侵略者の相貌 - 歴史から何を学ぶべきか

二〇世紀前半、世界は二人の巨大な破壊者を生んだ。アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンである。両者は思想的には正反対の位置に立っていたが、既存の世界秩序を憎悪し、それを力によって書き換えようとした点において、本質的に同型の存在だった。ヴェルサイユ体制への復讐を叫んだヒトラーも、資本主義的国際秩序の打倒を掲げたスターリンも、現存する国境線や国際ルールを「不正な拘束」とみなし、暴力による再編を正当化した。

重要なのは、彼らの侵略が防衛や安全保障の延長ではなく、既存秩序そのものへの敵意、さらには破壊そのものを目的化した欲望に突き動かされていた点である。ポーランド侵攻も、バルト三国併合も、そこにあったのは限定的な修正要求ではなく、世界の枠組みそのものを否定する衝動だった。

この「侵略者の相貌」は、決して過去のものではない。現代において、それを最も明確に体現しているのが、ロシアのプーチンと中国の習近平である。ウクライナ侵攻に際してプーチンが示したのは、安全保障上の具体的脅威への対応というより、主権国家という概念そのものの否定だった。「歴史的ロシア」という神話を持ち出し、国境線を恣意的に解体する論理は、ヒトラーがチェコスロヴァキアやポーランドに向けて用いた言辞と不気味なまでに共鳴する。

習近平政権もまた、南シナ海や台湾をめぐって、国際法や合意を「西側が押し付けた不公正な秩序」と位置づけ、それを力によって修正することを正当化している。そこにあるのは、現行秩序を部分的に改革する意志ではなく、正統性そのものを否定する姿勢である。

しばしば、こうした動きを「反グローバリズム」「反米覇権」という枠組みで理解し、一定の共感や免罪を与えようとする議論が現れる。しかし、この視点は決定的に誤っている。なぜなら、それは結果として、ヒトラーやスターリンが用いた秩序破壊の論理を、現代的な言葉でなぞることに他ならないからだ。

反米であること、反グローバリズムであること自体が侵略を正当化するわけではない。だが、国際ルールや主権原則を「支配の装置」として全面否定し、武力による変更を容認する地点に立った瞬間、それは侵略者の側に立つことを意味する。ヒトラーもスターリンも、常に「不公正な世界秩序への抵抗」を自らの免罪符としてきたのであり、その構図は現在も繰り返されている。

決定的なのは、プーチンと習近平が共有しているのは、新しい世界秩序の積極的な構想ではないという点である。しばしば両者は「多極化」や「新しい国際秩序」を語るが、そこに具体的な規範や普遍的原理は存在しない。主権、法、ルールといった概念は状況次第で恣意的に解釈され、最終的に残されるのは、ただ力の大小と均衡だけである。

つまり、彼らの世界観は未来志向的な秩序構想ではなく、二〇世紀以前の裸の勢力圏政治への退行である。強者が弱者の運命を決め、合意や法は力によって無効化される。この地点において、反米や反グローバリズムは思想ではなく、単なる破壊のためのレトリックに堕している。

侵略者の相貌とは、特定の思想や国籍に宿るものではない。それは、既存の世界秩序を否定する一方で、それに代わる普遍的原理を提示できず、最終的に力の均衡論だけを残す態度そのものである。プーチンや習近平に与して「秩序批判」を行うことは、結果としてヒトラーやスターリンの側に立つことと何ら変わらない。この認識を曖昧にしたままでは、侵略の世紀は終わらない。

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