マリオ・バルガス・リョサ(ペルー/スペイン語 1936~2025)の著作『街と犬たち』(光文社:刊、寺尾隆吉:訳)
ラテン・アメリカ文学を牽引するノーベル賞作家による圧巻の長編デビュー作の力強さに感じ入った。彼は2018年度のノーベル文学賞受賞者で、授賞理由は「権力構造の地図と、個人の抵抗と反抗、そしてその敗北を鮮烈なイメージで描いた」。そのデビュー作で代表作の一つ『街と犬たち』の一部を以下に私なりに紹介したい。
初めてリマ(ペルー共和国の首都)に着いた夜以来ずっと住んだ新マグダレーナ区サラベリ通りの家のことも、十八時間も車で移動する間ずっと窓から見ていた廃墟同然の町や砂原、小さな渓谷や海や綿花畑、そしてまた現れる町や砂原のことも、すっかり記憶から消えていた。道中は、窓ガラスに顔をくっつけたまま、体中が興奮で疼いているように感じられた。<リマへ行くんだ>母親は、時折息子を自分の方へ引き寄せながら「リチ、リカルディート」と囁きかけていた。彼は考えていた。<なぜ泣いているんだろう?>他の乗客は、うとうとしているか、何か読んでいるかであり、運転手はずっと陽気に同じメロディーを口ずさんでいた。リカルドは、朝も昼も夕方もじっと目を覚まして耐え続け、松明の行列のように光を並べた街がいつ現れることかと待ち構えていた。
疲労で手足の感覚が次第になくなり、五感が鈍ってきても、ぼんやりした頭で必死に歯を食いしばりながら、<寝てたまるか>と自分に向かって繰り返した。そして突如、誰かに優しく体を揺すられた。<着いたわよ、リチ、起きなさい>母の膝に乗せられており、頭を肩に預けていた。寒かった。いつもの唇が彼の口に触れ、夢の中で猫に変身してしまったような感覚に囚われた。車はゆっくり進んでおり、曖昧な家並みや光、木立が見えたほか、チクラヨの目抜き通りより遥かに長い大通りが伸びていた。数秒経ったところで、ようやく他の乗客が既に全員降りていることに気がついた。運転手は相変わらず歌を口ずさんでいたが、大分疲れているようだった。
<どうなんだろう?>彼は考え、三日前、こっそり母に呼ばれた時と同じ激しい不安に襲われた。アデリーナ小母さんに聴かれぬよう声を落とした母は、「あなたのお父さんは死んでなんかいないのよ、長旅からやっと戻って。リマで私たちを待っているわ」と打ち明けてきた。
「着いたわよ」母は言った。「サラベリ通りでしたね」運転手が歌うような調子で言った。「ええ、38番です」母が答えた。目を閉じて、眠ったふりをすることにした。母がキスしてきた。<なぜ口にするんだろう?>リカルドは思いながら、右手でしっかりと座席を掴んだ。何度も曲がった末、ようやく車は停止した。目を閉じたまま、支えてくれる体の上で身を丸めていることにした。突如母の体が強ばった。「ベアトリス」声が聞こえ、誰かがドアを開けた。体が持ち上げられ、地面に下ろされて支えを失ったところで目を開けてみると、母が男と抱き合ったまま口と口でキスしていた。運転手は鼻歌をやめていた。通りに人気はなく、ひっそり静まり返っていた。じっと二人を見つめていると、二つの唇が数字を数えながら時を刻んでいるようだった。やがて母は男から体を離し、彼の方を振り向いて言った。「あなたのお父さんよ、リチ、さあ、挨拶なさい」再び見知らぬ男の両腕に持ち上げられ、大人の顔が彼の顔に近づいてきたところで、彼の名を呼ぶ声が聞こえ、乾いた唇が頬に押し付けられた。彼はずっと身を強張らせていた。
その日の夜のことも記憶から消えており、敵意に満ちたベッドのシーツが冷たかったことも、光でも物でもいいからとにかく何か見つけようと必死に目を凝らしながら孤独を紛らわようとしたことも、不安が心に重い釘を打ち込んできたことも、すっかり忘れていた。「セチューラの荒野で、夜になると狐たちは悪魔のように吠えるのよ、なぜかわかる? 恐ろしい沈黙を破るためよ」かつてアデリーナおばさんは言っていた。全てが死んだようなあの部屋で、彼は叫び声を上げて生命を呼び覚まそうかと思った。
下着姿で裸足のままベッドから起き上がった。もしこんな姿で立っているところに両親がいきなり入ってきたら、どれほど恥ずかしくてバツの悪いことだろう、そう思うと体が震えたが、それでも、ドアの処まで進んでドア板に顔をくっつけてみずにはいられなかった。何も聞こえなかった。ベッドへ戻り、両手で口を覆って泣いた。部屋に光が刺し込み、通りに物音が溢れ始めても、彼はじっと目を閉じたまま聞き耳を立てていた。かなりの時間が経った後、ようやく二人の声が聞こえてきた。小声で話しており、曖昧な音しか彼の耳には届かなかった。そして笑い声が聞こえ、動きが感じられた。少し後でドアが開いたことが判り、足音、気配に続いて、馴染みの手がシーツを首まで上げた時に、熱い息が頬に感じられた。目を開けると、母がにっこり笑って、「お早う」と優しく言った。「母さんにお早うのキスは?」「嫌だ」彼は言った。
<会いに行って、二十ソル(当時のレートで一ドルは約二十ソル)くれと言ってみようか、眼に涙を溜めて四十か五十くれる姿が目に浮かぶな。でも、それじゃ、ママにしたことは赦してやる、金さえくれれば勝手にしろ、と言ってるのと同じことだな>
数か月前に母から貰った毛糸のマフラーの下で、アルベルトの唇が音もなく動いている。耳まで被った帽子とセーターで寒さから身を守る。体は既に銃の重みに慣れ、ほとんど何も感じなくなっている。
<会いに行って、金を拒んで何の得になるんだ、自分の過ちを反省して戻ってくるまで、毎月小切手を送らせておけばいいじゃないか、そう言ってみようか。でも、眼に浮かぶな、すぐに泣き出して、神様のように諦めて十字架を背負わねばばらないのよ、なんて言い出すことだろう。それはいいとしても、一体いつ仲直りするか知れたもんじゃないし、これで明日の二十ソルは台無しだ>
規則によれば、歩哨は所属学年の中庭と練兵場を見回らねばならないが、その日の当番に当たっていた彼は、宿舎を背に、校舎正面のファサードを守る色褪せた高い柵に沿って歩いている。そこからだと、柵の麓から崖っぷちへうねうねと伸びていくアスファルトの通りが格子越しにシマウマの脊のように見え、波の音が届いてくる。霧が濃くなければ、遥か彼方で防波堤のように海へ入り込んでいくラ・プンタ海水浴場の波止場が光り輝く槍のように見え、反対側へ目をやれば、見えない湾を扇状に光で囲う地元ミラフローレスまで一望できる。夜警の士官は二時間ごとに歩哨の点呼をとるから、1時までに持ち場に戻っていれば大丈夫だ。(続く)
「リベラル21」2025.12.25より許可を得て転載
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