(情報交換とネットワーク化)だった。
1967年、横須賀寄港中の航空母艦イントレビッド号の四人の水兵が脱走した事件を記憶する方も多いと思う。その後も米軍兵士の逃亡が続き、ジャテクの活動家たちは逮捕を覚悟して兵士たちの逃亡を支援した。支援者たちにはベトナム戦争に心を痛める名もない人たちが含まれていたという。本書はお互いにコード名で連絡をとりあった人たちに感謝の思いを込めて、半世紀ぶりに活動の全貌と評価を明らかにしたい思いがあったようだ。
著書はジャテクの活動とわが国の反戦運動の歴史を回顧したもので、1960年代後半からベトナム戦争が終わるまでべ平連とともにした非公然の活動が生々しい。
興味深いのは世界で止むことのない戦禍と、危機に陥った民主主義への警告として語られている点だ。中でも市民運動の実践者として1968年に起きた「パリの学生革命」前後の社会状況を振り返りながら、今後の市民運動と市民の生き方について大きな示唆を含む内容となっている。「パリ学生革命」はベトナム戦争反対運動から生まれた若者たちの反乱(異議申し立て)として記憶される。不条理な社会に対する若者たちの怒りの爆発は世界中に広がり、わが国の市民運動、全共闘運動、成田闘争、公害闘争、前後するがアメリカの公民権運動、中国の文化大革命などとともに世界中に火がついたような状況が生まれた。
社会人になったばかりの私も、湧きかえるような当時の雰囲気が忘れられない。新谷のり子の『フランシーヌの場合は』が空前のヒットをしたのもこの時期だ。
<私の革命>
自分の人生と重ね合わせながら読んだ。
実は、私にとっても1968年は「革命」の年だった。最初の子どもが生まれ、親になった自覚が私に人生の選択をさせた。入社時に会社に労働組合に加入しない誓約書を書かされた。それを無視して危険な道を歩み出した。どこか徴兵された兵士の逃亡に似ている。横暴な経営者だったが解雇はできなかった。解雇がまた新たな脱走者を生むことを心配したからだ。解雇を免れた私は組合加入者を求め続ける危険人物となった。べ平連みたいになった。
「こころよく 我にはたらく仕事あれ…」と啄木のように思い続けたが、自分の心と頭と行動の自由だけは確保できた。私は啄木が亡くなった26才になっていた。
壊したいほど不自由な職場にいながら、学生たちの「大学解体」の要求に共鳴しつつ成田闘争に市民として参加。小田実のべ平連はいつも身近な存在であり続けた。高橋和巳や羽仁五郎に心酔したノンセクト、時にはやや過激な自由人であり続けた。1996年、銀行は本来自分がいるべき場所ではなかったと悟り、「石をもて追われるごとく…」退職した。それから30年、私の革命は終わらない。
<再び高橋武智さん>
自分の活動を書き残し、陶板作家の関谷興仁さんとその仲間たちを敬愛し続けた静かな革命家、高橋武智さんの姿が忘れられない。
著者は「おわりに」でマリアン・アンダーソン(黒人歌手)の歌を思い出し、「誰も知らない 私が目にしたものを Nobody knows what I saw 誰も知らない 私の悲しみ… Nobody knows my sorrow」という歌詞を紹介しながら、「どうやらぼくのなかでは、苦難に満ちたアメリカの黒人と死者たちの姿が二重写しになっているようだ。思うに、人は過去の喜びやよき思い出によっても生きるが、辛い思い出によって生きることもある。」と、やや感傷的な文章で締めくくった。晩節は誰にでも淋しいものだろうか。
私も来年84才になる。
(2025.12.1)
「リベラル21」2025.12.09より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6928.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14558:251209〕












