高市政権こそが「存立危機」である
維新という流木にしがみついた高市自民党
今の自民党を見ていると、「溺れるもの、藁をも掴む」という言葉を思い浮かべる。議会で単独で過半数を維持できなくなってから、自民党は公明党という浮き輪に掴まり、かろうじて水面から顔をだしていた。しかし、裏金という犯罪行為などの悪癖は治らず、有権者に愛想を尽かされた自民党は公明党と併せても過半数に届かないという事態に陥った。本来は下野して真剣な反省をすべきだった。公明党にも愛想を尽かされ浮き輪が流れ去って、渦の中に溺れる事態となった。
溺死寸前の自民党のなかには「岩盤保守」の支持に期待する勢力もあり、高市という人物を総裁に選んだ。高市氏はバタつかせた手に当たった流木にしがみついた。日本維新の会である。連立を組んだその維新の会は突然、議員定数の削減こそが最重要政治課題であると言い出した。その根拠の説明はほとんどない。定数削減によって期待される予算の節約は微々たるものだ。
維新の会の主張の背景として考えられるのは、拠点とする大阪の府議会で議席数を削減してきたことである。維新が府知事の座を占めて以降、109議席から79議席へと3割近く削減されてきた。顕著な変化としては、少数野党が議席を確保しづらくなったことである。109議席の時の勢力図は大阪維新が57議席で辛うじて過半数を占める程度であったが、現在では79議席中51席でほぼ3分2を占めている。これが維新の会の「成功体験」なのであろう。
議員定数削減法案の愚劣さ
しかし国政では、議席の「一票の格差」について度々、違憲判決も出ていて、各政党を交えての慎重な検討が求められているところである。維新の会が主導した法案は、削減のあり方が与野党で合意しなければ、一定数を自動的に削減するとする非常識な項目を含む異例なものとなっている。国会に議席をもたない維新の会の代表なる人物に、国会がかき回される事態となっている。
日本の国会議員数は人口比例で、先進7ヶ国のなかでも最も少ない方だと言われている。議員数を減らして議会がさらに活性化するとも思えない。議員数を減らした大阪府議会が議会としてよく機能しているかは否定的にならざるをえない。コロナ禍で人口当たり最も多くの死亡者を出したのは大阪府であった。維新府政によって市民病院や保健所の縮小再編など、保健・医療のインフラが削減されたことが原因の1つだっただろう。議会のチェック機能がまともに働いていれば避けられたのではないか。
参議院選挙では、一票の格差調整の結果、「合区」が発生している。一県で1人の議員も出せないということである。各地方の要求を国政に反映するためには、最低でも一県あたり1人の議員を送り出せるようにすべきだろう。そのためには、逆に多少の議員定数の増加があってもよいと考える。どこの国においても、地域の多様性は国力の基になっていて、大切に扱うべきものだからだ。多少とも全国を歩けば、日本社会の地域の多様性も実感できるはずだ。
たとえば筆者は教育研究者として各地を取材してきた。ある県で少子化によって公立高校の学区統廃合の検討が必要になった。関係者の間から、旧国単位が適当ではという意見が出たという。律令制下の国である。その県は明治政府による府県制の整理によって3つの旧国が統合されて成立している。地図を見たり現地を歩いたりすると、確かにそれぞれ地理的、文化的に独自性があるのである。学校教育に地域性を反映させることは、次世代を育てるうえで意味のあることだろう。
広島市での話である。ある団体の関係者へのインタビューの中で「ビンゴモン」という筆者には意味不明な言葉が出てきた。その語になにか差別的なニュアンスを感じたこともあって、その場では聞き流した。ホテルに戻ってノートを整理しながら、それが「備後者」だと気づいた。広島県は安芸の国と備後の国からなっている。江戸時代、備後には親藩が置かれ、西国の毛利や浅野といった外様大名に睨みを利かせていたこともあって、今でも折り合いが悪いらしい。日本各地には歴史的に形成されてきた地域性が根付いている。選挙制度には各地域の要望などが中央に届けられる仕組みが必要である。
