侵略を語らぬ「現実主義」

――ウクライナ戦争をめぐるトッド言説と佐藤優の知的責任

(本稿は前稿

「アメリカ敗北」という物語 覇権衰退論と戦争勝敗論の混同をめぐって

からの議論を継続させている。)

0 最初に置かれるべき、単純で決定的な事実

ウクライナ戦争を論じるにあたり、まず確認されなければならない事実がある。

ロシアが侵略をやめ、軍を撤退させれば、戦争は即座に終結する。

 停戦が実現しない理由も、犠牲が拡大している理由も、核使用の危険が語られる理由も、この一点に集約される。

 戦争が続いているのは、ウクライナや欧州がそれを「望んでいる」からではない。侵略国家ロシアが侵略を継続しているからである。

 この自明な前提を明示せずに議論を始めるなら、その時点で論の射程は大きく歪む。

1 「敗北」概念の問題――ここでは簡潔に

 前稿で詳述した通り、エマニュエル・トッドの「アメリカ敗北」論は、戦争の勝敗と覇権構造の長期的変動を混同したものである。本稿ではこの点を繰り返さない。

 ただし、この概念的混乱が、侵略責任を周縁化し、次に述べるような視線の偏りを生み出している点だけは確認しておく必要がある。

2 侵略を語らず、欧州を批判するという選択

 トッドは文藝春秋1月号の佐藤優との対談で、「敗北を自覚している米国に比べ、欧州はロシアとの戦争を続けようとしている」「欧州がウクライナに“負け戦”を強いている」「日本は欧州に警戒すべきだ」と主張する。

 しかし、この構図の中で、侵略の主体であるロシアはほとんど語られない。

 ・戦争を開始した国。

 ・戦争を終わらせる決定権をもつ国。

 ・核使用を公言して威嚇している国。

 これらはいずれもロシアである。それにもかかわらず、批判の矛先が一貫して欧州に向けられるとき、議論は現実の因果関係を正確に反映しているとは言い難い。

 ここで起きているのは、単なる分析の偏りではない。

 侵略という行為そのものが、議論の中心から外されているのである。

3 佐藤優の役割――「理解」の名による媒介

 この言説を日本語圏で補強しているのが、佐藤優である。

 佐藤は、ロシア側の「恐怖」や「論理」を繰り返し紹介し、「ロシアはドイツ相手なら戦術核を使う可能性がある」と述べる。こうした発言は警告として理解されうる一方で、語り方次第では、ロシアの恫喝を所与の現実として受け入れる態度を読者に促す。

 ここで決定的に欠けているのは、「なぜロシアは侵略をやめないのか」という問いである。

 侵略をやめれば、戦争は終わる。その選択肢をロシア自身が拒否しているという事実が、議論の中心に据えられることはない。

 その結果、読者の視線は「ロシアをどう刺激しないか」「どこで妥協すべきか」へと誘導される。

 これは現実を直視する態度というより、強者の暴力を前提条件として内面化する思考様式に近い。

4 法と倫理――これは解釈の余地のある問題ではない

ウクライナ戦争は、複雑な地政学的対立として相対化されるべきものではない。

連憲章第24項に明確に違反した侵略戦争である。

・ロシアは侵略国であり

・ウクライナは自衛権を行使しており

・欧州はその正当防衛を支援している

 この枠組みを曖昧にすることは、法の問題であると同時に、倫理の問題である。

 「被害が拡大するから抵抗をやめよ」という言説は、一見すると人道的に聞こえる。しかしそれは、侵略によって生じた不正な現状を固定化する倫理でもある。

5 結論――言説が果たしている機能を問う

 以上を踏まえるなら、トッドの言説は、

・侵略を最初に断罪せず

・侵略を止める主体を問わず

・被侵略側とその支援者のみを批判する

という構造をもっている。

 その結果、この言説は意図にかかわらず、ロシアの侵略行為を相対化し、免罪する方向に機能していると言わざるをえない。

 佐藤優は、その機能を日本語圏で媒介し、強化している。

 日本が警戒すべきなのは、欧州そのものではない。

 侵略を侵略として語ることを回避する思考のあり方である。

 それを「現実主義」や「冷静な分析」と呼ぶべきではない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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