自民・維新の連立から突然飛び出してきた議員定数削減案は、「一票の格差」に関して司法が積み上げてきた判断も無視した、合理性も妥当性もない、やっつけ仕事の法案である。高市首相はしがみついた流木に振り回され、このような杜撰な法案の提出も止められない。彼女に首相の仕事は務まらないということだ。
高市という危機
今回の台湾海峡をめぐる存立危機発言は、高市氏の「岩盤保守」を意識した歪な歴史認識が背景にあったと思われる。氏の空虚で空疎な歴史認識は、彼女のウエブサイトにいまだに掲載されている日中戦争・太平洋戦争の総括記事を読めばわかる。
https://www.sanae.gr.jp/column_detail359.html
満州については張作霖・張学良に責任があり、日中戦争では日本は国際法に基づいた正当な行動をしていたとする。国民党(蒋介石)政権の「挑発行為」や、アメリカ、イギリスなどのこれを支援する勢力の動きに問題があったというのである。高市氏は記事のなかで「日本の行った戦争を『侵略戦争』と総括するには無理があります」とまとめている。しかし、これではドイツの現首相が、「ドイツがポーランド分割で第二次世界大戦を引き起こしたのは、スターリンやチャーチルなどの腹黒い政治指導者に嵌められたからで、ドイツに責任はない」と言っているようなものである。
日米同盟を外交の根幹とする現日本政府の首相に就任した際、このような記述は早急に削除されるべきだったはずであるが、いまだに掲載されている。彼女の危機管理能力の欠如を表している。これ1つとっても、高市氏に日本の政治を委ねるのは危険すぎる。
中国は今や日本の最大の貿易相手国である。安定した外交関係の維持は日本にとって必須である。しかし、高市氏の底の浅い政治的発言によって、日本はよんどころないところまで追い込まれてしまっている。他の閣僚や官僚たちは、氏の発言が従来の日本政府の見解を超えるものではないと一生懸命カバーしようとしているが、それには無理がある。高市首相が自らの発言の撤回を明言するか、首相の職を辞するか、速やかに決断しない限り日本側の傷は深くなるばかりである。
高市氏の今回の発言とその後の言動は見慣れたものである。自身が党代表を務める奈良県の知事選挙での失態、立候補者調整の失敗から自民の分裂選挙となり維新に知事の座を奪われたこと、また総務大臣として、放送法解釈を巡る自身の発言を記録した行政文書を捏造と主張し、自らの責任を頑なに認めなかったなどのトラブルと同様なのである。自分の力を過信して動いたものの、期待していたようには事態が動かず責任を追及されると、他人に責任を押し付けて逃げる。政治家としては最悪の態度である。
日本政府が北京政府と国交樹立した際、北京政府が唯一の正統な政権であり、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとする北京政府の見解を共有することを明言した。したがって、万一、台湾と中国本土の間で軍事紛争が起きたとしても、それは「内戦」である。内戦に対して局外にある他国ができるのは、国際社会の一員として平和的解決を求めて働きかけることしかない。
内戦に際して「自国の存立危機」だとして、日本がどちらか一方に肩入れする軍事行動をとるなど、あり得ない選択だということは、少しでも国際社会の政治動向に関心をもつものには分かることである。日本の侵略によって10000000人の犠牲者を出したと推測される日中戦争を反省し、また古代日本の歴史に思いを馳せて中国文明の恩恵に与ってきた日本の歴史を少しでも知れば、今回のような軽率な発言はあり得なかっただろう。とんでもない人物を首相に据えてしまったと、あらためて思わざるをえない。今までの彼女の不始末は国内的な摩擦で済んできたが、今回は外交問題である。高市氏が一刻も早く自分の能力不足を認めて退陣することが国益に資すると言わざるをえない。
「リベラル21」2025.12.18より許可を得て転載
http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-6936.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14572:251218〕













